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補欠は異世界でも甲子園の夢をみるか  作者: クリオアサト


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第18.1話 雨の日の寺院

第18.1話 雨の日の寺院


ギルドでのギルドマスターとの相談を終えた後、サクはヘレナと交易の詳細を詰めた。

次回訪問時に優先すべき品、村で生産できる見込み、そして物の相場などの情報交換が主だった。

そしてサク個人の前回の町での冒険者活動の査定と精算も告げられた。


「ランス救援の時の獲物の査定金額から応援の費用なんかを精算した金額がこれ。今回の治療の費用もここから精算しておいたから、改めて支払いに行く必要はないわ。

ランスからは、きっちり経費を取りなさいよ」

各々の領収書を提示した上で一覧表で説明を受けたサクは、これについて異論が挟めなかった。


「応援の費用がちょっと高い気がするけど、文句はないわ。でもちょっとまかれへん?」


「無理ね。規定の料金と危険手当は明示されているもんだもの」

ヘレナはにべもない。


結局、わずかな現金しかサクの手には残らなかった。


「取るちゅうたって、大猫回収の同行してもらうんやし、あんまり取るんも差しさわりありそうやな。冒険者の応援費用だけでも持ってもらうように言うか」

ヘレナの有能さに舌を巻きながら思った。


そのあと、血で汚れた上着の処理で相談したところ、傷を縫ってくれた女性の働いている店を紹介してもらった。昨日、サクの傷を縫った女性はパッタと言うそうだ。

また、ギルドマスターから皮鎧を貸して貰うことになった。


*


服屋はギルドから少し歩いて5分程の所、道具屋、靴屋と並んだ三軒の中の一軒にあった。

近くまで歩いていくと、パッタは軒先に掛けている服を店に入れている最中だった。

空を見ると雲行きがあやしい。


「こんにちは、昨日はどうも」


「あら、こんにちは、傷のお加減はどうですか? 出歩いて大丈夫ですか?」


「おかげさんで普通に生活できてるで、そんで相談があってきてん。ギルドで上着、洗濯でどうにかでけへんか聞いたら、無理そうや、ちゅうて紹介してもろてん」


「冒険者の方って、丈夫なんですね。ちょっと店の中で待っててください」


ちょっとして店の中に商品を入れ終わり、パッタは改めて要件を聞いた。


サクは手に持った上着をパッタに見せた。

「これなんとかでけへんやろか」


「だいぶ血が染み込んでますね。洗っても、これは落ちないと思います。改めて染める方がいいかもしれないですね」

パッタは上着を広げ、表と裏をひっくり返して見た。

「生地はまだ使えます。破れも大きくはないですし。ただ、血の跡は残ります」


「やっぱりかぁ」

サクは頭をかいた。

「森で着る分には、血ぃついとってもええんやけどな。町の中でそれ着て歩くんは、ちょっとな」


「かなり目立ちますね」


パッタは正直に言った。

「濃い色に染め直せば、だいぶわからなくなります。黒に近い茶か、深い緑か」


「黒はあかん。暑そうやし、森でも目立つ」


「森で着るなら、深い緑か、濃い土色ですね」


「濃い土色で頼めるか?」


「できます。ただ、すぐには無理です。乾かす時間もいりますし」


「そらそうやな。今すぐ着るもんやないし、頼むわ」


パッタはうなずいて、上着を丁寧に畳んだ。


その時、ふとパッタの視線がサクの腰から下に落ちた。

「……前から少し気になっていたんですけど」


「ん?」


「その脚衣、変わってますね」


「脚衣?」


「脚に履くものです。村の人たちが履いてるものとも、冒険者の人たちのものとも少し違います」


「ああ、これか。俺の国では、ズボン言うてたな」


「ずぼん」

パッタはその言葉を口の中で転がすように言った。

「見てもいいですか?」


「見るだけやぞ」


「わかってます」

パッタは妙に真面目な顔でしゃがみこみ、サクの膝のあたりを見た。


「ここ、布が二重ですね。それと布地がちょっと変わってる」


「膝はすぐ破れるからな。森で膝つくことも多いし、岩にも擦る。それ用の布地や」


「それと、お尻のところもおなじ生地で厚くしてある」


「座るし、滑るし、引っかけるしな」


「股のところも布の種類が違う。それと脚を開いても突っ張らないようにしてます?」


「たぶん、そうやと思う」


「たぶん?」


「俺が作ったもんちゃう。村のねえさんたちがやったもんや」


「生地は村の方の特産ですか?」


「そんな感じかな」


「織も縫製もすごいです」


「そらどうも」


「山仕事の人や狩人には、こういう形の方がいいかもしれません。膝と尻だけ別布にして、破れたらそこだけ替える。股も少し余裕を取る。普通の脚衣より布は使いますけど、長く着られるかもしれない」


