第17話 ギルドに報告と怪我の治療
第17話 ギルドに報告と怪我の治療
獣との死闘のあと、サクは森で一晩を明かした。
眠れた、とは言えなかった。
火を小さく保ち、背を岩に預け、夜の森の音を聞きつづけた。
頭の傷は、思ったより血が出た。
左目に流れ込んだ血は何度ぬぐっても乾き、まぶたの端を引きつらせた。
痛み止めは持っていた。だが、飲まなかった。
薬で感覚を鈍らせるわけにはいかない。
夜の森で、それは死に近づくことだった。
朝になっても、体は重かった。
肩を回すと、傷の奥で鈍い痛みが走る。
額に巻いた布は、乾いた血で固くなっていた。
それでも、町へ向かわなければならない。
水を飲み、残していた干し肉を噛み、腹に入れた。
口の中に味はほとんどなかった。
ただ、噛んで、飲み込んだ。
サクは荷を背負い、町へ向けて歩き出した。
道々、いつものように罠も仕掛けていく。
持ってきた紐に、森で採った蔦を合わせる。餌になるものを括りつけ、獣道の脇にくくり罠を置いた。
ただ、いつもより数は少なかった。
しゃがむたびに頭が重くなり、立ち上がるたびに視界の端が白くちらつく。
「……あかんな。欲張ったら、こっちが獲物になる」
小さくつぶやいて、サクは罠の数を絞った。
町で交易の品がまとまるまでの待ち時間。
その間に少しでも狩りをする。鹿や猪、キノコや山菜。取れたものはギルドに出し、食材は寺院にも回す。
それが、サクのいつもの町行きだった。
だが、この日のサクは、いつもとは少し違っていた。
*
日が傾きかけたころ、町の門にサクが現れた。
門番の男は、最初、いつもの荷運び人が来たのだと思った。
だが、すぐに目を細めた。
サクの上着は、ところどころ赤黒く汚れていた。
頭に巻いた布にも血が滲んでいる。左目の周りには、乾いた血の跡が残っていた。
「おい。どうした、その怪我」
門番は思わず声をかけた。
サクは足を止め、片手を軽く上げる。
「ちょっと獣に不意打ち食らってな。爪が頭にかすってもうてん」
「かすったって顔じゃないだろ。大丈夫か」
「頭やから血ぃぎょうさん出ただけや。傷はそんな深ない」
そう言うサクの声は、いつもと大きくは変わらなかった。
それがかえって、門番には気味悪く見えた。
この男には、前から何度か驚かされている。
重い荷を背負って森からふらりと現れたり、町の者が避ける道を平気で使ったりする。
だが、血まみれで平然としている姿は、さすがに普通ではなかった。
「手を貸そうか」
「大丈夫や。ギルドまで行ける」
「無理するなよ」
「ありがとう。おっちゃんもご苦労さんやな」
サクはそう言って、また歩き出した。
門番は、その背中をしばらく見送った。
そして、ふと気づく。
そういえば、あいつとまともに話したのは初めてかもしれない。
*
ギルドに着くと、サクは戸口の横に荷を下ろした。
背負子を外した瞬間、肩から力が抜ける。
少しだけ息を吐いてから、扉を開けた。
「どうしたの、その血!」
受付にいたヘレナが、声を上げた。
いつもの無愛想な顔が、一瞬で変わった。
ヘレナは受付台を回り込み、サクの前まで駆け寄ってくる。
「森の奥でな。大きな猫みたいな獣に不意打ち食らってん。爪がかすっただけや」
「かすっただけでそんなになるわけないでしょ」
ヘレナの目が、額に巻かれた布へ向く。
血は乾いているところもあれば、まだ滲んでいるところもあった。
「先に先生に見てもらって。荷物の検品はこっちでやるから」
「いや、先にギルドに話し通さなあかん。森に置いてきた獲物がある」
「獲物?」
ヘレナの眉が動いた。
「さっき言うた、大きな猫みたいな獣や。全部は持って来られへんかった。場所は覚えてる。腐る前に、人手出して回収したい」
「……それで、その怪我でここまで来たの?」
「せや。先に段取りだけつけとかな、明日には他の獣に荒らされるかもしれん」
ヘレナは一瞬、言葉を失った。
目の前の男は、頭に血の滲んだ布を巻き、上着を赤黒く汚している。
それなのに、自分の傷より、森に残した獲物の心配をしている。
「あなたね」
ヘレナの声が低くなった。
「まず治療」
「いや、でもな」
「まず、治療」
今度は言い切った。
サクは少し困ったように、戸口の横に置いた荷を見る。
