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補欠は異世界でも甲子園の夢をみるか  作者: クリオアサト


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第10話 つむぎ小屋と作事小屋

第10話 つむぎ小屋と作事小屋


 朝の森は、まだ露を抱いていた。


 葉先に残った雫が、斜めに差し込む陽を受けて鈍く光る。サクは腰を落とし、仕掛けておいた罠のひとつに手を伸ばした。縄の張り、枝のしなり、踏み板の沈み。指先で確かめ、足元の土の乱れを見る。


 昨夜はここを何かが通った。だが、掛かってはいない。


 踏み込みが浅かったのか、風向きが悪かったのか。獲物の側にも都合がある。サクは仕掛けをいったん外し、少し位置をずらして掛け直した。獣道は同じでも、足の置きどころは毎度同じではない。ほんの半歩の違いで、掛かるときは掛かる。


地味な作業だった。

だが、こういう地味さの積み重ねでしか、森では食えない。


 次の罠には小ぶりな野兎が掛かっていた。血を抜き、袋へ収める。さらに山鳥が一羽。羽を傷めており、売り物としてはやや弱いが、食うには十分だ。今日はこれでよしとする。


 ひと通り見回りを終えるころには、陽もだいぶ高くなっていた。背負子の重みはそれほどでもない。軽いのはありがたいが、もう少し獲れてもよかったなと思わなくもない。


 とはいえ、今日は森仕事だけで終わるつもりはなかった。

村へ戻る道すがら、サクはつむぎ小屋へ足を向けた。


 孤児院へ回す子ども用のズボンの話は、すでにサリナからメルナへ通してあるはずだった。今日は、その数とだいたいの寸法、作るならどんな形がいいかを擦り合わせておきたい。町へ持っていく交易品の話も、ついでにできる。


 つむぎ小屋は村の外れ寄りにある。近づくにつれ、乾いた草の匂いに混じって、木のきしむ音や女たちの話し声が聞こえてきた。


戸口の前で声をかけるより先に、中から笑い混じりの声が飛んでくる。


「開いとるよ、入んな」


中へ入ったサクは、思わず一度、ぐるりと見回した。

思っていたより人がいた。


戸口に近いところでは、年かさの女が膝に繊維束を広げ、細いものと太いものを手早く選り分けている。窓際では若い女が二人、指先と腿を使って糸を撚っていた。奥では別の女が織機の前に座り、足と手を休みなく動かしている。壁際には糸巻きや布束がいくつも重ねられ、天井からは乾かした繊維が筋になって吊るされていた。


着る物を繕うだけの小屋ではなかった。

女たちの手が、村で使うものを作る手であると同時に、少しずつ町へ持っていける品を生み出す手にもなっている。そんな空気があった。


「何や、突っ立って」

一番奥からメルナが顔を上げた。膝の上には帳面の代わりらしい板切れがあり、そこへ木炭で何やら印をつけている。


「いや。思ったより賑やかやな思て」


「賑やかにもなるわ。着るもん作るだけやないんやし」


そう言いながら、メルナは板切れを軽く叩いた。

「交易分もある。糸も布も、手ぇ足りへんくらいや」


繊維を選っていた女のひとりが、顔だけ上げて笑う。

「足りへん言いながら、また仕事増やすんやろ、この人」


「増やさんと回らんのや」


「はいはい」


軽口の応酬だったが、手は誰も止まらない。こういう調子で、一日じゅう動いているのだろう。


サクは背負子を戸口脇に下ろした。

「孤児院のズボンの話、サリナさんから聞いとるか」


「聞いとる。今日はその数とだいたいの寸法合わせやろ」

段取りは早い。メルナらしいと思った。


彼女は板切れを引き寄せると、木炭の先で簡単な印をつけながら言った。

「年回りごとにざっくり分けたい。ちっさいの、中くらいの、もうすぐ今のが短うなるの、そのへんや。きっちり一人ずつ合わせるんは無理やけど、だいたいの体つきは聞いときたい」


サクは孤児院の子どもたちの顔を思い浮かべながら、背の順や体つきを口にしていった。痩せ気味の子、よく食べる子、同じ年でも肩幅のある子、小さいくせに足だけ早く伸びてきた子。メルナはそれを聞きながら、板に印を足していく。

