第9話 村の事情
第9話 村の事情
村長から声がかかったのは、その翌々日の夕方だった。
日が落ちきる前、仕事を終えた者らが顔を出せる時刻を見計らって、主だった者に集まってもらうという。
話の中身は聞かなくても分かる。交易と、塩だ。
サクが村長の家へ行くと、すでに何人かが居間に上がっていた。
大工のバルグ、その息子のモル。農家のオルムに、畑を多く抱える家の男があと二人。織物のまとめ役の女、メルナに、薬草を扱う年寄り(ばあさん)もひとり来ている。壁際には、やや遅れて来たサジが、無言のまま腰を下ろしていた。
いつもより人の多い居間は、最初から少し息苦しかった。
誰も大声を出しているわけではない。むしろ皆、抑えている。だが抑えているからこそ、腹の底にあるものがそのまま残っているような空気だった。
村長は全員の顔を見回してから、静かに口を開いた。
「集まってもろたんは、ほかでもない。塩と交易のことや」
誰も異を唱えない。
それが村の喉元に刺さっている問題であることは、ここにいる全員が知っていた。
「まずは現状の確認からや。サクが町とのつながりを保ってくれとるおかげで、塩が完全に切れるような事態は避けられとる。そこは、まずようやってくれとる」
何人かが小さく頷いた。
サクは軽く頭を下げたが、礼を言われて済む話でもないことは自分でも分かっている。
村長はそのまま続けた。
「せやけど、それで足りとるかいうたら、足りとらん」
今度は、よりはっきりした沈黙が落ちた。
「サク」
「おう」
「おまえの口から言うてくれ」
皆の目が集まる。
サクは少しだけ座り直してから、率直に言った。
「まず、はっきり分けて言うわ。今、俺がやっとるんは、森の近道を徒歩で抜けるやり方や。背負えるだけ背負って、急ぎで持って帰る。それで繋いどる」
誰も口を挟まない。
皆、その話は聞いている。だが改めて言葉にされると、重みが違った。
「せやけど、これは細い道や。速うは動けるけど、量は運べん。村ひとつ回す荷にはならん」
「どれぐらい足りへんのや」とオルムがすぐに聞いた。
「時期にもよる。けど、村の要る分を満たせるか言うたら、到底無理や」
その言い方に、何人かが顔を見合わせた。
オルムが、少しの間を置いて口を開く。
「……正直、もっといける思うとった」
誰もすぐには何も言わない。
「森を抜けて町まで行けるいう話を聞いた時、わしら、もう少し何とかなるんやないかと思うたんや」
責める声音ではなかった。
だが、そのぶんだけ重かった。
オルムの隣の男も、視線を落としたまま言う。
「こっちからしたら、あんたは今までできんかったことをやっとるんや。ほな、もしかしたら、村の苦しいとこごと破ってくれるんやないかって……そう思うてまう」
サクは短く息を吐いた。
「期待外れなんは、まあ、そうやろな」
「サク」と村長がたしなめるように言う。
「ええよ」とサクは首を振った。「そう思われるんは分かる。けど、できることはやっとる。せやけど、できんことまでできるとは言えん」
少しだけ声が硬くなる。
「ひとりで村ひとつ養えるほど、背中は広ない」
その言葉で、場がしんとした。
村長がそこで引き取る。
「オルムらの気持ちは分かる。実際、助かっとるし、期待もしたやろ。けど、ひとりに村の不足全部を背負わせる話やない」
オルムは黙って頷いた。
引っ込めはしたが、納得した顔でもない。
村長はそこで指先を膝に置き、言葉を継いだ。
「で、もうひとつや。サクの森越えとは別に、本来、この村が立て直さなあかんのは荷駄の交易の方や」
それで空気が少し変わる。
今度は多くの視線が、壁際のサジへ向いた。
「荷駄で運ぶ方やったら、量は動く」とモルが言う。
「動く」と村長は頷いた。「せやけど、人手も段取りも、通れる道も要る。昔、それを通したんはサジや」
サジは顔を上げなかった。
サクもそこで口を添える。
「俺のは、あくまで応急の細い道や。今をしのぐには使える。けど、村全体を回すには足らん。本筋にせなあかんのは、荷駄で動かせる方やと思う」
「ほな、それを戻せばええやないか」と誰かが言った。
「戻せるんなら、とっくに戻しとる」
低く返したのはサジだった。
その一言で、その場はまた静まる。
村長はサジの方へ向き直る。
「頼みたいんは、そこや」