「荷だけ中に入れさせて。罠の獲物と、途中で採ったもんがある。あと、場所も地図で説明せなあかん」
「荷物はこっちで入れる。場所の説明は、座ってから。先生を呼んでから」
そう言うと、ヘレナは酒場の方へ振り向いた。
「先生、呼んでちょうだい! 怪我人!」
酒場にいた冒険者たちが、一斉にこちらを見た。
そのうちの一人が、慌てて立ち上がる。
サクはため息をついた。
「……大げさやなあ」
「大げさじゃない」
ヘレナは即座に返した。
その顔を見て、サクはようやく口を閉じた。
サクは、荷物の中に手を入れた。
ヘレナがすぐに眉を吊り上げる。
「動かないでって言ったでしょ」
「これだけ。先に渡しとかなあかんねん」
「あとでいい」
「あとやと、俺が忘れる」
「忘れるくらいなら、たいした用じゃないでしょ」
「いや、これ忘れたらサリナさんに怒られる」
その名前を出されて、ヘレナは一瞬だけ黙った。
サクは荷の中から紙束を取り出した。
何枚かの紙が、布紐で丁寧にまとめられている。血がつかないよう、油紙で包まれていた。
「村から持ってきた荷のリストや。サリナさんがまとめてくれた」
ヘレナはそれを受け取った。
紙を開き、目を通す。
すぐに、表情が変わった。
字は整っていた。
品目ごとに数が分けられ、重さや状態、誰の品かまで書き添えられている。
書き方は、ギルドの書式に沿っていた。
「……これ、ギルドの書き方ね」
「前に持って帰ったやつ、写してもろたんよ。村であとから揉めんように、最初から合わせといた方がええやろって」
「奥さんが?」
「村長の奥さんや。サリナさん」
ヘレナは紙束をもう一度見た。
丁寧な字だった。
ただ丁寧なだけではない。こちらが確認しやすいように、余白の取り方まで考えられている。
「……よくこれだけ持ってこれたものね」
半ば呆れたように、ヘレナが言った。
サクは肩をすくめた。
「金目になるもんが少ないねん。塩、買わなあかんさかいな」
「だからって、怪我した状態でこれを?」
「怪我する前に背負ってた荷ぃや。途中で捨てるわけにもいかんやろ」
「捨てなさいよ、命に関わるなら」
「命に関わるほどやない思うてん」
「それを決めるのは先生」
ヘレナはぴしゃりと言った。
サクは小さく息を吐いた。
「……はい」
ヘレナはリストを受付台に置き、荷の方へ目を向けた。
「取引品は、このリスト通り?」
「だいたいは。あと今回は、取引と関係ないもんも少しある」
「関係ないもの?」
サクは荷を解き、床に布を広げた。
まず出てきたのは、子供用のズボンだった。
何本もある。新品ではないが、きれいに洗われ、畳まれている。膝や裾には丁寧に当て布がされていた。
ヘレナはそれを見て、少し声を落とした。
「これは?」
「寺院の子供らに。村で余った布と古着を直したやつや。サイズはばらばらやけど、使えると思う」
「……そう」
ヘレナはズボンを一枚手に取り、縫い目を見た。
粗末ではない。
むしろ、長く使えるように考えられている。
子供が転んで破りやすいところには、最初から厚めの布が当てられていた。
「これも奥さんが?」
「サリナさんと、村の女衆やな。俺は運んだだけ」
「運んだだけって量じゃないのよ」
ヘレナは呆れたように言ったが、声は少し柔らかくなっていた。
サクは次に、別の紙包みを取り出した。
こちらは他の荷より丁寧に包まれていた。
「それと、これ」
「今度は何?」
「サリナさんから。ヘレナさんに、やて」
ヘレナの手が止まった。
「私に?」
「うん」
「ギルドの規則で、個人的な贈り物は受け取れないのよ」
ヘレナはすぐに言った。
その言い方は、きっぱりしていた。
だが、少しだけ困ったようでもあった。
サクは首を振る。
「そんな大層なもんやないよ。商いの種になるか、町の人の感想が聞きたいんやって。ヘレナさんなら、良し悪しをはっきり言うてくれそうやから、て」
「……そういうことなら、確認だけはするわ」
「せやろ。感想だけでええねん。受け取るかどうかは、そのあと決めてくれたら」
ヘレナは少し迷ってから、紙包みを受け取った。
紐を解き、紙を開く。
中から出てきたものを見て、ヘレナは言葉を止めた。
白っぽい布で包まれた、柔らかな塊だった。
両手で持つと、形がふわりと沈む。押せば戻る。重さは見た目よりずっと軽い。
「……なに、これ」