「……で、数はこれくらいか」


「今すぐ要るんはそのくらいやと思う」


「思う、やなくて、あとでサリナにももう一回確認するで」


「それでええ」


メルナは頷き、それから顔を上げた。

「他にあるか。使い勝手とか」


そこでサクは少し考えてから言った。

「成長期の子ぉの分やろ。できたら、裾を紐で結べるようにしてほしい」


メルナが眉を上げる。

「裾ぉ?」


「少し長めでも、今は絞って履ける。背が伸びたらほどけばええ」


窓際で糸を撚っていた若い女が「なるほどな」と小さく言った。メルナは黙ったまま考え、やがて一つ頷く。

「悪ないな。布を無駄にせんで済む」


「膝んとこも、できたら紐で少し止められた方がええ思う」


「膝まで?」


「走るし、登るし、遊ぶしな。長すぎたら邪魔や。今は止めといて、後で緩められた方が使いやすい」


「お前、妙なとこ細かいな」


「見とるからな」

毎日、子どもたちが走り回るのを。転んで膝を擦るのを。裾を引きずって泥だらけにするのを。


メルナは木炭をくるくる指で回した。

「ほな、腰回りはどうする」


「少し大きめで」


「きついと動きにくいから、か」


「それもある。けど、きついんはどうにもならん。緩いんやったら紐で詰められる」


それを聞いて、奥の織機の女がくくっと笑った。

「男の意見にしてはまともやな」


「失礼やな」


サクが言うと、今度は窓際の若い女まで笑った。


メルナはそんな周囲の声を無視して、板切れに印を足していく。

「裾絞り、膝も調整、腰は少し大きめ。……なるほどな。子どもに着回すなら、その方がええか」


「丈が足りんようなるまでは持たせたいしな」


「持たせたいんは、こっちも同じや」


言いながら、ようやく顔を上げたメルナの視線が、ふいにサクの足元で止まった。


「……あんた」


「ん?」


「ようそんなズボンで、今まで平気な顔しとったな」


言われて見下ろすと、膝の当て布の端はまた浮いていた。股のあたりも白く擦れ、裾もほつれている。こうして明るいところで見ると、思っていた以上にひどい。


「まだいける」


「いけてへん」

即答だった。


「人の子の世話焼く前に、自分の尻の布どうにかし」


「尻て」


「尻や。あと膝。あと股。あと裾。どこ見ても生き残っとる方が少ない」


さすがにそこまで並べられると弱い。サクは軽く鼻の頭をこすった。

「そのうち頼もう思てた」


「その“そのうち”で保たせすぎや」


メルナは呆れたようにため息をつき、それでも棚から布を引っ張り出してくる。

「孤児院のついでや。お前のも見といたる」


「ありがたいこっちゃ」


「ありがたい思うなら、次に来る時ちゃんと寸法取りやすい格好で来い」


「今のこれやとあかんのか」


「分からんか。あかん」


周りの女たちから、くすくす笑いが漏れた。


サクが苦笑しながら顔を上げた時、その視線が小屋の奥に据えられた織機へ向かった。


前にも見たことはある。だが、こうして何人もの手が動いている中で見ると、ただの道具には見えなかった。糸がどう通り、どこで張り、どう布になっていくか。その流れそのものが形になっている。


「これ、前のより少し変わっとるな」


サクが言うと、織機についていた女が顔を上げるより先に、メルナが答えた。

「よう分かったな。前のはちょっと使いづらかったんや」


「直したんか」


「作り直した。モルが」


サクはもう一度、その織機を見た。


モルが作った。


木を切って組むだけではない。糸の流れや手の動きまで見て、道具そのものを考え直せる。そういう頭がある。


その瞬間、昨日の寄り合いで出た話が、別の形で頭の中につながった。


徒歩交易の難所。荷の上げ下ろし。何度も荷を分け、人が担いで越える手間。あれを、道具で少し楽にできないか。


頭に浮かんだのは、王都で見た建築現場だった。


高いところへ木材や石材を上げるため、梁から丸い輪のようなものが吊られていた。縄が溝を通り、何度か折り返されていた。荷の側にも輪がついていた気がする。下で引く人数のわりに、重そうな資材がゆっくり上へ動いていた。


