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華甲二年の再会  作者: 有嶺 哲史
第三章 翌年の夏、その後
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第35話 華甲七年の回想

 久し振りに比良野の家を訪ねた。

おれ(有嶺)は彼と同じ六十七歳、比良野は相変わらず快活な表情で歓迎してくれた。

いつの間にか元女医の篤子と仲良く暮らしている。

背後霊のような篤子は今日たまたま用があって家に居ない。

 今日、比良野とじっくり話をする。

おれの方は最近ますます影が薄くなった。

かなり白くなった頭髪、白いひげを伸ばし紺の作務衣と草履と肩まである杖という格好で訪問した。

比良野はそれを見て驚いて言った。


「五年前はイタリア男気取りだったのに仙人になりたいのか」


「死ぬときは仙人のようでありたい。体から滲み出てくる仙気をあえて隠さないのだ」


「風呂には入れよ」


 高台にあるこぢんまりした比良野の家のテラス席で談論した。

眼の前に金魚の大きな水槽があり水の向こうの、よく晴れた空の下に遠くの蒼い山々が透けて見えた。

朝晩が涼しくなってきた夏の終わりが近い頃の昼で、そこそこの暑さの中に乾いたそよ風が抜けていった。

時間は充分ある。

比良野は言った。


「昼食におれがナポリタンを作ってやろう」


院長になってからの比良野は多忙になり、裏で我々が秘密裏に動いていた経緯をまだ詳しく話していなかった。

食べながら比良野に言った。


「院長選挙の裏の動き、君の知らなかったことを話すのが今日の目的だ」


「よし! おれも言う」



 最初に美矢子のことを話した。

比良野が美矢子に直接会ったのは小料理屋で枯れ草色の着物を着た太った姿を一瞬見たときだけだ。

ほとんど知らない。

高校のころの美矢子の話を聞いた比良野は


「文明論、物理学、哲学。そんな話題に高校一年生の女子が興味を持つとは考えにくい。普通に君そのものが彼女の目的だったのだろう。難しそうな本や話題を選んだのは、頭がよさそうな君の関心を惹きたかったからだよ」


「五年前に喫茶店で美矢子と再会した時は驚いたなあ。彼女は座る時椅子を二つ並べた。そうしないとあまりに太りすぎて巨大になった尻が床に垂れ落ちるのだ」


と言った時比良野は思わず口の中に有ったものを噴き出した。

食べたものの断片がテーブルの上下に散らばった。

彼は掃除しながら


「申し訳ない、話を進めてくれ」


 お盆のころから布沢側も既に動き出していて、さらにそれより数か月前から美矢子の潜入工作が始まっていたことを聞いた比良野は驚いた。

弓美子の検査日の前に美矢子と篤子が接触していたらしいことについて、おれは少しひっかかることがあったので比良野に聞いた。


「美矢子は常に監視されていた。見つかる可能性が非常に高かったのに比良野派だと分かっている女医篤子に会えばスパイであることがばれてしまう。危険なのによく会ったものだ」


「いや、篤子は美矢子と接触したのではない。接触したのは鯛子だったのだ。おれ(比良野)宛の美矢子の封書の中封筒に入っていたのは鯛子の手紙だ。読んでいるうちに文字が消え始めたので驚いたな」


比良野の顔色が変わった理由は文字が消え始めたことだった。

スパイがよく使う〝消えるインク〟の一種だ。

美矢子はもとより有嶺もなるべく篤子と接しないように、篤子の役割と敵の企みを比良野に事前に知られないように、篤子が初対面である鯛子を信じて説得に応じさせる、という何重もの目的をもった工夫だった。


「この仕掛けはおれがある懸念を美矢子に電話している最中に美矢子が即座に思いついたものだ。彼女の頭の回転におれは舌を巻いたよ」


「こんなこと即座に思いつけるわけがない。おそらく類似の問題をスパイ学校で習っていたのだと思う」


手紙で依頼されて比良野は篤子に、鯛子と会って話を聞くように指示した。

初めて接触するとき鯛子はテレビドラマのように病院の屋上で話し合ったのか? 