ヘレナは目を瞬かせた。
「クッション? 枕?」
「どっちでも。羽毛を詰めたもんや」
「羽毛?」
「水鳥の羽や。前に狩ったやつの羽、洗って乾かして、臭い抜いてな。村のねえさん方が布に詰めて形にしてくれた」
ヘレナはもう一度、手の中のそれを押した。
ふわりと沈む。
それでいて、ぺちゃんこにはならない。
「……軽い」
「せやろ」
「これ、普通の綿よりずっと軽いわね」
「たぶん、寝る時に使うとええと思う。肩とか首とか楽かもしれん。俺はようわからんけど」
「あなた、試してないの?」
「一個しかなかってん。試す前に町へ持ってけ言われた」
ヘレナは枕を見下ろしたまま、少しだけ口元を緩めた。
「奥さん、商売上手ね」
「俺もそう思う」
「しかも、私に感想を聞くあたりがずるいわ」
「正直に言うてくれそうやからな」
「それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
サクが真顔で言うと、ヘレナは小さく息を吐いた。
「……わかった。これは預かる。あくまで試作品として。ギルド職員への贈り物ではなく、商品の評価依頼。そういう扱いにする」
「助かるわ」
「帰る時に感想を言えばいいのね」
「うん。できれば、寝てみた感想がええらしい」
「寝てみた感想って……」
ヘレナは呆れたように枕を見た。
*
ヘレナはそこで、はっと気づいたようにサクを見た。
「あんた、座ってなさい」
「いや、荷物が」
「座る」
短く言い切られ、サクは口を閉じた。
ヘレナはすぐに、こちらをぼうっと見ている冒険者たちへ振り返った。
「診療所に誰か走った?」
酒場の奥から、一人の冒険者が手を上げる。
「おう、もう行ったよ」
「それと、お針子の子を一人連れてきて」
その言葉に、サクは首をひねった。
「……なんでお針子なん?」
ヘレナは答えなかった。
冒険者も何も言わず、すぐに外へ走り出していった。
サクだけが、少し納得のいかない顔でヘレナを見る。
「頭、縫うかもしれないでしょ」
「それでお針子?」
「この町では、その方が早い時もあるの」
「……なるほど?」
わかったような、わからないような返事をすると、ヘレナに睨まれた。
「動かない」
「はい」
しばらくして、ギルドの扉が開いた。
鞄を提げた初老の男が、ゆっくりと入ってくる。
診療所の医者だった。
「誰だね、怪我したってのは」
男はとろんとした目であたりを見まわし、それからサクの頭に巻かれた布を見つけた。
「ああ、お前さんかい」
近づいてくると、わずかに酒の匂いがした。
昼から飲んでいたのかもしれない。
サクは思わず、ヘレナの方を見た。
ヘレナは表情を変えなかった。
この町では、これも想定内らしい。
医者はサクの前に腰を下ろし、鞄を開けた。
消毒用の酒精、薬草を煮詰めた軟膏、細い器具。ひとつひとつは年季が入っているが、手入れはされている。
「見せてもらうよ」
医者は自分の手を酒精で拭き、サクの頭に巻かれた布へ指をかけた。
固まった血が髪に絡んでいる。
布を剥がすたび、頭皮が引っ張られ、サクの眉がわずかに動いた。
「痛むかね」
「まあ、痛いわ」
「そりゃそうだ」
医者は悪びれもせず言った。
布が外れると、傷が露わになった。
額の横から頭の上へかけて、爪で裂かれたような傷が走っている。
医者はとろんとしていた目を細めた。
その瞬間だけ、顔つきが変わった。
「ふむ」
指先で傷の周りを押さえ、骨の様子を確かめる。
手は小刻みに震えている。
だが、見る場所は外していない。
「骨は見えとるが、割れてはおらんようだな。吐き気は?」
「ないで」
「目まいは」
「少し。今はまし」
「意識は飛んだか」
「飛んではないです」
「なら、運がよかったな」
医者は短く言い、消毒の準備をした。
「血は止まっとる。だが、もう一度洗う。出血するぞ」
「はい」
「それから縫う」
その時、横からヘレナが口を挟んだ。
「いま、お針子を呼んでいます。少し待ってください」
医者は手を止め、少しだけ安心したように頷いた。
「ふむ。助かるな。頭は皮が薄い。わしの手では、細かいところが少し難しい」
悪びれずに言う。
サクは、医者の小刻みに震える手を見て、妙に納得した。
「なるほど。そういうことか」
「そういうことよ」