名前まで正確に知っているわけではない。仕組みを全部説明できるわけでもない。


それでも、あれなら持ち上げるのではなく、下へ引ける。人数のかけ方も変わる。やりよう次第では、難所の荷上げにも使えるかもしれない。


「……また何か思いついた顔しとるな」


メルナの声に、サクは我に返った。

「顔に出とるか」


「出る。ややこしいもん思いついた時の顔や」


「ややこしいかどうかは、まだ分からん」


「その顔で言う時は、大体ややこしいねん」


小屋のあちこちで、女たちの笑いが小さく重なった。


サクは背負子を持ち上げる。

「悪い。ちょっと作事小屋寄ってくる」


「やっぱりな」


メルナは呆れたように笑った。

「行ってき。けど、孤児院の分もお前の分も、話はこれで終わった思うなよ」


「逃げへんて」


「信用ならんなあ」


言いながらも、口元には笑いがあった。


つむぎ小屋を出ると、陽はすっかり昼の高さにあった。作事小屋の方へ向かうにつれ、削り屑の匂いと乾いた木槌の音が聞こえてくる。


戸は半ば開いていた。のぞくと、モルが細い木片を削っており、奥ではバルグが古い農具の金物を直しているところだった。


「邪魔するで」


先に顔を上げたのはモルだ。

「珍しいな。今日は何や。壊したん持ってきたんか」


「壊しとらん。まだ」


「まだ、て何やねん」


サクは中へ入り、作業の邪魔にならぬところで立ち止まった。

「昨日の寄り合いの話、覚えとるか」


「徒歩交易の荷の話やろ」


「せや。難所の上げ下ろし、今より少しでも楽にできへんかと思ってな」


モルの手が止まる。奥のバルグも、こちらを一瞥した。

「道具で、か」


「前に王都で見たことあるんや。建物作っとるとこで、上に資材上げるんに使うとった」


どう言えば伝わるか考えながら、サクは覚えている限りを言葉にした。梁から吊られた丸い輪。縄の通り方。荷の側にもついていた輪。下で引く人足。人数のわりに重いものが上がっていく様子。


