第12話 村に残る理由 その1
第12話 村に残る理由 その1
幸い、二つ目のくくり罠には若い雌鹿がかかっていた。
だが、まだ成長しきってはいない。普段なら解き放つこともある大きさだった。
長いこと暴れたのだろう。鹿はすでに疲れ切ってへたり込んでいた。よく見れば、後ろ脚が骨折し、不自然な方向へ曲がっている。
これではもう、この先は生きていけない。
サクは杖の先にフクロナガサを取り付け、とどめを刺した。
狩りはこれで終わりではない。次は血抜きだ。
後ろ脚を紐でまとめ、その先を少し太めのロープで結ぶ。ロープを頭上の枝にかけ、引いて持ち上げると、逆さになった鹿の首元から血が地面へぼたぼたと落ちていった。
見上げると、枝にかかった部分のロープが少し毛羽立っている。
昨日、作事小屋でバルグ親子と話していた滑車のことを思い出した。
……枝のところの摩擦がなければ、もっとロープも持つか。
そんなことを考えながら、しばらくぼんやり眺める。
やがて、はっとしたように顔を上げると、近くの別の罠を見回るため歩き出した。
そのころには夜もすっかり明け、空には青が広がっていた。
他の罠には獲物はかかっていなかった。
血抜きの済んだ雌鹿のもとへ戻ると、近くの小川にそれを沈める。肉を冷やすためだ。こうするだけで、味はかなり変わる。
肉を冷やしているあいだに、新しい罠を仕掛けていく。
いつも通りの手順だった。
すべてを終えると、サクは朝、ガロンに言われた通りカディフの家へ向かった。
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カディフの家は、村のはずれ、森側にあった。
日が真上に差しかかるころ、サクはそこへ着いた。
戸口はすでに開いており、中ではガロンが何やら作業しているのが見えた。
「おう、ご苦労さん」
薄暗い家の中から、ガロンが声をかけてくる。
「すまんな。全部まかせっきりや」
サクはそう言って、戸口脇の棚に獲ってきた雌鹿を下ろした。
中は昼だというのに薄暗く、目が慣れるまで少しかかった。
闇の中から、ガロンがぬっと生えてくるように出てくる。
猟師の家や。そのままでも、まあ使えるくらいや。やることはそんなにない」
そう言ってから、ガロンは棚の上の獲物を一瞥した。
「若鹿やな。ほんま、まだ若い」
「後ろ脚を折っとったんや。あんなんでは、もう生きていけんしな」
ガロンはひとつうなずき、背後の家の奥を振り返った。
「今、ここで解体していくか?」
「ああ、そのつもりや。それからつむぎ小屋に持っていくねん」
サクはそう答えてから、少し言いよどむように続けた。
「それより、燻製小屋にする話……全部、作業はあんたに任せきりや。すまんと思うとる」
ガロンは肩をすくめた。
「お前には村のお役目があるやろ。しゃあない。つむぎ小屋も、その用事やろうしな」
「似たようなもんや。……いや、こっちはおれのお礼の分やな」
サクは背負子から、使い込んだ解体用の小刀とフクロナガサを取り出した。
そのまま中へ入ろうとして、ふと足を止める。
ガロンが、戸口のあたりに突っ立ったまま動こうとしなかったからだ。
「……どうしたんや?」
サクが聞くと、ガロンは少しのあいだ黙って家の中を見回した。
「いやな。この家はな、建てるときに手ぇ貸したんや。カディフが結婚するときに、村の有志でな」
そこで一度言葉を切る。
「サジも、今の村長も、それにオルムもおった。先代の村長もや」
「へえ……それは初耳やな。ミアもそんな話、しとらんかった」
ガロンは小さく笑った。
「モルなんか、まだ駆け出しも駆け出しや。バルグに絞られてばっかりやったわ」
「えらい待遇やがな」
サクも少し笑ってから、家の中を見回した。
「カディフちゅう人、おれは話に聞くだけや。拾われたころには、もう亡くなっとったし」
ガロンはゆっくりとうなずいた。
「そのころのあいつは、そういう存在やったんや。人が集まるいうか、手ぇ貸したろかと思わせる男やった」
それから、少しだけ目を細める。
「そんで、しばらくしてミアが生まれた。……残念やったが、その数年後にはカディフの奥さんが亡くなった」
「……そうやったんか」
サクは小さくつぶやいた。
そのへんの話は、ミアもあまり詳しくはしなかった気がする。
「ミアが小さいころはな、カディフが狩りに出る日は、ようばあさんに預けられとった」
「ばあさんに?」
