第16話 町へ向かう
第16話 町へ向かう
日が昇る前、サクは村長の家へ向かった。
荷を引き受け、背負い、村を出る。
もう何度も繰り返してきたことだ。
「おはようさん」
村長の家の前では、サリナが待っていた。
まだ薄暗い中、肩に羽織ものをかけ、少し困ったように笑っている。
「おはよう。村長は?」
「あんたが来たら必ず起こせ、ちゅうとったんやけどな。起きひんのよ」
サリナは苦笑した。
「昨日、サジさんが報告に来とってな。そのまま酒になってもうて」
「ああ……サジさん、酒強いもんな」
「強いなんてもんやないわ。勢いついたら、ほんまによう飲むんやから」
そう言ってから、サリナは家の奥をちらりと見た。
「それで、この有様や」
サジが酒に強いのは、サクも知っている。
だが、村長も弱い方ではなかったはずだ。
「ええやん。寝かしとき。そんなことも、たまにはあるわ」
サクは笑って返した。
用意されていた荷を確かめる。
紐の締まり具合、背負子のゆがみ、肩に当たる位置。
それから、自分の装備を足した。
今回の荷は、子供たちのズボンがある。
重さそのものはどうということもないが、かさばる。
森を抜ける時、少し動きにくいかもしれない。
家の中から、サリナが湯気の立つハーブ茶を持ってきた。
「飲んでいき」
「おおきに」
サクは両手で受け取り、ひと口飲んだ。
体の奥に、じんわりと温かさが落ちていく。
「サジさんの話は、帰ってから聞くわ。村長には、飲みすぎ注意やって言うといて」
「言うても聞く人やったら、今ごろ起きとるわ」
サリナは小さく笑った。
けれど、サクは家の奥を見なかった。
村長が出てこない。
それだけで、なんとなくわかることもある。
サジの報告は、あまり良くなかったのかもしれない。
出立前のサクに、余計なものを背負わせたくなかったのかもしれない。
東の空が、ようやく白み始めていた。
サクは少し高くした台の上に置かれた荷の前に立つ。
膝を入れ、肩を合わせ、一息で背に乗せた。
ずしり、と重みがかかる。
いつもの重さだ。
けれど今日は、少しかさばる。
「そろそろ行くわ」
「気をつけてね。無理したらあかんよ。荷より体、大事にしぃよ」
「わかってる。ほんなら、行ってきます」
サクはまだ暗い道へ踏み出した。
町のある方角へ、村の灯りを背にして歩き出す。
*
昼過ぎには、最大の難所である崖を降りることができた。時間としては上々である。
これまで何度も登り降りしてきた道だ。サクはそのたび、気づいた工夫を一つずつ足してきた。
ほとんど足場のない場所。垂直に近い壁。場所によっては、わずかに逆勾配になっている岩肌。
そういうところには杭を打ち込み、麻で編んだ丈夫なロープを渡した。体に巻いたロープを引っかけられるよう、カラビナのような金具も作ってもらった。村の大工のモルや、つむぎ小屋のメルナが、ああでもない、こうでもないと知恵を出してくれたものだ。
最初にここを越えた時に比べれば、格段に安全になっている。
サクはそう実感していた。
崖を降りきると、少し高めの岩の上に背負子を降ろした。肩から荷が離れた瞬間、背中が一気に軽くなる。
フクロナガサをつけた杖を手に取り、周囲をうかがった。
いつもの偵察である。
森の匂い。風の通り。鳥の声。枝の揺れ。獣の気配。
少しでも違うものがないか、感覚を研ぎ澄ませる。
少し先の開けたところまで足を伸ばした。
静かだった。
いや、静かすぎる。
小動物の気配が少ない。鳥も、いつもより声が遠い。
サクはその違和感を胸に残したまま、荷のところへ戻った。背負子を背負い直し、肩紐を確かめる。
しばらく進むと、岩場は終わり、藪の深いところに入った。
フクロナガサで枝を払い、蔓を切り、少しずつ道を作る。前回通った跡は残っている。迷うことはない。
けれど、森の生命力は強い。人が一度踏んだくらいの道など、すぐに飲み込んでしまう。
年単位でほったらかされたサジの道行き。
そして、今朝の村長の家でのこと。
サクの胸に、もやりとしたものが湧いた。
それを振り払うように、少し足を速めようとした。
その時だった。
背中に、どん、と衝撃が来た。
「がはっ……!」
肺の空気が、一気に押し出される。
足が前へもつれた。
倒れそうになる。
サクは歯を食いしばって踏ん張った。
背後だ。
何かが、後ろから来た。
ばりばり、と荷を引っかく音がした。布が裂け、紐がきしむ。
考えるより先に、サクは背負子と体を結んでいた紐を解いた。荷を捨てるようにして、横へ飛ぶ。
その瞬間、黄色い影が視界をかすめた。
大きい。
前足が横から振られる。
サクは頭を反らした。爪は直撃しなかった。だが、右手に持っていた杖に当たり、フクロナガサごと弾き飛ばされた。
まずい。
サクは地面を転がり、反対側へ逃げた。
身を起こす。