説明しながら、自分でも曖昧だと分かる。だが、見たものは見た。


モルは台の上に木片を置き、床に指で線を引き始めた。

「上にひとつ。荷ぃの側にもひとつ……縄がこう返るんか」


「たぶん、そんな感じや」


「たぶんばっかりやな」


「見ただけや言うとるやろ」


モルは鼻を鳴らしたが、否定もしない。

「で、それで何が変わる」


「上へ持ち上げるんやなくて、下に引ける。しかも、人数少のうてもいけるかもしれん」


そこで、奥にいたバルグが口を開いた。

「かもしれん、か」


「見た印象では、そうやった」


「印象で道具はできん」


「せやから相談しに来たんや」


バルグはしばらく黙っていたが、やがて農具を脇へ置いてこちらへ出てきた。

「続けろ」


サクはあらためて、王都で見たものを思い返しながら話した。輪には溝があったこと。縄が何度も折り返していたこと。荷はゆっくり動いていたこと。


モルは床の線に木切れで書き足しながら考え込んでいる。

「理屈は分からんでもないな」と彼は言った。「下に引けるだけでもだいぶ違う。荷ぃの側に輪があるなら、重さの乗り方も変わるんやろ」


「せやろな」


「けどな」


モルは顔を上げた。

「その丸い輪、ほんまに回るんか。木ぃ削って丸くしただけやと暴れるぞ。軸がちょっとでもぶれたら縄噛むし、力も食う」


「そこやな」


 低く言ったのはバルグだった。

「見た目で丸いのと、回してぶれんのは別や」


近くに転がっていた木片を拾い、指先で軽く回してみせる。


「しかも荷がかかる。溝が浅けりゃ縄が外れる。深けりゃ噛む。軸んとこが削れりゃ、それで終いや」

声の温度が、さっきまでと変わっていた。モルも気づいたのか、ちらりと父を見る。


「縄も問題や」とモルが続ける。「今ある縄でどこまで保つか分からん。細いと切れる。太いと今度は輪がでかくなる」


「縄が弱いんは分かっとる」


サクが言うと、バルグは床の線を見下ろしたままぼそりと呟いた。


「……面白いな」

その一言で、小屋の空気が少し変わる。


「上に持ち上げるんやのうて、下に引ける。そら扱いは楽や。荷の側に輪があるなら、重さも散る」


バルグはしゃがみ込み、木切れで線を書き足した。

「ただし、いきなり使えるもんは作らん。まずは小さいもんや。梁に吊って、石でも下げる。輪が回るか、縄が保つか、そっからや」


「作るんか」


サクが聞くと、バルグは顔を上げずに答えた。

「試すもんを作るだけや。使いもんになるかは、別や」


その言い方が、かえって本気に聞こえた。


モルは渋い顔をしながらも、口元は少し緩んでいる。

「真円出すん、だるいぞ」


「だるいからやるんやろ」

バルグの返しは短かった。


サクは小さく息を吐く。思いつきで終わるかもしれない話を、きちんと形のある問題として受け取ってもらえた。それだけで、胸の底が少し熱くなった。


「ほな、邪魔したな」


小屋を出ようとしたところで、モルが呼び止める。

「縄の方、あてはあるんか」


「まだや。今の荒縄やと不安やな」


「ほらみい」


「せやから考えるんやろ」


バルグが言った。

「まず輪や。縄はその次や。どっちみち、どっちも足りん」


外へ出ると、陽は少し西へ傾き始めていた。


==============================================


その足で薬事小屋へ戻ると、ばあさんは戸口近くで乾かした草を選り分けていた。レアは奥で書き物をしている。小屋の中には、煎じた薬草の青い匂いと、干した根の土っぽい匂いが混じっていた。


サクは隅に置いてあったクズの繊維束を引き寄せ、腰を下ろした。罠用の荒縄を足しておきたかった。長い繊維を選って重ね、腿の上で転がすように撚っていく。手は単調だが、こういう時の方が頭はよく回る。


「また縄かいな」


ばあさんが言った。


「罠で食うからな」


「食うっちゅうても、そらクズやろ。命預ける縄やない」


「分かっとる」


サクは撚った繊維を二筋に分け、今度は逆向きに合わせた。


「今日、メルナさんとこ寄ってきた。町じゃ丈夫な補修糸の動きがええらしい」


ばあさんの手が、そこで止まった。


「……麻か」


「やっぱ、そっちになるんやろな」


しばし間があいた。


 ばあさんは選り分けていた草束を静かに置き、ゆっくりとサクを見た。その目つきだけで、さっきまでとは空気が変わったのが分かった。


 「その話は軽う口にするもんやない」

 低い声だった。


 怒鳴ったわけではない。だが、それで十分だった。


 サクは手を止めたまま、ばあさんを見る。

 「売れるんなら、助かる話ではあるやろ」


 「助かる、で触ってええもんばかりやない」

 ばあさんの声はさらに低くなった。

 「それは女の手で継いできたもんや。男衆が、売れるだの足りんだので口出ししてええ話やない」


 奥で、レアが筆を止めた気配がした。けれど何も言わない。


 小屋の中が妙に静かだった。外の風の音が、かえって近く聞こえる。


 ばあさんはサクから目を外さぬまま、もう一度言った。

 「あれは糸だけ見て触る草やない。お前は縄のことだけ考えとき」


 それで話は終わりだった。


 これ以上は聞くなと、言葉の形よりはっきり分かった。


 サクも、そこで口を閉じた。踏み込めば話してくれる類の沈黙ではない。ばあさんの中で、そこにはきっちり線が引かれているのだろう。


 再びクズの繊維を指に取り、撚りを戻す。


 ばあさんもまた、何事もなかったように草の選り分けへ手を戻した。だが、小屋の中に落ちたあの一瞬の固さだけは、しばらく消えなかった。


 その時、戸口の外から遠慮がちな声がした。

 「おるかー」


 顔を覗かせたのは、十歳くらいの少年だった。村長の息子である。

 「今晩、うちで飯どうやって。父ちゃんが。ばあちゃんと、レアと、サク兄も」


 ばあさんは間髪入れずに言った。

 「行かん」


 少年が目を丸くする。

 「え、でも」


 「行かんもんは行かん。酒飲む席やろ。うっとうしい」

 あまりにいつも通りで、サクは苦笑した。レアも顔を上げ、静かに首を振る。


 「わたしも、今日はええ」


 少年は困ったようにサクを見る。

 「……サク兄は」


 「俺は行くわ。せっかくやしな」


 「分かった」

 ほっとしたように頷き、少年は帰っていった。


 その背を見送りながら、ばあさんがぼそりと呟く。

 「どうせ、難しい話のついでの慰労や」


 「慰労してくれるだけええやろ」


 「酒で口軽うなる連中の相手は疲れる」


 「そこは同感やな」

==============================================


 夕刻、サクは小さな壺に入れたトカゲの漬け肉を手に、村長の家へ向かった。


 家の中はもう明かりが入り、焼いた根菜と煮込みの匂いが漂っていた。戸口で迎えたサリナが、柔らかく笑う。

 「よう来てくれたね」


 「こっちこそ。これ、ちょっとしたもんやけど」


 差し出した壺をサリナは受け取り、中を見て目を細めた。

 「ああ、この前の。炙ったらよう合いそうやね」


 「それ狙いや」


 中へ通されると、村長はすでに腰を下ろしていた。

 「おう、来たか」


 「呼んでもろてどうも」


 「まあ座れ。今日は難しい話半分、労い半分や」


 「半分で済んだらええですけどね」


 酒が注がれ、卓に料理が並ぶ。焼いた芋、豆の煮たもの、刻んだ青菜の和え物、汁気を含んだ根菜の皿。そこへ炙ったトカゲの漬け肉が加わると、思ったよりもにぎやかな膳になった。


