第11話 夢 狩人の家
第11話 夢 狩人の家
その時、サクはグラウンドではなく、スタンドから彼を見ていた。
一年の夏だった。
サクたちはまだ一年生で、当然のようにスタンドだった。三年は遠く、二年もまだ壁だった。試合前の整列も、ベンチの空気も、自分たちとはまだ別の場所のものに思えた。
その中で、彼だけは違った。
一年生にしては頭ひとつ背が高く、ひょろりと細い体つきで、立っているだけならどこか頼りなくも見えた。肩もまだ出来上がっておらず、脚も細い。ユニフォームが身体に追いついていないようなところがあった。
だが、球だけは違った。
キャッチャー志望だったサクは、何度か彼の相手をさせられたことがある。正捕手でもない一年に回ってくるのは、おおむね雑用まじりの相手だったが、それでも受ければ分かる。
指先へ来る重さが違う。速いだけではない。きれいな縦回転で、最後まで球が垂れない。投げ終わったあとに、じわりと手のひらが痺れるような球だった。
練習試合でも、彼は明らかに通じていた。
上の相手にも臆さず投げ込み、空振りを取る。強豪とまではいかなくとも、甲子園の名を知っているような相手にさえ、球威で押していた。まだ一年のくせに、と思いながら、サクは何度もベンチの端からその背中を見ていた。
チームの空気が、少し変わりかけていた。
主戦の先輩は良い投手だったが、長い回を投げると露骨に落ちる。その先が薄いことは、一年のサクにさえ分かっていた。そこへ、あの一年がいる。たったそれだけで、皆が少し先の勝ちを口にし始めていた。
一回戦、いけるかもしれない。
二回戦も、もしかしたら。
数十年ぶりに、少し上まで行けるんじゃないか。
そんな浮ついた期待が、たしかにあの頃のチームにはあった。
夢の中の景色は、そこだけ妙に明るい。
応援席のざわめきも、吹奏楽の途切れたあとに残る熱気も、白線の眩しさも、全部がやけに鮮やかだった。
試合は終盤まで二対零で進んでいた。
押している試合ではなかったが、守り切れそうな空気はあった。あと少し。あと少しで終わる。スタンドの一年たちも、声を枯らしながら、どこか落ち着かない期待を抱えていた。
九回、主戦の先輩が先頭へあからさまな四球を出した。
ざわ、と空気が動いた。
ベンチが動く。タイム。監督が出る。交代の合図。
その時のことを、サクは今でも妙にはっきり覚えている。
彼が、マウンドへ向かって走っていく。
一年生の、自分たちの代表みたいな顔をした奴が、あの夏の最後かもしれない回の途中で、マウンドへ上がっていく。その背中に向かって、スタンドの一年たちは喉が裂けるくらい声を張った。
いけるぞ。
抑えろ。
お前なら大丈夫や。
そう叫んでいたはずだった。
けれど、マウンドへ着いた時には、もう少しおかしかった。
表情が、固い。
遠目でも分かるくらい、顔がこわばっていた。投球練習の球がばらつく。高い。抜ける。低めへ決めようとして引っかける。いつもの、捕手の構えへ糸を引くように吸い込まれていく球ではなかった。
嫌な感じがした。
何がとは言えない。だが、見ているだけの一年にも分かるくらい、何かが噛み合っていなかった。
最初の打者に、ストレートの四球。
一塁、二塁。
次の打者は、はじめからバントの構えだった。
ここはさせるしかない、とサクは思った。欲張らず、一つ取る。まず一つ。併殺まで欲しがる場面じゃない。そう思ったのを覚えている。
一球目、ピッチドアウト。
外しにいった球は大きく外へ抜け、危うく暴投になりかけた。捕手が慌てて体を伸ばして止める。二塁走者が半歩飛び出しかけて戻る。スタンドのざわめきが、ひとつ濁った。
次の球。
腕が縮んで見えた。
それはあとから思えば、だったのかもしれない。けれど、その時のサクにも分かった。いつものように腕が振れていない。どこか途中で止まり、押し出すような球になっていた。
球威のないその一球を、相手はきれいに転がした。
ピッチャー前だった。
真正面、ではない。少し三塁寄り。投手が出て処理するには、悪くないところだった。ひとつ、確実に取れる。
彼が前へ出る。
球を拾う。
二塁を見る。
いや、一塁でいい。サクはスタンドからそう思った。誰だってそう思ったはずだった。
彼は身体をひねり、一塁へ投げた。
その送球が、一塁手の頭を大きく越えた。
高く、高く抜けていった。
一塁線の向こう、ファウルグラウンドの奥へ転がっていく白球を見た瞬間、サクは何が起きたのか分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
二塁走者が還る。
一塁走者も三塁を蹴る。