サジがゆっくり顔を上げる。
「何や」
「サクの背を追え言うんやない。あんたが回してきた荷駄の道を、もう少しでも立て直したいんや」
何人かが息を呑んだ。
それは意外でもあり、意外ではなかった。
「どこまで道がまだ生きとるか。どこがもう死んどるか。誰に話を通せばええか。村の若いのを一度か二度、連れてって見せてもらえんやろか」
サジはすぐには答えなかった。
「立て直す言うても、前みたいにはいかんぞ」
「分かっとる。せやけど、今どこまで回せるんか、誰より知っとるのはあんたや」
サジの目が、初めてまっすぐ村長へ向いた。
「道は残っとる。せやけど、人も荷も、前より痩せとる」
「……荷駄は重いぞ」
「分かっとる」
「サクの背中一つで越える話とは違う。馬も要る。人も要る。泊まりも要る。戻りの荷まで考えな、ただの往復で終わる」
「分かっとる」
「口で言うんは簡単や」
「せやから、あんたに聞いとる」
しばらくの沈黙のあと、サジは低く息を吐いた。
「……三度や」
村長が目を細める。
「三度」
「三度までは付き合う。それ以上は体が先に折れる」
誰も軽々しく笑わない。
冗談めかした言い方だが、本当のことだからだ。
「三度でええ」と村長は言った。「その三度で、若いのに見せる。道を見て、向こうとの口も探る」
「若いのがすぐ使いもんになる思うなよ」
「思うてへん。けど、始めんことにはおらんままや」
サジは鼻を鳴らしただけだった。
それでも断らなかった以上、それが答えだった。
村長は場を見回した。
「今やるべきことは二本立てや。サクの徒歩交易で今をつなぐこと。サジの荷駄交易を、時間かけてでももう一度立ち上げること」
「ほかにもある」とサクが言う。
皆の目が向く。
「村の方も変えなあかん。糸でも薬草でも、加工したもんでもええ。向こうから買いに来る理由があるもんを育てる」
織物のまとめ役が少し身を乗り出した。
「行商が来るように、いうことか」
「そうや。こっちから命がけで運ぶだけやなく、向こうから来る流れができたら全然違う」
だが、その言葉に真っ先に反応したのはオルムだった。
「そんなもん、いつの話や」
サクはそちらを見る。
「すぐやない。時間がかかる」
「時間がかかる話ばっかりやないか」
声が少し強くなる。
それを皮切りに、場の空気がじわりと変わった。
「徒歩は細い、荷駄はまだ先、特産はもっと先。ほな今、どうやって腹を回すんや」
「畑やってる側はな、水だけで生きとるわけやない」
「家の人数が多いとこほど切実やぞ」
農家の三人が、堰を切ったように口を開く。
誰かひとりが怒鳴っているわけではない。だが皆、自分の家の事情を背負っている分、言葉に重さがあった。
村長はそれを受け止めるように言う。
「分かっとる。せやから当面と先を分けて話しとるんや」
「分けたかて、足りへんもんは足りへんやろ」とオルム。
「せや。せやけど、ないもんは配れん」
「それをどう配るかの話や!」
今度ははっきりと声が張った。
居間の空気がぴんと張る。
オルムはもともと声の大きい男ではない。むしろ、ふだんは土と向き合って黙っている方が多い。
だからこそ、その強さには切実さがあった。
「うちは働き手も多い。畑も広い。塩が減ったら人の飯にも響くし、保存にも響く。みんな同じ一つまみでええ、いうわけにはいかんやろ」
「それは分かる」と村長は言う。「せやけど、働き手の数だけで決めたら、ほかが死ぬ」
「ほか、ほか言うけどな。毎日土いじっとる側からしたら、きれいに分けましたで済む話やないんや」
「きれいやから言うてるんやない」
「ほな何や。結局、誰も腹は括れんまま、足らんもんを薄う伸ばして終わりやろ」
その一言に、何人かが眉をひそめた。
村長の顔からも、わずかに柔らかさが消える。
「オルム」
「分かっとる、言い過ぎや。せやけどな」
オルムはそこでいったん口をつぐんだ。
飲み込むかと思った。けれど、飲み込めなかった。
「……先代がおった頃は、こんな揉め方にはならんかった」
その場の空気が、止まった。
言った本人も、半分は分かっていたのだろう。
しまった、という顔が一瞬だけ浮かぶ。だが遅い。
村長は何も言わない。
言えなかったのかもしれない。
サクも息を止めたまま、横を見る。
壁際に座っていたサジが、ゆっくり顔を上げていた。