 ひと口飲んでから、村長が言う。

 「で、今日は何してた」


 サクは朝の罠の見回りから、つむぎ小屋での相談、町で補修糸の需要が強いこと、そして作事小屋でバルグ親子に話したことまでを順に話した。


 滑車の話になったところで、村長の眉が上がる。

 「ほう。王都で見た仕掛けか」


 「見よう見まねもええとこやけどな。難所の上げ下ろし、今より少しはましになるかもしれん思うて」


 村長は酒を口に含み、少し考えるように言った。

 「荷駄の方は、なかなか話がまとまらん。人選も、道も、どこまで獣に引かせるかも、全部が半端や」


 「そう簡単にはいかんでしょうね」


 「誰かを常にそっちへ回すとなると、今度は畑も見回りも薄なるからな」


 そこでサリナが、取り皿を置きながら言う。

 「塩の分け方ひとつでも、皆の腹の中は違うからね。必要なとこへ手厚く回したい人もおれば、まずは平等にせな揉める言う人もおる」


 「揉めるやろな」


 「揉めるよ」


 サリナは苦笑した。

 「でも、決めなあかん。放っといて収まる話やないから」


 サクは黙って頷いた。塩はただの味つけではない。村にとっては、生きるための線に近い。


 少し間があいて、村長が酒を注ぎ足す。

 「道具で助かる部分が増えるなら、それはありがたい。人手が増えるんと同じやからな」


 「うまくいったら、の話です」


 「うまくいかんでも、考え始めたことに意味はある」


 そのあと、話は自然に孤児院へ移った。


 「そうや」とサリナが言う。「サクさん、ひとつ聞いてええ?」


 「何です」


 「孤児院の子らの読み書きと計算のことなんやけどね。今は年の小さい子を中心に集めてるけど、年だけで分けるんも限界ある気がして」


 村長が苦笑する。

 「こいつ、最近ずっとそのこと考えとるんや」


 サリナは軽く睨んだが、そのまま続けた。

 「できる子と、まだよう分からん子。まとめて同じことしても、ついていける子と、置いていかれる子がおるやろ」


 サクは少し考えた。

 「分からんまま置いとくんは、あかんと思います」


 サリナは静かに頷く。


 「うん」


 「せやけど、皆いっぺんに同じようには無理や。読むん早いやつは読ませる。数の分かるやつには数えさせる。あかんやつは、もう少し小さいとこからやる。手間は増えますけど」


 「手間は増えるね」


 「面倒やから要るんちゃいますか」


 その返しに、村長が吹き出した。


 「正論やな」


 「面倒を面倒のまま置いといたら、後でもっと面倒になります」


 サリナはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

 「ありがとう。聞いてよかった」


 酒はゆっくり減り、話はまた交易へ、畑へ、冬前の備えへと流れていった。


 夜更けてから家を出ると、外気は少し冷えていた。村の明かりはもうまばらで、道の先は薄い闇に沈んでいる。土を踏む音だけが、やけに大きく耳についた。


 薬事小屋へ戻ると、もう灯りは落ちていた。レアも、ばあさんも寝ているのだろう。サクは音を立てぬよう中へ入り、自分の寝床に体を沈めた。


 酒の熱は、横になると思ったより早く引いていった。


 今日一日のことが、頭の中でばらばらに浮いては沈む。罠。つむぎ小屋。織機。モルの描いた線。バルグの「面白いな」という低い声。ばあさんの、あれは糸だけ見て触る草やない、という言葉。サリナの問い。


目を閉じる。


意識はすぐに暗がりへ沈んでいくはずだった。


けれど、その夜は、沈みきる前に別の光景が浮かび上がってきた。


水を撒いて黒く沈んだ土のグラウンド。

向こうに見える緑の芝。

照りつける夏の陽。

誰かが息を呑む気配。


その時、サクはグラウンドではなくスタンドから彼を見ていた。


彼がイップスを患った瞬間は鮮明に覚えている。


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