打者走者まで三塁へ達する。
二対二。
まだ同点。まだ終わっていない。頭ではそう思うのに、胸の内側だけが嫌に冷えていく。
内野手が集まった。
マウンドのまわりに輪ができる。誰かが肩を叩く。誰かが顔を上げさせようとする。彼はうつむいたまま、何度か小さく頷いていた。
スタンドからは、その表情までは見えない。
けれど、見えない方がかえって怖かった。
輪が解ける。
守備位置へ戻る。
そして次の打者の初球。
投げた瞬間に、また、と思った。
球が指にかかったのか、引っかかったのか、ホームベースの手前で叩きつけられるようにワンバウンドした。捕手が前へ落とそうとしたが、跳ね方が嫌に高かった。胸元のプロテクターに当たって、大きく横へ逸れる。
三塁走者が、迷わずスタートを切る。
捕手が身を翻す。
誰かが叫ぶ。
主審の両腕が広がる。
終わった、と思った。
夢の中では、その瞬間だけが妙に静かだ。
歓声も、悲鳴も、応援も、全部が遠い。日差しだけがやけに白く、グラウンドの土だけが暑そうで、その真ん中に彼が立っている。
いや、立ってはいなかった。
彼はマウンドの上で、しばらく呆然と突っ立っていた。
それから、糸の切れたように膝をついた。
その姿だけが、今でも焼きついて離れない。
先輩たちが駆け寄る。肩へ手をかける。背を叩く。立たせようとする。彼は立ち上がったのか、引き起こされたのか、そのあたりから記憶がもう曖昧だ。
試合終了の挨拶をしたはずだった。
整列もしたのだろう。
相手校の校歌も聞いたはずだ。
けれど、そこから先はひどくぼやけている。
ただ、先輩たちはたぶん、彼を責めなかった。
泣きながら肩を抱いていた顔だけは、なぜか覚えている。怒っていた顔ではなかった。悔しさと、いたたまれなさと、それでも支えようとする顔だった。
それなのに。
それでも、あの一回で何かが壊れてしまったのだと、あとからサクは知ることになる。
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目が覚めた時、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
暗い天井。湿り気を含んだ朝前の空気。寝返りを打つと、藁の軋む感触が背に返る。そこでようやく、薬事小屋の寝床だと思い出した。
胸の奥に、まだざらつくようなものが残っていた。
夢のせいだと分かっている。だが、夢の中身を思い返そうとすると、輪郭ばかりが鮮やかで、逆に言葉にはしにくい。黒く湿った土。遠くの芝。照りつける陽。白い球。誰かが息を呑んだ気配。
それだけで十分だった。
サクは息をひとつ吐き、薄い毛布を押しのけて起き上がった。
小屋の中はまだ暗い。ばあさんもレアも寝ているようで、寝息ひとつ聞こえない。ただ、乾いた薬草の匂いと、冷えた土間の気配だけが静かにそこにあった。
こんな時間に起きる必要は、本当はなかった。
見回りに出るにはまだ少し早い。空が白み始めてからでも間に合う。罠は逃げやしないし、獲物も、こちらの都合に合わせて掛かるわけではない。
それでも、もう寝直す気にはなれなかった。
目を閉じれば、またあの光景が戻ってきそうな気がした。
サクは音を立てぬよう身支度を始めた。上着を引っかけ、腰紐を締め、いつもの小物を確かめる。刃物、縄、袋、火口。手は慣れた順番で動くのに、頭だけが少し遅れてついてくるようだった。
戸口のところで草履を引っかけた時、ふいにガロンの顔が浮かんだ。
昨夜の流れから考えたわけではない。村長に何か言われたからでもない。まして、今日の見回りに必要な用事があるわけでもない。
それでも、なぜか寄らなくてはならない気がした。
サクはそこで一度、手を止めた。
「……何やねん」
小さく呟く。
自分でも分からない。分からないが、放って見回りに出ると、あとでどうにも落ち着かない気がした。
理由を探そうとすると、夢の中の、あの膝をついた姿が引っかかった。だが、それをガロンに重ねてしまうのは違う気もする。
似ているのか、似ていないのか、そのへんも自分でよく分からない。
分からないまま、サクは戸を開けた。
外気はまだ夜の名残を抱えていた。空は黒から濃い藍に変わりかけていて、東の低いところだけがわずかに薄い。村の家々はまだ眠っており、明かりは見えない。遠くで鶏の声が一度だけした。
いつもより早い村は、少しよそよそしかった。
土を踏む音が、やけに大きく感じる。息が白くならない季節なのが、かえって不思議なくらい、空気だけが冷えていた。
ガロンの家は、見回りへ出る道から少し外れたところにある。今から寄れば、無駄足とまではいかないが、まっすぐ森へ入るよりは少し遅れる。