「ああ。ほんで、狩りから帰ったカディフに抱っこされて、この家に戻ってくる。そういう暮らしやった」
ガロンは、懐かしむように土間を見た。
「そのころのミアは、おとなしい子やったで」
「……信じられへん」
サクは思わずあごの無精ひげをなでた。
ガロンが鼻で笑う。
「やろうな。お前の知っとるミアとは別人みたいやろ」
「別人やな」
即答すると、ガロンは少しだけ肩を揺らした。
「それが、だんだん大きなってくると、えらいやんちゃになってきてな。父親が狩りに出るいうたら、自分もついて行く言うようになった」
「そら、言いそうや」
「ばあさんと仲が悪かったわけやないで。むしろ、よう懐いとった。後々、弟子になれって言われたくらいや」
「ほう」
サクは少し意外そうに眉を動かした。
薬や草の知識にうるさかったミアの顔が、ふと浮かぶ。
「せやけど、最後は猟師になる言いよった。周りは、女の仕事やない言うて反対しとったがな」
「……ミアが引くわけないな」
「引かんかったなあ」
ガロンは、今度ははっきり笑った。
だがその笑いも、すぐに静かなものに変わる。
「カディフも複雑やったやろうな。うれしい半面、嫁のもらい手がなくなる、孫の顔が見られへん、てな」
サクは何も言わなかった。
薄暗い家の中に、しばし静けさが落ちる。
人の住まなくなって久しい家なのに、いまこうして話をしていると、どこかにまだ暮らしの名残が潜んでいる気がした。
ガロンは壁際の柱にそっと手を置いた。
「せやけどな」
「うん?」
「カディフは、最後にはもう何も言わんようになった。……あいつが選んだんやったら、しゃあない、て顔やったわ」
その言葉に、サクは少しだけ目を伏せた。
ミアらしい、と思った。
誰に反対されても、最後は自分で決めて、自分で通す。そういう女だった。
ガロンはそんなサクを横目で見て、わずかに声を落とす。
「お前が村の燻製小屋にここを使おう言うたとき、ちょっと驚いたんや」
「……そうか?」
「そうや。この家やぞ」
サクは、握っていた小刀を見た。
自分でも、口にしてから少し遅れて気づいたのだ。この家を使う、ということの意味に。
「嫌やったわけやない」
「わかっとる」
「ただ……」
その先を、サクはうまく言えなかった。
ガロンは急かさずに待った。
「ただ、ここに来ると、よう思い出すんやろ」
「……まあな」
短い返事だった。
それでも、ガロンには十分だったらしい。
「そらそうやろな」
ガロンは土間の隅を見たまま、ぽつりと言った。
「最初にお前をここへ連れてきたんも、ミアやったしな」
「……ああ」
サクの喉が、わずかに詰まる。
外では風が吹き、どこかで木の葉が擦れる音がした。
この家は、ミアが生まれて、育って、そして出ていった家だ。
いまは誰も住んでいない。
それでも、ただ朽ちていくままにするのではなく、少し形を変えて使っていく。
それが自分の口から出たことに、サクはまだうまく折り合いをつけられずにいた。
ガロンがゆっくりと腰を上げる。
「鹿、解体する前に、ちょっと座れや」
「急にやな」
「こういう話は、立ったままするもんやない」
サクは小さく息を吐いて、小刀を腰に戻した。
戸口近くの板の間に腰を下ろすと、ガロンも向かいにどっかと座る。
少し間を置いて、ガロンが言った。
「お前が村に残っとる理由、今さら聞くのも野暮やとは思う」
「……」
「せやけど、ここまで来たら、いっぺんちゃんと口にしてもええ頃やろ」
サクは答えなかった。
ただ、薄暗い家の中で、自分の息の音だけが妙にはっきり聞こえた。
ガロンは静かに続ける。
「ミアのことや」
その名を聞いて、サクはゆっくり顔を上げた。
「……あいつに会ったのは、まだ夏が始まって間もないころやったと思う」
そこでいったん言葉が切れる。
サクは記憶を手繰るように、何もない壁のあたりを見つめた。
「正直、よう覚えてへん。気ぃついたら森の中におって、出口探して闇雲に右往左往しとった。一日やったんか、数日やったんかもわからん。腹は減るし、喉は渇くし、川の水飲んだら腹下して、ひどい目におうた。……もう、そのへんから先はほとんど記憶ない」
ガロンは口を挟まず、黙って聞いている。
「あとでミアに聞いたら、頭から血ぃ流して、あちこち傷だらけで、ふらふら歩いとったらしい。意識ないのに動いてたんやな。そんで、あいつに肩借りて、自分でも歩いて――ここまで来たそうや」
サクは土間を見回した。