そうではなかった。

頻繁にヘリが発着する病院の屋上では声が聞こえない。

篤子によれば梅田の映画ビルの空調設備の前で鯛子は事情を話したそうだ。

そこは鯛子が好んで密談に使った所だった。

そこで鯛子は篤子に事情を説明し、小料理屋で軽く縄で縛られたふりをしてくれとだけ頼んだのだ。

 別れる前美矢子が半年で激やせしたのは不思議だ、といった。

すると彼はありえないことではない、外国のことだがダイエットと運動と強い動機、それは人生を賭けた恋心、によって実現した例があったと言った。

しかしあの別れの様子を思い出すと美矢子が有嶺に強い恋心をまだ持っていたとは思えない。


 比良野は一度しか会っていない鯛子について


「鯛子は素晴らしい女性だ。今彼女はどうしている? もし独身ならすぐに君と一緒になるべきだ」


おれは鯛子との関係を、高校のときから最後の別れまで説明し、そして言った。


「彼女と一緒になること……それはもうできないんだ」


別れた後鯛子に何があったか比良野は察したらしい。


「そうか、それは残念だ……ならば美矢子に握り潰された、鯛子から君への伝言の意味はどう推理する?」


「結局本人は言わなかった。推測するに、面と向かって言えず顔を赤くして口をつぐむような話とは彼女にとって恥ずかしい話だ。例えば、ものすごく下手な俳句だ。おれの批評を聞きたかった。美矢子は自分にも分るほど下手な俳句を鯛子の名誉のために没にした」


「鯛子は俳句を趣味としていたのか?」


「いや、聞いたことは無い」


「君の解釈は、まるでホームズの相棒のワトソンが推理したように表面的だ。おれの推理はこうだ。鯛子は君に逢いたいが逡巡していた。そこに美矢子が日本を去るとわかったとき鯛子は君への連絡方法が無くなることに気づき、自分の電話番号とともにメッセージを頼んだ。再び高校の時のようにすれ違って終わりたくなかったのだろう。彼女は長い時を隔てて再会する君に、高校の時と同じように面と向かって本心を言えなかったのだ。鯛子はメッセージに、君と鯛子だけに判るロマンチックな共通体験の話を託していた。それで君がどんな反応をするか見たかった。柄にもなくはにかむ鯛子に美矢子は、冷徹だった鯛子が変に浮き浮きしてきたと感じた。鯛子と鯛子の夫は永年心の底から互いに深刻に憎み合っていたということを美矢子は知っていた。夫の矢板氏は相当剣呑で面倒な人物であり、鯛子を苦しめるため離婚にも応じなかった。最近矢板氏は各方面に手を廻し、憎い鯛子を老後一人で生活できないように追い詰めていた。これも知っていた美矢子は思った。鯛子は銃の名人だ。いずれこの夫婦には必ず事件が起こる。すると今君が鯛子と付き合い始めるのは危険だ。事件が起これば君が警察に共犯と疑われる。それを避けるために美矢子は言わなかった。とはいえ電話番号まで隠すのも忍びなかった」


「たったこれだけの情報からの推理。まるでホームズのようだ。しかも二週連続のテレビドラマ前編くらいの内容がある。おれが鯛子のその後を推理してドラマ後編を完成させてみよう。おれと逢って伝言を美矢子に握りつぶされたことを知った瞬間鯛子はすべてを覚った。そして準備を整えあの月夜の再会以降に夫を射殺した。冷えてきた銃口をじっと見ていた彼女は何かを想い銃を咥えた。妄想をかき立てエクスタシーとなって震えるうちに引金が動いた。血と脳漿が飛び散り、黒い和服ははだけてあられもない姿で床に倒れた。幼いころ輝かしい未来を嘱望されていた少女の人生は早めに終わった。後におれは故郷に行き、鯛子と共に学んだ学校が見える小高い丘の上に登った。晩秋の夕方で、冷たい雨は既に上がり雲は去った。空は暗く青く悲劇的に深かった。落葉した木立が鯛子の晩年のはかない願いを語るように赤く残照に染まっていた。おれは東の空に昇ってきた象牙色の円盤に鯛子の面影を探していつまでも見ていた……もちろん現実の彼女のことではないよ」