パッタの顔つきが変わっていた。

昨日、サクの傷口を縫った時と同じ顔だった。怖がっている、でも、遠慮しているでもない。布と針と、どう直せばよいかだけを見ている顔だ。

「お針子って、そういうこと考えるんやな」


「考えますよ。服は着て動くものですから」


「なるほどな」

サクは軽く膝を曲げてみせた。

「俺の場合、しゃがむ、またぐ、走る、転がる。そこが突っ張ると困るんや」


「転がる?」


「転がらなあかん時もある」


「冒険者って大変ですね」


「好きで転がっとるわけちゃうで」


パッタは少し笑った。

「これ、今度ちゃんと形を見せてもらっていいですか?」


「脱がへんぞ」


「誰も脱げとは言ってません」


「いや、念のためや」


「布の取り方が見たいだけです」


「それならええけど」

その時、軒先でぱらぱらと音がした。

サクが外を見ると、いつの間にか細い雨が降りはじめていた。空は低く、灰色の雲が町の屋根の上に垂れこめている。


「降ってきたな」


「すぐ強くなりそうです」

パッタは店の奥へ行くと、畳んだ雨具を持って戻ってきた。油を染み込ませた布を縫い合わせた外套だった。ところどころ直した跡はあるが、よく手入れされている。

「これ、使ってください」


「ええんか?」


「寺院まででしょう。返してくれればいいです」


「助かるわ」

サクは雨具を受け取り、肩にかけた。

思ったよりも重い。だが、その重みが雨をはじく頼もしさにも感じられた。縫い目には、油か樹脂のようなものが塗られている。

「これも、パッタが作ったんか?」


「作ったのは母です。私は直しただけです」


「ええ仕事やな」


パッタは少しだけ目を伏せた。


「……ありがとうございます」


その返事に、わずかな間があった。

サクはそれ以上、踏み込まなかった。

「ほな、上着は頼むわ。染め直しの代金は?」


「できあがった時でいいです。ギルドを通してもらってもかまいません」


「わかった。雨具、明日か明後日には返しに来る」


「頭の傷、無理しないでくださいね」


「医者には見てもろた」


「酒くさい医者でしょう」


「みんな知っとるんやな」


「町では有名です」


サクは苦笑した。


外に出ると、雨はもう細い糸ではなくなっていた。町の土道に小さな輪を作り、屋根を叩き、樽の縁を鳴らしている。

森の雨とは違う。

町の雨は、家の音を連れてくる。

サクは雨具の前を押さえ、寺院へ向かった。


雨具の裾から水が落ちる。歩くたびに、油布がかすかに鳴った。


*


寺院の門が見えてきた。


軒下に入ると、中から子どもたちの声がした。


「サク兄や!」


「帰ってきた!」


「濡れてる!」


「それ、なに?」


子どもたちがわっと寄ってきた。


「借りもんや。触るなよ。油ついとるかもしれへん」


「雨、やまない?」


「今日は無理やろな」


その一言で、子どもたちの顔が一斉に曇った。


「えー」


「三角ベースできへんやん」


「昨日も一緒にできなかったのに」


「雨きらい」


ぶうぶうと文句が出る。


サクは雨具を脱ぎ、軒先で水を払った。


「寺院の中で棒振ったら、シア先生に怒られるやろ」


「怒られる」


「前も怒られた」


「柱に当てたの、僕じゃない」


「お前やろ」


子どもたちが口々に言い合う。


奥からカンネが顔を出した。


「中で走らない。濡れたまま入らない。あんたも頭を濡らさない」


「はいはい。わかってます」


「はい、は一回」


「はい」


子どもたちがくすくす笑った。


「サク兄、今日、三角ベースなし?」


「なしやな」


「えー」


「つまらん」


「雨でもできるやつないん?」


サクは少し考えて、床に腰を下ろした。


「ほな、今日は話だけや」


「話?」


「ほんまもんの野球の話や」


子どもたちの目が少し変わった。


「ほんまもん?」


「三角ベースと違うの?」


「三角ちゃうん?」


「ちゃう。ほんまもんは、塁が四つある」


「四つ?」


サクは床に指で四角を描いた。


「ここが本塁。打つところや。こっちが一塁、二塁、三塁。打ったら、一塁、二塁、三塁と回って、ここに帰ってくる」


「帰ったら勝ち?」


「一点や」


「一点だけ?」


「その一点を積み重ねるんや」


子どもたちは床をのぞき込んだ。


「人は何人いるん?」


「ほんまは九人対九人や」


「九人!」


「そんなに?」


「守る方は、投げる人、受ける人、塁の近くにおる人、外で飛んだ球を取る人。ちゃんと役割がある」


「サク兄は何してたん?」


「俺は、受ける人やった」


「受ける人?」


「投げる人の球を、こう、しゃがんで受ける」


サクは座ったまま、軽く捕手の構えをして見せた。


子どもたちは喜んだ。


「変な座り方!」


「それで痛くないん?」


「慣れたら平気や。でも、ずっとやると膝と腰が死ぬ」


「死ぬん?」


「死なへんけど、死んだ気になる」


子どもたちはまた笑った。


サクは指で床に線を描きながら話した。投げる者と打つ者が向かい合うこと。打った球を取れば打った者が出られないこと。三つ失敗すれば攻守が交代すること。ここまでは今の三角ベースと同じ。