それでも足はそちらへ向いていた。
道すがら、一昨日のことを思い返す。
今回、ガロンが寄り合いに呼ばれなかったのは、急ぎで決める話にあの男が混ざれば、余計に拗れると見られたからだろう。理屈は分かる。だが、当人にとって気分のええ話でないことも、また別だった。
それは違う、とはっきり伝えなければならない。
自分が何を言うつもりなのかも、はっきりとは決まっていなかった。
謝るのか。様子を見るのか。ただ顔を見ておきたいのか。
そこも曖昧なまま、サクはガロンの家の前まで来ていた。
戸はまだ閉まっていたが、内側に気配はあった。もう起きているのだろう。
しばらく迷ってから、サクは軽く戸板を叩いた。
間を置いて、内側から低い声が返ってくる。
「……誰や」
「俺や。サク」
少し沈黙があった。
それが妙に長く感じられて、サクは無意識に肩へ力を入れた。来るんやなかったか、と思いかけたところで、戸が開いた。
出てきたガロンは、もう仕事着の上着を羽織っていた。髪はまだ半端に乱れているが、顔は起ききっている。目つきは相変わらず鋭い。ただ、サクが勝手に身構えていたほどの険しさではなかった。
「……早いな」
ガロンが言う。
「そっちこそ」
「もう起きとるだけや。今から見回りや」
「俺も似たようなもんや」
そこまで言って、会話が途切れた。
朝前の冷えた空気が、二人のあいだを抜けていく。ガロンは怪訝そうにこちらを見ていたが、露骨に機嫌が悪いわけではない。そのことだけで、サクは胸のどこかが少し緩むのを感じた。
思っていたほど、怒ってはいないのかもしれない。
あるいは怒っていても、少なくとも今ここでぶつけるつもりではないのか。
サクは鼻の頭を軽くこすった。
「……一昨日のこと、ちょっと気になってな」
ガロンはそれを聞いて、ふっと鼻を鳴らした。笑ったのではない。ただ、拍子抜けしたような息だった。
「何や。そんなことで来たんか」
「そんなこと、ではないやろ」
「まあな」
ガロンは戸口の柱に肩を預け、まだ薄暗い空を一度見上げた。
「怒っとる思うたか」
サクは少しだけ間を置いた。
「……思わんかった言うたら嘘やな」
「……ふふん」
鼻で笑っていたが、棘は薄かった。
サクはそこでようやく、肩から余計な力が抜けるのを覚えた。
ガロンはしばらく黙っていたが、やがてぼそりと言った。
「一昨日のことなら、昨日村長が来た」
「村長が?」
「ああ。寄り合いの件、呼ばんかったことで謝りに来たわ」
サクは黙って聞く。
ガロンは目を細め、少し苦い顔をした。
「朝、早うきとったわ、人づてで耳に入らんように。あいつなりの気ぃ回しや」
そこまで言ってから、肩をすくめる。
「それと……サクは悪ないとも言うとった」
「そんなことも言うとったんか」
「あぁ」
短い返事だった。
けれどそれだけで、サクには十分だった。昨日の場が、そのまま放り出されたわけではない。村長なりに、あとで筋を通しに来ている。ガロンも、それを受けている。
ガロンはまだ不機嫌そうな顔を崩さなかったが、その実、話はもう腹の中である程度収めているのだろうと分かった。
「……そら、よかった」
思わず口をついて出ると、ガロンが片眉を上げた。
「何がや」
「いや。思ったより、こじれとらんみたいやから」
ガロンは一瞬だけ呆れた顔をしたが、すぐに小さく鼻を鳴らした。
「お前、変なとこで気ぃ回すな」
「ほっとけ」
「ほっとけるか。こんな暗いうちから人んとこ来といて」
その返しに、ようやくいつもの調子が混じった気がして、サクは少しだけ笑った。
ガロンは道具が入る背負子を背負いつつ言った。
「まぁ、お前の立場もわかる。もうお前も村全体を動かさなあかんのやろ?」
ガロンの物言いは微妙に距離を感じさせるものであった。
「村長の話では、お前がおらな色んなもんが回せんて言うてたで」
「俺はできることをしてるだけや」
「そこや、わしら狩人は総じて人と交わることが苦手な者が多い。うまいこと喋られへん。そこにきて、他の町へ行ってもの交換してくるなんて考えるだけでも億劫や」
「おれもできたらしとうない」
「でも、村に必要やなことや。今、他にやれるやつはおらん」
ガロンはさびしそうに言った。前はそれなりに人はいた。
ある時からその手を失ってしまい。それでも残ったものは生きてゆかねばならない。
家を出て2人で並んで歩き始めると徐々に空が明るくなってきた。
ガロンは言う。
「帰りにカディフの家に寄ってくれ」
カディフはもう6年も前に亡くなったミアの父親。
ミアはサクを拾った娘だ。