「詩的だが分量が足りない。おれよりマシだがワトソンに及ばない」



 話題は弓美子に替わった。

比良野は検査中と小料理屋に行った時見た美しく変な夢の話をした。

比良野は言った。


「屏風絵に刺激されてこんな夢を見たようだ。しかし睡眠中は五感がほぼ遮断されているから外部から夢の内容をうまく制御できないはずなのに、目覚めたら夢の中で見た光景が目の前にあったことは不思議だ」


「人の潜在意識に働きかけるという話は数多く流布しているが真実は判らない。君が社員だった頃にOL弓美子が秘術を使えていたら間違いなく結婚できていたのになあ」


 比良野は弓美子から来た手紙を取り出しておれに見せた。

封筒の消印の外国の地名を見た時閃いた。


「あのころは純日本人だと思っていたが、今思えばあの顔は間違いなく西欧人の血が入った顔だ。すると消印の地は先祖に所縁のある地だろう」


「これも見てくれ。弓美子の直筆だと思うが」


比良野は手紙の別の文書をおれに見せた。

それは四十数年前、弓美子が突然退職したときの心の中を綴ったものであった。

昔会社で見たのと同じ特徴的なクセのある字だった。

読むと自分が若い時会社で経験した恐ろしい眼差しを思い出した。

弓美子はやはりあの噂を知っていたのだと思われる。

おれは話をずらした。


「スキゾフィレニア風の妄想に似ている。なにか精神的な問題があったのかもしれない」


「君はどこでその言葉を知ったのだ」


「高校のころ天才たちの病跡学に興味を持った。芸術創造の神秘に関係していると思ったからだ。それでヤスパースの精神病理學總論をはじめ精神医学や心理学の本を読みあさった。でも普通の人の心を読むにはあまり役に立たない」