ただ、投げる者は打たれないように必死で投げること。遠くまで飛ばして、誰にも取られず、ぐるりと回って帰ってくると、皆が大騒ぎすること。


「そんなに遠くまで飛ぶん?」


「飛ぶやつは飛ぶ。俺はあんまり飛ばんかった」


「サク兄、弱かったん?」


「弱い言うな。俺は補欠や」


「ほけつ?」


「試合に出られへん人や」


「えー」


「サク兄、出られへんかったん?」


「あんまり出られへんかったな」


「かわいそう」


「まあ、そうやな。でもな」


サクは床に描いた本塁のところを指で押さえた。


「それでも、やることはぎょうさんある。試合に出るもんの準備を手伝ったり、けが人が出たり、調子が悪いもんとの交代で急に出たり。球ひろいにいったり」

「それとよう見てた。誰がどこに立って、どこへ投げて、どこへ打つか。ずっと見てた。見てるだけでも、けっこう覚えることはあるんや」


子どもたちは静かになった。


「出られなくても?」


「出られなくてもや。役に立つ時が来るかもしれへん。来ないかもしれへん。でも、見て覚えたことは残る」


セリーネがいつの間にかそこにいて、少しだけサクを見た。


サクはそれに気づかないふりをした。


「まあ、せやから、お前らも三角ベースできへん日でも、話聞いて、形だけ覚えとけ。晴れたら試す」


「ほんま?」


「四つ塁つくるん?」


「人数足りる?」


「足りへんかったら、少ない人数用にする。野球はな、人数が足りへん時ほど工夫するんや」


「それ、三角ベースやん」


「せや。三角ベースはえらいんや」


その言い方がおかしくて、子どもたちはまた笑った。


雨はその間も降り続いていた。


夕食は、薄い粥と豆を煮たもの、それに少しの干し肉だった。


サクは子どもたちに囲まれながら、椀を持って座った。怪我人だからと、カンネに壁際の風の当たらない場所へ追いやられた。


「サク兄、大猫の話して」


誰かが言った。


「大猫?」


「昨日の!」


「大きいやつ!」


「ほんまに猫なん?」


「猫ではないな。猫が怒って、腹減らして、山犬よりでかくなったようなやつや」


「こわっ」


「で、サク兄、勝ったん?」


「勝ったいうか、生き残ったいうか」


「どうやって?」


子どもたちの顔が一斉に近づいてきた。


シアが咳払いをした。


「食べながら騒がない」


子どもたちは少しだけ姿勢を戻した。


サクは椀を置き、声を少し低くした。


「森の中でな。こっちは一人。向こうは、でっかい大猫や。目はぎらぎら、牙はこれくらい」


サクは両手で大げさに牙の長さを示した。


「そんなに?」


「それは大きすぎ」


「話が大きい」


「ええねん。こういう話は、ちょっと大きめに言うもんや」


子どもたちは笑った。


「そいつがな、木の陰から、ぬうっと出てきたんや。足音もせえへん。気配だけや。森が急に静かになる」


子どもたちの顔が真剣になる。


「サク兄、逃げへんかったん?」


「逃げたら追いつかれる。せやから、逃げへん顔をした」


「逃げへん顔?」


「ほんまは逃げたい。でも顔だけは、俺は逃げへんぞ、という顔や」


「中は?」


「中は、うわぁ、どうしよ、や」


子どもたちは吹き出した。


「それでな。大猫が、こう、低く構える」


サクは手を床に近づけ、獣が身を沈める様子をまねた。


「尻尾がゆらり、ゆらり。耳がぴくり。俺は思った。これは来る。絶対来る。たぶん来る。来てほしない。でも来る」


「どっちなん!」


「来たんや」


サクはそこで、椀の横に置いた匙をひょいと持ち上げた。


「その瞬間、俺はこう」


匙を槍のように構えて、軽く突き出す。


「えい」


「えい、なん?」


「本番ではもっと必死や。でも、ここで本気でやったら粥が飛ぶ」


子どもたちは腹を抱えて笑った。


シアも、口元を押さえている。


「ほんで、大猫は?」


「ごろごろごろーっと転がった」


「猫みたい」


「いや、猫みたいに可愛くはない。でかい毛の塊が、どすん、や」


「サク兄、こわくなかったん?」


サクは少しだけ間を置いた。


「こわかったで」


子どもたちは黙った。


「でもな、こわい時に、こわいこわい言うてるだけやと、もっとこわくなる。せやから、やることを一つだけ決める。息をする。足を見る。相手の目を見る。杖を握る。なんでもええ。一つずつや」