その目を見た瞬間、居間の温度がひとつ下がった気がした。
「……何やと」
声は低かった。
怒鳴ったわけでもない。だが、その低さの方がよほど恐ろしかった。
オルムが硬直する。
「いや……その、わしは」
「先代がおったら、やと?」
サジは立ち上がらなかった。
座ったまま、じっとオルムを見ている。なのに、その場にいる誰より大きく見えた。
「便利やな、死人は」
誰も動かない。
サジの声は淡々としている。だからこそ、余計に刺さった。
「何でもできたことにできる。何でもうまいこと収めたことにできる。失うもんも、背負うもんも、もう増えへんからな」
「サジ……」と村長が言いかける。
「黙っとれ」
その一言で、村長の言葉すら止まった。
サジの目はオルムから外れない。
「あの人が生きとっても、塩が湧くわけやない。道が勝手に開けるわけでもない。息子らが帰ってくるわけでもない」
最後の一言で、場の者たちの顔が変わった。
それはサジ自身の息子のことでもある。皆、知っている。知っていて、今の今まで口にしなかったことだ。
「言うてええことと悪いことがあるぞ、オルム」
オルムは顔色を失っていた。
何か返そうとして、返せない。
サジはそこでようやく、抑えていた怒りを少しだけ表に出した。
「先代の名ぁ出せば、今ここで踏ん張っとる者を腐してええ思うな。あの人を、都合のええ影みたいに使うな」
居間は、しんと静まり返っていた。
誰ひとり、箸一本落とせないような沈黙だった。
最初に動いたのは、オルムだった。
「……悪かった」
声はかすれていた。
さっきまでの勢いは、もうどこにもない。
「今のは、言うべきやなかった」
サジは答えない。
ただ、じっと見ている。その沈黙の方が、下手な叱責より重かった。
オルムは視線を落としたまま続けた。
「先代を軽う見たわけやない。村長を腐したかったわけでもない。ただ……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
ただ、の先にあるものは、ここにいる全員がある程度は知っていた。
足りないのだ。
塩が。余裕が。見通しが。
そして足りないものは、人を狭くする。
村長が、そこでようやく口を開いた。
「分かっとる」
その声は静かだった。
「不安なんやろ。腹に関わる話や。家の人数が多いとこほど、気が気やないのも分かる」
オルムは黙っている。
「せやけど」と村長は続けた。「分かることと、言うてええことは別や」
オルムはゆっくり頷いた。
「……すまん」
今度の謝罪は、サジではなく、その場全体に向けたものだった。
サジはしばらく黙っていたが、やがて低く息を吐いた。
「分かっとるなら、次から気ぃつけろ」
それだけだった。
許したとも、許していないとも言わない。だが、そこで打ち切るつもりだということは分かった。
誰もすぐには口を開かなかった。
沈黙が少しずつ、張りつめたものから重いものへ変わっていく。
その空気を破ったのは、バルグだった。
「……で、どうするんや」
いかにも大工らしい、ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど助け舟でもある。話を感情のまま終わらせず、もう一度机の上へ戻そうとしていた。
村長は小さく頷いた。
「そうやな。続ける」
その一言で、会議はどうにか息を吹き返した。
「まず、今日決めなあかんのは三つや」
指を折るように、村長は順に言う。
「ひとつ。今ある塩をどう分けるか。
ふたつ。サクの次の徒歩交易で、何を優先して持たせるか。
みっつ。サジの荷駄の道を、どうやって見直し始めるか」
「四つ目もある」とモルが口を挟む。「サクの方の工夫や。背負子とか、中継とか、崖の越え方とか。放っとけん」
「それは今日、細かく決めきれん」と村長は言う。「けど、モル、おまえとサクで考えてくれ。バルグにも知恵借りることになるやろ」
「分かった」とモル。
バルグも無言で頷いた。
村長はそこで、改めて塩の話へ戻した。
「分配やが、これは完全に納得いく形にはならん。そこは先に言う」
誰も異を唱えない。
異を唱えられるような状況ではなかった。
「せやから基準を決める。まず、冬越しと保存に最低限要る分。次に、働き手の人数と抱えとる子どもの数。最後に、家ごとの備蓄の有無や」
