第12.1話 記憶の中で
第12.1話 記憶の中で
冬の入り口だった。
池にしては広く、湖と呼ぶには心許ない沼が、村から少し離れた低地にある。夏は青臭い水草に覆われ、秋は虫の声ばかりがやかましいその場所へ、冬の始まりになると渡り鳥がやってくる。
朝の靄が水面を低く這っていた。
葦の陰に身を伏せると、遠くで鳥の鳴き交わす声が重なる。白とも灰ともつかない羽の群れが、沼のあちこちに浮かび、あるいは木の枝に留まっていた。
隣で、ミアが静かに弓を構える。
弦の軋みすら聞こえない。肩も肘もぴたりと止まり、まるで木の一本になったみたいだった。
ひゅ、と短く風を裂く音がして、一羽が枝から真っ逆さまに落ちた。
「……はや」
「何しに来たん、あんた」
ミアは振り返りもせずに言って、草を踏み分け、落ちた鳥を拾いに行く。翼の具合を確かめ、嘴の先を見、うんと小さく頷いた。
「一羽」
「見たらわかる」
「見とるだけやったら腹ふくれへんで」
口元だけで笑って戻ってくる。
サクは少しむっとして、背中の袋から昨夜こしらえたものを取り出した。
細い紐の先に石を結んだ、頼りない代物だった。三つの石が、ぶらぶらと揺れる。
ミアが眉をひそめる。
「……何それ」
「ボーラ」
「ぼうら?」
「投げて、絡めて落とす」
「ほんまかいな」
「ほんまや。たぶん」
「たぶんて」
呆れたように言うミアへ、サクはふんと鼻を鳴らした。
昨夜、余った紐と丸い石で作った即席の道具だ。うまくいくかどうかは、正直、やってみるまでわからない。
サクは木の枝に留まる鳥へ狙いを定めた。
頭の横で二、三度、石を回す。ひゅる、ひゅる、と空気を切る音がした。
「行け」
放たれたボーラは、くるくると回りながら飛んでいった。
だが狙いは少し高かった。
ばさり、と枝葉が揺れ、そのまま木の枝に巻きついて止まる。
「あ」
「何しとん」
「……今のは試しや」
「試しで道具なくしてたら世話ないやろ」
ミアは堪えきれず吹き出した。
そのまままた弓を引き、一息のうちにもう一羽落とす。
「二羽」
「いちいち言わんでええ」
サクは木にぶら下がったボーラを見上げ、唇を曲げた。
枝の上の一羽を狙うには、狙いが小さすぎる。絡める前に、まず当てるのが難しい。
枝からボーラを外しながら、サクは沼へ目をやった。
水面には、別の群れがいる。
岸から少し離れたところで、水鳥たちが身を寄せ合うように浮かび、首を水に差し入れたり、羽を休めたりしていた。
「……こっちやな」
「ん?」
「木の上やない。水の鳥や」
ミアが片眉を上げる。
「当たるん」
「当てるんやのうて、驚かせるんや」
サクは腰を落とし、水際へにじった。
狙うのは鳥そのものではなく、水面の少し上。群れが一斉に飛び立てば、その中へ紐が入り込むはずだ。
頭の横で、もう一度、石を回す。
ひゅる、ひゅる、と乾いた音が朝の空気を切り裂いた。
その音に、群れの鳥たちが一斉に顔を上げる。
「行けっ」
ボーラはくるくると回りながら、水面の上を走った。
次の瞬間、水鳥たちがばしゃりと水を蹴って飛び立つ。白い腹、灰色の羽、散る飛沫。
その中の一羽へ、回転する紐がふいに絡みついた。
「うわっ、掛かった!」
鳥は羽をばたつかせながら体勢を崩し、そのまま水面へ叩き落ちた。
石の重みで沈むかと思ったが、もがく鳥は水に浮いている。翼を半ば広げ、ばしゃばしゃと水面を掻いていた。
ミアが目を丸くする。
「……ほんまに獲れた」
その声には、呆れより先に感心があった。
サクは思わず胸を張る。
「せやろ。絡めたら勝ちや思っててん」
「でも」
ミアは水の上でもがく鳥を見て、それからサクを見た。
「水の上、どうやって回収してくんの?」
「あっ」
「考えてへんかったんかい」
「……考えてへんかった」
「あほっ」
その声を聞いた瞬間、サクはすぐに靴を脱ぎ、上着を放り、下穿き一枚になると水際へ走った。