ヘレナが低く言った。
「だから最初から座ってなさいって言ったの」
「いや、そこまでは言うてへんやろ」
「言わなくてもわかりなさい」
「無茶言うなあ」
そうこうしているうちに、先ほどの冒険者が戻ってきた。
その後ろから、若い女が入ってくる。
お針子だろう。手には小さな道具箱を抱えていた。
酒場にいたいかつい男たちの視線が一斉に向き、女は少し居心地悪そうに首を縮める。
「こちらです」
ヘレナが場所を空けた。
お針子はサクの前に立ち、傷を見る。
一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに道具箱を開いた。
「失礼します。少し痛みます」
言葉少なにそう言うと、針と糸を取り出した。
医者が糸と針を酒精で拭き、傷口を洗う。
酒精が触れた瞬間、焼けるような痛みが走った。
「っ……」
サクの喉から、短く息が漏れる。
「痛むかね」
「そら、痛いです」
「そりゃそうだ」
医者はまた同じ調子で言った。
お針子は無駄口を叩かなかった。
サクの髪を避け、傷の端を合わせる。
針が入るたび、頭の皮が小さく引かれた。
ちくり、ちくりとした痛みが続く。
サクはその痛みを紛らわせるように、次の段取りを考えていた。
森に残してきた獣。
場所の説明。
明日の回収。
人手。
荷車は入れない。担架か、丸太を使うか。皮を剥ぐなら現場か、町へ持ち帰ってからか。
そこまで考えて、ふと気づいた。
これだけの騒ぎになっているのに、ギルドマスターが出てこない。
「ギルドマスターは留守なんか?」
ヘレナがリストをまとめながら答えた。
「ギルマスは昼から領主館に呼ばれてるわ。今日はもう帰ってこないと思う」
「ふうん。明日は?」
「朝からなら、いつも通りいると思うけど」
「ほんなら、明日の朝に来るわ。相談することがあるよって」
ヘレナは顔を上げた。
「ちょっと。安静にしておいた方がいいんじゃないの? 疲れてもいるでしょ」
「大したことないって」
「その頭で言う台詞じゃない」
すると、医者が横からのんびりと言った。
「冒険者は自己責任、というのがこの町の決まりじゃったな」
ヘレナが医者を睨む。
医者は肩をすくめた。
「わしは止めた、とだけ言うておくぞ。少なくとも今夜は酒を飲むな。走るな。喧嘩するな。できれば寝ろ」
「酒は飲まん。喧嘩もせえへんと思う」
「思う、では困るんじゃがな」
「寝るのは……宿取ってから考えます」
「考えることではない。寝るんじゃ」
医者はそう言って、薬を塗る準備をした。
その間にも、お針子の手は止まらなかった。
針目は細かく、乱れがない。布を縫うように、しかし布よりずっと慎重に、傷の端を合わせていく。
最後の糸が結ばれると、お針子は小さく息を吐いた。
「終わりました」
サクはようやく肩の力を抜いた。
「ありがとう。上手やな」
お針子は少しだけ目を伏せた。
「布よりは、やりにくいです」
「そらそうやろな」
サクがそう言うと、周りにいた冒険者の何人かが小さく笑った。
ヘレナは笑わなかった。
医者が傷の上に薬を塗り、新しい布を巻く。
「今日はもう余計なことをするな。傷が開けば、今度はもっと面倒になる」
「はい」
「明日の朝も、本当は勧めん」
「でも、用事があるし」
「じゃろうな」
医者はため息をついた。
「なら、せめて熱が出たら動くな。吐き気が出たら動くな。目がかすむなら動くな。どれか一つでもあれば、診療所に来い」
「わかりました」
「本当にわかっとるか?」
「たぶん」
ヘレナが横から言った。
「わかってないわね」
サクは小さく肩をすくめた。
「……努力します」
医者は呆れたように鼻を鳴らし、道具を鞄に戻した。
お針子も針を片づける。
サクは頭に巻かれた新しい布にそっと触れようとして、ヘレナの視線に気づき、手を下ろした。
「触らない」
「触ってへん」
「触ろうとした」
「まだ未遂や」
「未遂でも駄目」
そう言われて、サクは諦めたように手を膝の上に置いた。
床にはまだ、村から持ってきた荷が並んでいる。
受付台の上には、サリナの丁寧な字で書かれたリスト。
その横には、試作品の羽毛の枕。
そして、森の奥には、まだ大きな獣が横たわっている。
サクは明日の段取りを頭の中で組み直しながら、静かに息を吐いた。