「一つずつ」


小さな子がまねるように言った。


「そうや。一つずつや」


サクは笑って、また椀を持った。


「まあ、今回は俺の勝ちや。明日、あいつを回収に行く。肉になるか、皮になるか、骨になるか。森のもんは、ちゃんと使わせてもらう」


「大猫、食べるん?」


「食えるかどうかは知らん。うまかったら食う。まずかったら考える」


「食べたい!」


「えー、こわい」


「牙ほしい」


「爪ほしい」


子どもたちはまた騒ぎ出した。


シアが今度は本気で手を叩いた。


「食事中です」


「はい」


子どもたちの返事がそろった。


寺院の食堂には、雨の音と、子どもたちの笑い声と、薄い粥の湯気が混じっていた。


サクはふと、その光景を眺めた。


この町に来たばかりのころ、寺院の子どもたちはもっと遠慮がちだった気がする。


笑う時も、怒られないように笑っていた。


今は、少しうるさい。


少し図々しい。


それが悪いことだとは、サクには思えなかった。


夜になっても、雨はやまなかった。


子どもたちは寝床に入り、食堂の灯りも落とされた。寺院の中は静まり返り、屋根を叩く雨の音だけが続いている。


サクは客用の粗末な寝台に横になっていた。


頭の傷が、時々じんと痛む。


痛みよりも、昼間の疲れが重かった。ギルドで金の話をし、服屋で上着を預け、子どもたちに野球の話をし、大猫の話を大げさに語った。


ようやく眠りかけた時だった。


小さな声が聞こえた。


泣き声というほど大きくはない。


けれど、息を詰まらせるような、喉の奥で引っかかるような声だった。


サクは目を開けた。


しばらく耳を澄ます。


また聞こえた。


「……ん、んん……」


子どもの声だ。


サクは静かに起き上がった。


寝台から足を下ろし、雨具ではなく、自分の上着を肩にかける。灯りはつけなかった。廊下の端に残った小さな火だけで十分だった。


声のする方へ歩く。


子どもたちの寝室の隅で、小さな男の子が布を握りしめていた。


最近、寺院に来た子だ。


三つくらいだと聞いている。名はまだ覚えきれていない。昼間は他の子の後ろをついて歩くだけで、あまり喋らなかった。


今は目を閉じたまま、泣きそうな顔でぐずっている。


「……おかあ……」


サクは足を止めた。


胸の奥が、少しだけ重くなった。


起こさないように近づき、寝台の横にしゃがむ。


「おう。どうした」


男の子は目を開けた。


暗がりの中で、サクの顔を見ても、すぐには誰かわからなかったらしい。泣き声が強くなりかけた。


「しー。大丈夫や。サクや」


「……さく?」


「せや。昼間、でっかい猫の話したおっちゃんや」


「おっちゃん?」


「兄ちゃんや。そこは間違えたらあかん」


男の子は泣きながら、少しだけ首をかしげた。


サクは小さく笑い、寝台の縁に腰を下ろした。


「怖い夢見たんか?」


返事はなかった。


ただ、布を握る手に力が入った。


「そか。怖かったな」


サクはそれ以上聞かなかった。


どこから来たのか。誰と別れたのか。なぜここにいるのか。


そういうことは、今聞くことではない。


「雨の音がうるさいな」


男の子は鼻をすすった。


「でもな、屋根があるから大丈夫や。雨は外や。ここまでは来えへん」


サクは声を低く、ゆっくりにした。


「ここには、布団がある。飯もある。セリーネもおる。シアもおる。うるさい兄ちゃん姉ちゃんらもおる」


