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華甲二年の再会  作者: 有嶺 哲史
第三章 翌年の夏、その後
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第34話 鯛子の想い出

 美矢子からもらった小切手の裏の電話番号にかけた。

出てきたのは高校の同級生だった瀬戸野鯛子だった。

昔と変わらぬ声を聞くとあのころの空気感が甦り、図書室で笑い転げる鯛子の美しい面影が浮かんだ。

 彼女とは、あるとき突然起こった接触の濃い思い出があった。

それは高校三年の秋も深まった頃だった。


▼ ▼ ▼


 爽やかな空気に冷たさと樹木の香気が混じっていた。

午後の遅い時刻に同級生の瀬戸野鯛子に呼び出され、古びた木造校舎の三階廊下の窓の前で会った。

この時刻のこの場所には大抵人の気配がなかった。

鯛子は背が高くスマートな美人で抜群の運動能力を持ち、しとやかで聡明だった。

控えめな彼女とはそれまで勉強のこと以外話したことが無かった。

 窓の左右に対峙した。

しばしの沈黙のあと彼女は緊張しきって言い放った。


「あんた、最近なにものかにとりつかれているよ」


「何?」


予期せぬ言葉につい返事の語気が強くなった。

彼女はびくっとして眼が泳いだ。

彼女は無言でうろたえながら窓の外を眺めた。

快晴の下、遠くの高い並木が揺らぎ紅葉が強風に煽られ千切れそうになっていた。

そして彼女が絞り出すように言ったのは


「タヌキ×××よ」


タヌキとはそのようにも見える美矢子のことだろう。

おれが恋に溺れ変な議論に熱中して勉強を忘れ受験に失敗してしまうことへの警告だと思った。

だが鯛子は息を荒くし、ふらふらして次の言葉が出ない。

彼女は倒れるかもしれない。

何か言おうとして、おれはある怪談話にひっかけて軽く冗談を言った。


「じゃあ、とりつかれないようにおれの体にお経を書いてくれないか?」


彼女は振り向いて少し驚いたがすぐに微笑が浮かんだ。

彼女は近寄ってきて


「目をつむって」


といって、おれの額に手を当てた。

二人とも動かない。

しばらく経って目を開けると、小刻みに震える彼女の清潔な胸のふくらみが顔に接触した。

鯛子の胸に軽く抱かれていた。

彼女も眼を開けた。

その大きな目はキラキラし涙が流れていた。

目の前の彼女の体は清水のようだった。

 彼女がおれを呼び出した真意はさっき思ったような警告ではなかった。

青春期に自然に湧き上がってきた女の情念だった。

薄暗くなってゆくのもかまわず無言で二人は見合ったまま動かなかった。

このままふらっと遠くへ飛んで行きそうな気がした。

あとわずかでとんでもない何かを超えた別世界に入る、という気がしていたのに何もできなかった。

 その後鯛子と美矢子はどこかで会ったらしいが、どんな話をしたか誰も言わなかった。

鯛子は意識的におれを避けるようになり、卒業までほとんど話をすることがなくなった。

 合格が判ったあと用があって登校した。

受験旅行のため、このころ三年生はほとんど学校に来ていなかった。

かつて鯛子と対峙した、吹きすさぶ風の音が吠える三階の廊下に来た。

やはり誰もいなかった。

窓の外は寒そうな曇り空、揺らぐ遠くの落葉した高い並木をぼんやり眺めていた。

そのとき何者かが近づいてきた足音が急にピタッと止まり、頬に視線を感じた。

ひょっとして鯛子か? 相手も何も言わないので気付かないふりをしていた。

そこでじっと立ったまましばらく視線を浴びせ続けた人物が引き返していった。

その方を見ることも追うこともしなかった。


▲ ▲ ▲


鯛子は電話の向こうから涼やかな声で誘った。


「ただ逢うだけ。逢ってくださる?」


退職した鯛子と高校以来久しぶりに会った。

近所の小さな、普段は無人の神社の境内で人のいない深夜一時ころだった。

元警察官だから痴漢など怖くないようだ。

社殿の裏側に周ると藪に囲まれた場所があり、誰にも見られる心配は無かった。

月が雲に隠されても街の明りでぼんやり見える暗い縁側に二人で腰を掛けた。

不明瞭な光に照らされた顔は若がえり高校の頃の彼女にしか見えなかった。

彼女は黒っぽい和服を着ていた。

最初は明るく楽しそうに語っていた。


「あの頃は007のMみたいなことをしていたのよ」


あの有名スパイ映画に出てくる干しイカのような老女と同じ仕事だったという。