「働き手だけやなく、子どもの数も入れるんか」と、さっきまで黙っていた男が聞く。
「入れる。食う口は食う口や」
「せやけど、稼げる手ぇとは違うやろ」
「違う」と村長は言った。「違うけど、食わさんでええ理由にはならん」
言葉は穏やかだが、線は引いている。
「備蓄が残っとる家には、今回は少し我慢してもらう」と村長は続けた。「逆に、もう底が見えとる家には厚めに回す」
オルムが顔を上げた。
「それやと、去年ちゃんと残した家が損する形にもなるぞ」
「損得で見たらそうや」と村長は認めた。「せやけど、今は倒れる家を出さん方が先や」
「……」
「蓄えた家が損したままで終わらんようにするのが、次の仕事や」
その言い方で、ようやくオルムも押し返す言葉を失った。
不満が消えたわけではない。だが、正面から「間違っている」とも言いにくい。
村長は今度はサクを見る。
「次の徒歩交易で優先するもんを、ここで絞りたい」
「塩は当然として、あとは保存の利くもんやな」
ばあさんが一言いう。
「薬も塩と同じで、切らしたら困るもんや。こっちで取れん薬草もたのむ」
「布や道具は後回しか」
「急ぎで要るもんがあるなら別やけど、基本は後や。重さの割に命に直結せん」
皆、今は飾りより腹だと分かっていた。誰も反対しなかった。
村長は次にサジへ向く。
「荷駄の方は、次に見に行く時、誰をつける」
サジは不機嫌そうに眉を寄せたまま答えた。
「若いの一人か二人やな。多いと邪魔や」
「候補はこっちで出す。無理そうなら切ってくれ」
「最初から使いもんなる思うなよ」
「思うてへん」
村長はそこで、ようやく一息ついた。
誰かが茶をすすり、誰かが膝の上で手を組み直す。
さっきまでの怒気は消えていたが、代わりにどっと疲れが広がっていた。
村長は居間を見回した。
「……今日、全部は決まらん」
それは諦めではなく、確認だった。
「せやけど、何も決まらんまま終わるのはあかん。今決まったことだけ、言うぞ」
誰もが顔を向ける。
「塩は、家ごとの備蓄と人数見て、もう一度割り直す。細かい配りは明日、わしとサリナで詰める。
次の徒歩交易は、塩と薬、それと保存の利く食いもんを優先する。
サジには三度、荷駄の道の見直しを頼む。若いのも付ける。
モルとサクは、徒歩で運ぶ方の工夫を考える。バルグは道具の知恵を貸してくれ。
それから、行商を呼べる種になりそうな品の話は、別に場を作って詰める」
そこで一度、言葉を切った。
「異論はあるやろ。けど、今日はここまでや」
異論がないはずはない。
だが今は、それをまたぶつけ合えば同じことの繰り返しになる。皆、そこまでは分かっていた。
オルムがゆっくりと頷く。
「……分かった」
心から納得している声ではない。
けれど、これ以上こじらせないための頷きだった。
ほかの者たちも、重い顔のまま受け入れた。
最後まで黙っていたサジが、立ち上がる気配を見せた。
会議は終わりだという合図のように、皆も腰を浮かせる。
村長が、去り際のサジに向かって低く言った。
「すまん」
サジは足を止めたが、振り向かなかった。
「おまえが謝ることやない」
「せやけど、まとめるのはわしの役目や」
「なら、まとめろ」
短い一言だった。
それだけで、村長は返す言葉を失った。
サジはそのまま外へ出ていく。
背中は老いて見えたが、怒りの残り火のようなものがまだ消えていないのが分かった。
人がばらけていく中、バルグが小さく呟いた。
「きついな」
誰に向けた言葉でもなかった。
塩が足りないことも、道が細いことも、人の腹が狭くなることも、全部まとめて言ったのだろう。
サクはうなずいた。
「せやな」
村長は、もう誰もいなくなりかけた居間で、しばらく立ったままだった。
若い肩に背負うには重すぎるものが、この村には多すぎる。
それでも背負うしかないのだと、自分で分かっている顔だった。
サクはその横顔を見てから、黙って家路についた。
会議は終わった。
決まったこともある。進む話もある。
けれど、足りないものが足りないままである事実までは、何ひとつ変わっていない。
夜気は冷たく、息を吐くたび白くなった。
その白さを見ながらサクは、次の徒歩交易と、その先の荷駄の三度で、どこまで村の先を繋げるか、そればかりを考えていた。