男の子の呼吸が、少しだけ落ち着いた。


「それに、俺もおる」


サクはそっと男の子の背中に手を置いた。


「寝られへん時はな、息を数えたらええ。ひとつ吸う。ひとつ吐く。そんだけや」


男の子はサクを見ていた。


「いち」


サクが小さく言う。


男の子の胸が上下する。


「に」


雨が屋根を叩く。


「さん」


男の子の手から、布を握る力が少し抜けた。


「し」


「……し」


小さな声がまねた。


「そうや。上手いな」


サクは微笑んだ。


「ご」


「ご」


「ろく」


「……ろく」


何度か数えるうちに、男の子のまぶたが重くなっていった。


サクは昔、小さい子を寝かしつけた時のことを思い出していた。


あの時も、どうしていいかわからなかった。


泣く子どもを泣き止ませる方法など、誰かに習ったわけではない。ただ、そばにいて、声を低くして、怖いものがもう来ないような顔をするしかなかった。


男の子の呼吸が、ようやく深くなった。


サクは手を離そうとして、少し待った。


急に離すと、起きる。


それも、昔覚えた。


しばらくしてから、そっと手を離す。


男の子は眠っていた。


サクは立ち上がりかけて、廊下の方に人の気配を感じた。


振り向くと、柱の陰にシアとセリーネが立っていた。


薄い灯りの中で、白い衣だけが2つ、ぼんやり浮かんでいる。表情まではよく見えない。


「……起こしましたか」


シアが小さく言った。


「いや。俺が勝手に起きただけです」


サクも声を落とす。


シアは寝台の上の男の子に目を向けた。


「その子は、まだ夜に起きることがあります」


「そら、そうやろな」


サクは布を少し直した。

「三つくらいやろ。知らん場所で寝るんは、こわいやろ」


シアは返事をしなかった。


ただ、男の子の寝顔を見ていた。


「泣いてたら、呼んでくれてもええで」


サクがそう言うと、シアはわずかに目を伏せた。


「……お気遣いはありがたいですが、ここは寺院です」


その声は冷たくはなかった。


けれど、柔らかくもなかった。


線を引く声だった。


サクはうなずいた。

「せやな。出過ぎたことした」


「いえ」


シアは少しだけ首を振った。

「助かりました」


それだけ言って、また黙った。


廊下には雨音だけが残った。


サクは、これ以上何かを言うべきではないと思った。

「ほな、俺も寝ますわ」


「はい」


シアは短く答えた。


サクが廊下を戻りかけた時、背後で若い、小さな声がした。


「サクさん」


「ん?」


「……頭の怪我があります。無理はしないでください」


声の主はセリーネだった。


「わかった」


サクはそれだけ返した。


寝台に戻る途中、サクは少しだけ息を吐いた。


寺院の中は静かだった。


昼間、子どもたちがぶうぶう言い、野球の話に目を輝かせ、大猫の話で笑っていた場所とは思えないほど、夜の寺院は静かだった。


けれど、その静けさの底に、小さな寝息がいくつもある。


それだけで、ここは守る値打ちがある場所なのだと思った。


明日は、大猫を回収しに行く。


森の仕事だ。


サクは寝台に横になり、雨の音を聞きながら目を閉じた。


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