「まちぃ! 寒いで、風邪ひくでぇ!」
呼び止める間もなく、ばしゃん、と水へ飛び込む。
朝の沼の水は刺すように冷たかった。
サクは肩をすくめながらも必死に腕をかき、絡まった鳥へ泳ぎ寄る。逃げようと暴れる羽と、濡れて重くなったボーラをまとめて抱え込んだ。
「取ったぞ!」
勝ち誇った声を上げるころには、吐く息がもう白くなりはじめていた。
岸へ戻り、泥の混じる浅瀬をよろけながら上がるなり、サクの体は目に見えて震えだした。
「さむっ!」
肩をすぼめ、歯を鳴らしながらしゃがみ込む。
ミアは呆れた顔で眉を吊り上げたが、すぐにその場の枯れ枝をかき集めて火打ち石を取り出した。
火花が飛び、枯れ草が煙を上げる。
小枝に火が移り、やがて小さな炎が立った。
「あほや、ほんまにあほや」
怒ったように言いながら、ミアの手は止まらない。
小枝を足し、息を吹きかけ、火を育てる。
「あんな寒い中、水に飛び込んでどうすんねん。後先考えんと、すぐ動こうとする」
「いや、沈むか思って」
「そら思うやろ。でもな、そういう時は考えるんや」
ミアはぱきりと枝を折って火にくべた。
「バルグがこの沼で釣りに使う船、持っとるやろ。あれ借りたらええねん」
「……あったな」
「あったな、やあらへん」
じろりと睨まれて、サクは火の前で身を縮める。
それでも腕の中の鳥を見て、にやりとした。
「でも獲れたで」
「獲れたな」
ミアはそう言って、回収した鳥をひょいと持ち上げる。
濡れた羽をつまみ、首のあたりに絡んだ紐を見て、小さく感心したように息をついた。
「……これ、水の鳥には使えるな」
「せやろ」
「ただし、次からは凍えんやり方でやれ」
「善処します」
「善処やのうて、考えろ」
そう言って、ミアはふっと笑った。
火が大きくなるにつれ、サクの震えも少しずつおさまっていく。
靄の向こうでは、驚いて飛び立った鳥たちが、もう遠くの水辺へ戻りはじめていた。
その朝は、ミアの弓で二羽、サクのボーラで一羽。
たいした大猟ではなかったが、二人で火にあたりながら鳥を並べてみると、妙に満ち足りた気分になった。
「なあ」
「ん?」
「次は船借りて、もっとちゃんとやろ」
「最初からそうせえ」
ミアは即座にそう言って、また笑った。
*
鳥を捌いたあと、ミアは抜いた羽毛をまとめて捨てようとした。
「それ、待って」
「ん?」
「置いといて」
「なんで」
「使えるかもしれへん」
ミアは胡散臭そうな顔をした。
「また始まった」
「ええやろ別に。箱ひとつ分くらい、邪魔にもならん」
「なるやろ」
「ならん」
「なる」
言い合いながらも、結局ミアは捨てずに残した。
サクはそれを木箱にため込んでいった。
一度や二度の鳥猟では大した量にならない。
だが何度か水鳥を仕留め、食い、羽を残していくうちに、箱の底にふわふわとした白灰色の層ができていく。
ある日、サクは目の細かい布を持ち出した。
「何作んの」
「枕」
「まくら?」
「頭の下に置くやつ」
「そんなん布丸めたらええやん」
「それより、たぶんええやつや」
サクは布を袋状に縫い、ためておいた羽毛を詰めていく。
軽く叩くと、中で羽毛がふわりと広がった。さらに足し、口を閉じて縫い止める。
「……できた」
差し出されたそれを、ミアは怪訝そうな顔で受け取った。
両手で持つと、見た目よりずっと軽い。
「ほんまにこれ、枕なん」
「試してみ」
ミアは半信半疑のまま、床に置いて頬を乗せた。
その瞬間、目を見開く。
「なにこれ」
「枕」
「やばい」
「やばい?」
「やばいこれ、めっちゃええ」
頬を押しつけ、反対側へ転がり、また押しつける。
ふわりと沈んで、ふわりと返す。藁束や布を丸めたものとは、まるで違う。
「なにこれ、なにこれ」
「せやから枕やて」
「すごっ」
次の瞬間には、ミアはもうそれを抱えて立ち上がっていた。
「サリナんとこ行ってくる!」