人の住まなくなった家なのに、そのときの気配だけは妙に近く感じられた。
「そのあと、気がついたんがこの家や。そん時は、ここがどこかもわからん。言葉もわからん。ただ、ぼーっとしとった。元の世界のどこかやと思とったけど、雰囲気がだいぶ違う、それくらいしかわからんかった」
サクは小さく息を吐いた。
「ミアは、そんな俺に粥を食わせてくれてた。意識ないときも、たぶんああやって食わせてたんやろなって、そのときわかった」
しばらく、静けさが落ちた。
やがてガロンが、サクと同じように前を見たまま口を開く。
「あのときは、寄り合いでも揉めたんや」
「……そうやろな」
「ミアがな、面倒みる言うて、みんなの前で言い張ってな。オルムも、ほかのやつらも反対しとった。おれもや」
ガロンはあっさり言った。
「筋のわからんもんを村に入れとうない。そん時はそう思った。おまけに、言葉もわからん異国人やろ。警戒するな言うほうが無理やった」
「まあ、そらそうや」
サクは苦く笑った。
今なら自分でもそう思う。
ガロンも少しだけ口元をゆるめた。
「せやけど、ミアは聞かんかった」
「……言いそうやな」
「ああ。あいつは言うとった。『こいつは図体はでかいけど、まだ子どもみたいなもんや。狩りの仕方も知らん。森の歩き方も知らん。子犬と一緒や』てな」
「子犬はひどいな」
「実際、ひどい有様やったからな」
ガロンは肩を揺らして笑ったが、その笑いも長くは続かなかった。
「最後は先代が、もう少し様子を見る言うて、その場は収めた。ミアが引かんかったんもある」
「先代が折れてくれたんか」
「折れたいうより、見たんやろな。お前やのうて、ミアの腹の決まり具合を」
サクは返事をしなかった。
それは、なんとなくわかる気がした。
ミアは一度こうと決めたら、人が何を言おうと簡単には引かない。先代はたぶん、それを止めても無駄だと思ったのだろう。
「ほんまに、最初の俺は何もできへんかった」
サクは苦笑するように言った。
「言葉も通じへん、畑も狩りも知らん、飯を食うのもやっとや。ミアにはよう呆れられた」
「言葉を一つ一つ教えてもろうた。最初の言葉は石や。石ころを一つ摘まんで言葉にする。
そんで肉、鹿、イノシシ、狼、犬、猫」
サクは思い出す。猫という言葉が分かった時、地面に棒で猫の絵というか、マンガを描いた。それを見て、ミアが声をあげた。「なにこれー! かわいい」
それから鹿、犬、イノシシ。
言葉を発する度、地面を差し、描くことを求めた。
サクは特に絵が得意だった訳ではない。へたくそな落書きだ。
でもミアはそれを見て、声を上げて喜んだ。
「赤子に言葉教えんのとおんなじやな。半年ほどである程度の会話ができるようになった」
「それと並行して狩りに連れ出されるようになった」
「色々教えてもろた。足跡や糞、どんな獲物がどんなとこに屯しとるのか。それと罠の張り方。罠猟が基本やからな」
「火起こし、水の調達、野営の仕方。ここで生きるための全部や」
サクはふっと思い出し、ガロンに振り返った。
「あんた、あの頃、おれにきつかったな」
「はじめて口きいたんは 秋くらいやったか」ガロンが相槌をうつ。
「追い込み猟に参加させられたのもその頃や。追い手として鹿を追ってたな。あんた、ほんま、きつかったで。なんべん走らされたか」
「……ヘロヘロになってたな。おまえ」
苦笑しながらガロンは懐かしそうに振り返る。
「それでもミアは止めへん。おまえが使えるとこをみんなに見せたかったんやろな」
「あの頃はミアがやっかい者抱え込んだ、くらいにしか思ってなかったんや。それで昔から知っている娘に変な虫がついたんとちゃうかとな」
「息子の嫁にとも思わんでもなかったからな」
サクは思わず吹き出した。
「そら初耳や」
「言うわけないやろ。あの頃のお前なんか、泥と傷だらけで、ようわからん野良犬みたいなもんやったしな」
「ひどい言い草やな」
「事実や」
ガロンは鼻を鳴らしたが、その目はどこか笑っていた。
「せやけどな、変わりだしたんは冬前くらいやったか。お前、よう働くようになった」
「働かされた、の間違いやろ」
「同じことや。使えるようになったいうことや」
サクは少し黙って、薄暗い土間を見た。
「最初に一人で任されたんは、罠の見回りやった」
「ほう」
「言うても、村のすぐ外れや。危ないとこには行かせてもらえへん。ミアも、最初はよう一緒についてきとったしな」