 彼は篤子に告白した時の様子を語った。


▼ ▼ ▼


比良野院長が定年で病院を去る数か月前、あることを言おうと思ってスズラン先生こと篤子を院長室に呼んだ。

ところが機先を制してスズラン先生は叫ぶように言った。


「あのっ、……こっ、このたび遠方のしっ、新設病院からお誘いをいただき、かっ、考えた末お受けすることにしました」


彼女の表情は陰気な造りにしては珍しく明るかった。

比良野は言おうと思っていたことの前提がいきなり崩されて不器用に祝うしかなかった。


「……泌尿器科部長、そう。大出世だな、それはおめでとう。君には長い間数えきれないほどお世話になった。何か僕にできることがあったら……」


彼女も本心を隠していた。

比良野が本心ではスズラン先生と離れたくないが親子ほども年が離れているし、いつまで元気か判らない。

比良野は自分が身を引くべきだろうかと悩んでいるに違いない、とスズラン先生は忖度していた。

それでわざと明るく転院の誘いを言ったのだ。


 それからしばらく沈黙が続く中でスズラン先生は笑みさえ浮かべていた。

偶然テーブルの下にスズラン先生の太ももが見えた。

強く握りしめたスズラン先生の手がスカートを手繰り寄せ震え続けていた。

比良野は危うく見逃すところだった。


▲ ▲ ▲


 比良野は机を回りスズラン先生を抱きよせて本心を打ち明けて、二人は涙とともに抱き合ったのだろう。

あの陰気な篤子がうれし涙にくれる顔は想像できない。

比良野は若い時と同じ失敗を繰り返さなかった。

その失敗とは、OL弓美子が退職するときの様子が何か訴えるように異常だったのに、比良野は茫然として何も反応しなかったことだ。

すぐそばで皆が普通に仕事をしている状況で、大勢の人目が有った。

彼は言葉も掛けられず何も出来なかった。


▼ ▼ ▼


弓美子は退職の日、紺の制服で比良野の前に来た。

束ねた長い髪を背中に垂らし無言で頭を下げた。

目を伏せたままじっとしていたがすぐに声を上げず泣き始め少ししゃくりあげた。

彼の声を待つようにその場所にいたが、なおも彼は無言だった。

やがて向きを変え歩き出した弓美子は速足で振り返ることなく消えていった。


▲ ▲ ▲


四十四年前のことに悔恨に包まれていたのだろう。

おれは言った。


「彼女は恋愛を終了せずに別れた。君達は互いに心の底に未解決な情念を残し、ある意味〝不滅の恋人〟になった。弓美子の久しぶりの登場は忘れ果てていた君の心の深層を揺さぶった。かつてしたこと、しなかったことへの罪悪感、喪失感による悔恨が君の意識に復活した。単なる想像だが」


比良野は言った。


「初診の最中は普通の患者と同じ感じで何とも思わなかったのに、日をおいてなぜか心の底がざわつきだして止まらず、しかもざわつきの正体が判らず不思議に思っていた。詳しいことを想い出そうとしても最初は中々想い出せなかった。ところが何十年忘れていても一たび思い出してしまうと心の中で大きな地震のような衝撃となった」


「老いてのち突然遥か昔の恋人に再会したら同じようになるだろう。若いころ君がいくら弓美子の近くに居ても彼女と結婚することは、針の穴を覗いているラクダが穴を通り抜けるように難しいことだった。篤子は護符なのだ。君の心が幻の弓美子にふたたび憑依されることから守っているのだ」


「いや、もう大丈夫だ。ついでに聞きたい。初診日に弓美子は自分に大腸が無かったらどうしようと言った。なぜこんなことを言ったのだろう」


「誰かに検査を勧められたが嫌がったので喧嘩してタンカを切った。その時勢いで言った言葉が彼女の頭の隅に残っていて、つい出てしまっただけだ。深い意味はないだろう」


「すばらしい。何でわかる? 精神病理學總論を読んでいないホームズは脱帽するしかない」


 院長選挙はおれと比良野の六十二才のときの闘いだった。

関係した人々も近い年齢の者が多かった。


「青春期に出会った人々の同窓会みたいなものだったな」


と比良野が言うのでおれは言った。


「六十才は還暦とも華甲ともいうから、あのときなら華甲二年の再会と言うべきかな」


「今は華甲七年だな。親しかった人々も次々と、いつの間にかいなくなる」


「葬儀で見送る人も僅かになる。しかしおれたちは美しい時代に生きられて幸運だったな」



 比良野は前世をどう考えているか聞いてみた。


「あの人々とは一緒に転生してきたような気がする。君は転生を信じるか」


「おれは転生など無いと思っているし、それでいい。病院で死は日常だ。自分だけ死の例外となる特権は無い。死から逃げようと思えば思うほど死の恐怖は増大する。これから自分は死ぬのだと認めたら死の恐怖は無くなる」


「そう思えば写真に残る特攻兵はよく笑っている。あの笑顔は本心からの笑いだったのだな。そのときになったらおれに同じ覚悟が出来るだろうか」


「そのときはいっしょに笑おう!」



 気が付くと日が傾いていた。

足元に昼間のコオロギが数匹鳴いていた。

二人は同時に遠くを見た。

金魚の水槽を透して見える遠方の蒼い山は影が濃くなった。

空に巨大な金魚が泳いでいるように見えた。

青空の下の乾燥した心地よい暑さの中で比良野は言った。


「今日の話、敵より味方や自分の方がミステリーだったよ」


「おれたちはあの有名な探偵と相棒みたいだったかな?」


「一緒に事件を解決したことなどなかったぞ……いや、あったか」


「そうだな」


西に傾いた日を浴びながら、引退したホームズとワトソンが事件の想い出を語り合ったように素晴らしい時間だった。

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