襲ってきたものが見えた。
虎のようでもあり、豹のようでもある。猫型の野獣だった。
黒と黄色がかった茶の斑点模様。低く構えた体。分厚い肩。しなやかな背。動くたび、皮の下で強靭な筋肉がうねる。
こいつは捕食者だ。
サクは息を整えようとした。
その時、額から流れた血が左目に入った。
視界が半分、赤くにじむ。
それを拭おうとした、その一瞬。
獣が来た。
速い。
前足が肩に当たり、サクの体が後ろへ倒された。
「ぐっ……!」
地面に背中を打つ。
すぐに重みがのしかかってきた。
獣が覆いかぶさる。
完全に、上を取られた。
牙が喉に向かって落ちてくる。
サクは左腕を上げた。手甲の部分を、獣の口へ押し込む。
ぎり、と牙が金具と革に食い込んだ。
重い。
臭い。
熱い息が顔にかかる。
サクは右手を脛へ伸ばした。
脛には、硬い麻布を巻いている。そこに、長めの鉄針を何本も差し込んであった。
指先が一本を探り当てる。
抜く。
握る。
突く。
獣の脇。左前足の下あたり。柔らかいところへ、力いっぱい突き立てた。
獣が悲鳴のような唸り声を上げた。
重みが消える。
獣は飛びのき、その場で身をよじった。地面を掻き、牙を剥き、苦痛に暴れる。
それでも目は、サクを捉えていた。
憎悪に満ちた目だった。
サクは立ち上がった。
額の血を手の甲でぬぐう。左目はまだ見えにくい。
だが、右目は生きている。
その一瞬で、サクは弾き飛ばされたフクロナガサへ飛び込んだ。
杖を拾い、構える。
獣が低く唸った。
サクは息を吐いた。
「やってくれるのぉ」
喉の奥で、笑う。
「ノーアウト三塁、耐えたでぇ」
杖の先を、獣に向ける。
「今度はこっちの回や」
獣がサクを見た。
サクも獣を見る。
左目は相変わらず、血で塞がったままだ。見えているのは右目だけ。息は荒い。肩も痛む。
それでも、目は逸らさなかった。
ほんの一瞬が、永遠に続くように感じられた。
森の音が遠のく。
獣の唸り声と、自分の息だけが残る。
だが、静寂は長く続かなかった。
獣が動いた。
後ろ脚で立ち上がる。前足を広げ、上から覆いかぶさるように飛びかかろうとした。
サクは、その瞬間を待っていた。
右手一本で杖の端を握る。
腰を落とす。
半歩、前へ入る。
フクロナガサの刃を、獣の喉元へ突き込んだ。
ずぶり。
嫌な感触が、手に伝わった。
次の瞬間、杖ごと大きな痙攣が伝わってくる。
獣の体が、左へ傾いた。
そのまま横倒しになる。
地面を掻く。足が跳ねる。喉の奥で、空気の漏れるような音がした。
サクは刃を抜かなかった。
抜けば、まだ動くかもしれない。
ただ杖を握り、全身の力で押さえた。
やがて痙攣は弱くなった。
足の動きが止まる。
尻尾が一度だけ揺れ、そして静かになった。
それでもサクは、しばらく動かなかった。
息を殺し、構えたまま、獣を見下ろしていた。
ゆっくりとフクロナガサを引き抜く。
血が刃を伝った。
サクは杖の先で、獣の肩をつついた。脇腹をつつく。前足を押す。
動かない。
そこでようやく、片膝をついた。
「あぁ……しんど」
息が漏れた。
「ゲームセットや」
しばらく、肩で息をすることしかできなかった。
このまま座り込んだら、もう立てない気がした。だから片膝をついた姿勢のまま、じっとしていた。
頭が痛い。
肩も痛い。
左腕には、牙を受けた重さが残っている。
ようやく少し動けるようになって、腰袋からアルコールを取り出した。布に含ませ、額の傷口を拭う。
「つっ……」
思わず声が出た。
血をぬぐい、もう一度アルコールを当てる。痛みで視界が白くなる。
それから、ばあさんの傷薬を指先に取り、傷口の周りへ塗った。
染みる。
腹の奥まで響くような痛みだった。
「ばあさん、ほんま容赦ない薬作るわ……」
小さくぼやいてから、頭に洗いざらしの布を巻いた。
そして次に、サクは荷を確認した。
獣に引っかかれた外側の布は、ばりばりに裂けていた。紐も何本か切れかけている。
だが、中の糸は無事だった。
子供たちのズボンも、表面の包みを少し傷めただけで済んでいる。
「助かった……」
サクは裂けた布を応急で縛り直した。荷の形を整え、背負子に固定する。
それから獣を見た。
大きい。
立派な獣だった。
皮も、牙も、爪も、肉も、捨てるには惜しい。だが今は運べない。ここで解体する余裕もない。
サクは倒木を引きずり、刈った草をかぶせた。石を置き、土を寄せる。
獣の姿が、少しずつ森に隠れていく。
「後で回収しに来るわな」
それから、少しだけ黙った。
森の中で、サクは隠された獣の山を見下ろした。
「お前、王になりたかったか?」
返事はない。
ただ、森が静かに息をしていた。
サクは背負子を背負い直した。
肩紐を締める。腰紐を結ぶ。フクロナガサの血を草で拭い、杖を握る。
足を一歩、前へ出す。
町はまだ遠い。