そのころには、言葉もだいぶ通じるようになっていた。
狩りの道具の名前も、獣の名も、森の呼び名も、少しずつ頭に入っていた。
「その日、小さい兎がかかっとってな」
「おう」
「今思えば、ようあんなもんで喜んだもんや。けど、あの時はほんま嬉しかった。自分で食うもん取れた思うて」
サクは、少しだけ目を細めた。
「持って帰ったら、ミアがえらい顔して喜びよってな。自分が獲ったみたいに皆に見せびらかして回ってた」
「やりそうやなあ」
ガロンが、ぽつりと笑う。
「『ほら見てみぃ、ちゃんと獲れるやろ』ってな。あいつ、お前のことになると、いちいち大げさやった」
「……そうやったな」
その一言だけ、少し柔らかかった。
「そんで、次は薪運びやら、水汲みやら、解体の手伝いやらや。狩りそのものより、そっちのほうが多かった気ぃする」
「まあ最初はそんなもんや」
「追い込みやっても、罠見ても、結局最後は持って帰って捌かんと食えへんからな」
サクは膝に肘を置いて、手を組んだ。
「でも、そうやって何やかんややってるうちに、だんだん顔見知りが増えていった。最初はようわからんもん見る目ぇしとったやつらも、そのうち水汲み頼んできたり、薪割り手伝わせたりするようになった」
「村なんてそんなもんや」
ガロンは淡々と言う。
「役に立つかどうかや。役に立つなら置いとくし、立たんかったら外れる。それだけの話や」
「身も蓋もないな」
「実際そうやろ」
サクは苦笑した。
たしかに、その通りだった。
この村に来たばかりのころ、自分はただ食うだけの厄介者だった。だが少しずつ働けることが増え、任されることが増え、気づけば呼ばれることも増えていた。
「お前、冬越えたころには、もうだいぶこの村のもんみたいな顔してたで」
ガロンが言う。
「そうやったか?」
「そうや。言葉も通じるようなって、森も少しずつ歩けるようになってな。何より、ミアの後ろくっついて歩くんやのうて、自分で考えて動くようになっとった」
「……それでも、まだ半人前やったけどな」
「半人前でも、半分はある」
ガロンはそこで、少し間を置いた。
「そんで、あいつは嬉しかったんやろな」
「ミアが?」
「ほかに誰がおる」
サクは何も言わなかった。
「あいつ、お前が初めてちゃんと獲物持って帰った日もそうやったし、言葉が通じるようになった時もそうやった。お前が一つ覚えるたび、自分のことみたいな顔しとった」
「……うん」
返事は短かったが、それで十分だった。
外から風が入り、戸口のあたりで乾いた音を立てた。
長年、人の住んでいない家だ。それでも今こうして話していると、そこにいた誰かの気配がまだ残っている気がした。
「お前、村の飯にも慣れるん早かったしな」
ガロンが不意にそんなことを言う。
「腹減ってたからや」
「最初は粥すすってるだけで死にそうな顔しとったくせに」
「そら死にかけやったからな」
「そのうち大鍋見たら、自分から寄って来るようになった」
「そら、腹減ってるからや」
「何回言うねん」
二人とも少し笑った。
笑ってから、サクはぽつりと言った。
「でも、あの頃は、まだおれ、自分がここに残るとは思ってへんかった」
ガロンは黙って先を待った。
「その日その日で必死やったしな。言葉覚えて、仕事覚えて、怒鳴られて、腹減って、寝て。そんなんの繰り返しや。生き延びるので精一杯で、この先どうするとか、そんなん考える余裕なかった」
「せやろな」
「けど、春が来るころには、もう森の道もだいぶわかるようになってた。罠の見回りも、野営も、簡単な解体も手伝えるようになってた。そんで、気づいたら……」
サクはそこで口を止めた。
「気づいたら、何や」
ガロンが静かに問う。
「気づいたら、この村の朝と晩が、当たり前になってた」
その言葉は、サク自身にも少し意外そうだった。
「朝起きて、水汲んで、飯食って、森入って、戻って、肉捌いて。誰かが怒鳴って、誰かが笑って、夜になったら火ぃ囲んで。そんな毎日が、いつの間にか普通になってた」
「……ああ」
「おれ、元の世界に帰りたいとは思っとったはずやのに、そのころにはもう、毎日それどころやなかったんかもしれん」
ガロンはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、かえって話の続きを促してくる。
サクは低く続けた。
「たぶん、その真ん中に、ずっとミアがおったんやろな」