「は?」
「見せる!」
「今?」
「今!」
止める間もなく飛び出していく。
サクは口を開けたまま見送り、それから苦笑いして針と糸を片付けた。
*
「見てこれ、サクが作ってん! めっちゃ気持ちええねん!」
勢いよく家へ入ってきたミアに、サリナは目を瞬かせた。
差し出された布袋を受け取り、頬へあてる。
「へえ……ほんまや、やわらかい」
押せば沈み、力を抜けばふんわり戻る。
こんな感触は村ではまずない。
「やろ?」
「これ、ええなあ」
サリナがもう一度頬を寄せ、言いかけて、ふと顔を止めた。
「……」
「ん?」
「……くさ」
「え?」
ミアも枕を抱え直し、自分で鼻先を寄せる。
「……ほんまや」
「けっこうくるな」
「さっきまで全然気づかんかった」
「興奮してたんやろなあ」
サリナは苦笑した。
たしかに感触は素晴らしい。けれど羽毛特有の脂と鳥臭さが、想像以上に強い。
ミアは少ししょんぼりして枕を見下ろす。
「めっちゃええ思たのに」
「ええのはええんよ」
「でもくさい」
「うん。くさい」
二人してしばらく枕を見つめ、それから顔を見合わせて笑った。
サリナは枕を撫でながら言う。
「でも、あかんことないわ」
「ほんまに?」
「うん。気持ちええのはほんまやもん。あとは洗い方やね」
「洗い方」
「脂と匂い落として、ちゃんと乾かせたら、もっとええもんになるかもしれへん」
ミアはぱっと顔を上げた。
「そしたら使える?」
「使えるかもしれん。寝具にしてもええし、冬の上着の中に入れるとか、色々あるやろ」
「おお……」
さっきまでの落ち込みが嘘みたいに、目がまた輝きだす。
サリナはそんな様子に笑いながら、枕を返した。
「ほら、サクに言うたげ。次は匂い取る方法考えよ、って」
「うん。言うてくる」
ミアは枕を抱えて勢いよく立ち上がり、戸口まで行ってから、ふと振り返った。
「でもこれ、ほんまに気持ちええねん」
「それはわかった」
「サリナも一瞬、ええって顔してた」
「したけど、そのあと匂いで全部持ってかれたわ」
ミアはけらけら笑って、今度こそ駆け出していった。
*
戻ってきたミアから枕を押しつけられ、サクは事情を聞いて、なるほどなあと唸った。
「感触はええんやろ?」
「めっちゃええ」
「匂いは?」
「めっちゃくさい」
「……なるほど」
ミアは腕を組み、いかにももっともらしく頷いた。
「課題が見えたな」
「サリナみたいな言い方すんな」
「でもそうやろ。洗い方と乾かし方や」
「まあ、せやな」
サクは枕を持ち上げ、鼻を寄せて、すぐに離した。
「……くっさ」
「やろ」
それでも、触った感触はたしかによかった。
今までの村の寝具とは明らかに違う。ひと手間かければ、もっとましになるかもしれない。
サクは枕をひっくり返しながら呟く。
「洗う前に灰汁かな。湯か。いや、脂落とすなら……」
「また始まった」
「始まったな」
「今度はちゃんと、最後まで考えや」
「沼に飛び込むとこまではいかん」
「そこ基準にすな」
ミアは呆れたように言って、それでも笑っていた。
うまくいったこと。
うまくいかなかったこと。
どちらもひっくるめて、少しずつ暮らしが前へ進んでいく。
その枕は結局、しばらくのあいだ家の隅に置かれたままだった。
けれどサクは羽毛を捨てなかったし、ミアもまた、水鳥を獲るたびに「あれ残しとくんやろ」と当然みたいに箱へ入れるようになった。
いつか、匂いのしない、ふわふわの枕になるかもしれない。
その時はたぶん、またミアが誰より先に頬を押しつけて騒ぐのだろうと、サクはなんとなく思っていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は本編の合間にミアとの回想を挟んでみました。
こういう挿話の入り方が読みやすいかどうか、もしよければ感想で教えていただけると嬉しいです。