「どういうことだ?」


「美矢子をスパイにしてオジキの家を探らせていたの」


今回の院長選挙にまつわる色々な動き、全体像を一番知っていたのは表に出てこなかった鯛子だった。

陰謀阻止の中核だと思い込んでいたおれは駒の一つにすぎなかった。

ところがオジキも同じ勘違いをして選挙後になっておれに斬りつけた。

 鯛子の属する機関はオジキの怪しい団体を以前から監視していた。

オジキらが病院に喰いこむ動きを察知して院長選挙の噂が出回る数か月前の早い春から美矢子をオジキの家に潜入させた。

美矢子はプロの女中でありプロの民間スパイだった。

オジキは昔、ある巨大土木プロジェクトの建設費用の一部、それでも巨額の金が裏社会に流れるきっかけを作ったことで名を上げた。

おれが比良野の友人であることは彼らも知っていた。

いつもそうだがおれは影が薄くて、ある時までは選挙に無関係のどうでもいい人間だと思われていた。

美矢子は太ったしゃべり好き女に見せながらおれを上手く隠しとおした。

 美矢子がオジキの所から逃亡した後、別のスパイが邸宅の外から監視を続けていた。

あるとき突然まとまった人数がオジキの邸から出て行った。

急報を受けた鯛子は比良野が狙われると思い病院に行った。

あの晩篤子が電話したとき院長室には比良野の他に鯛子とたまたま高岡医師がいた。

高岡医師は趣味の忍者の練習前だった。

窓から見ると、おれと篤子を隠れて狙っている怪しい人数が見えた。

鯛子と高岡は急いで出ていった。

オジキの狙いはおれだと判った。

オジキの刀が忍者風の男に撥ね飛ばされたあと、子分の警部補の銃は鯛子が遠方から撃った銃弾で飛ばされた。

鯛子の恐るべき腕前だった。


 鯛子は話を変え、調査を始めた頃おれの名を高校以来久しぶりに発見して心が躍った、と楽しくしゃべった。

そして美矢子が鯛子の電話番号を小切手に書き込むときのことで


「あのさ、私からの伝言、聞いた?」


鯛子は何かを期待するようにじっと待っている。

なんとなく恥ずかしそうだ。


「いや、何も」


すると彼女は驚き呆れた。

伝言は美矢子に握りつぶされていたのだ。


「どんな内容だったんだ?」


鯛子はおれをチラッと見て口をつぐみ、しばらく考え込んだ。


 鯛子は家庭を持っていると言った。


「姓はなんと」


「矢板よ。矢板鯛子」


「瀬戸の鯛が焼鯛になってしまってはもう手遅れだ。君が好きだったのに」


これを聞いて鯛子は笑い


「あの頃は生鯛だった。焼鯛になった今の方が美味しいよ。あなたに食べられたい」


「ところで、高校でのタヌキ問答の後、君は急におれを避けるようになった。あれは何故だったのか」


「実はタヌキ問答のすぐ後で美矢子と会ったの。彼女にはその少し前、三年生担当の進路指導の教師が会いに来たんだって。その教師から、彼との付き合いを止めてくれ、彼の受験のためだから、と強く言われた。考えた美矢子は従うことにすると言っていた」


そんなこととは思いもよらなかった。

ところがさらに、同じように噂のあった鯛子に対しても同様の働きかけが行われようとしていた。

事前にクラス担任の教師が強く反対したので当時の鯛子は知らなかった。

このことは卒業後に担任教師を訪ねて行ったときに聞かされたそうだ。

美矢子に会った後おれを避けるようになったのは、美矢子の決心を知った鯛子が冷酷におれを奪えなかったからだ。

それで鯛子と美矢子は良い関係が現在まで続いたのだが、今の鯛子は言う。


「でもそれは一生の不覚だった。なりふり構ってはいけなかった」


鯛子はおれの腕を獲物のようにつかみ、当時からずっと隠していた秘密を告白し始めた。


「ごめんね。いい?」


いきなり腕を絡ませおれの肩に頭を載せた。

しばらく無言だった。

ひんやりした夜気に包まれて二人は熱い体を密着していた。

そのまま彼女は昔の想い出を語り始めた。

老いた鯛子の告白は濃密な性欲の幻想だった。


「あのころ男女のことは何も知らなかった。それでも美矢子とあなたが一緒にいるのを見るたび心がざわついた。いつのころからか寝る前同じ妄想をしながら自分で自分を慰めるようになっていた」


ここで鯛子は一息入れておれを見上げた。

見合ったまま告白は続いた。


「あなたは巨大な鳥になって私をさらい、山奥の崖の上で私を食べるのよ」


と言いながら当時を再現するように自らの体を刺激し始めた。

どんな恥ずかしいことでもさらけだす自分を見てくれ、というように彼女はおれを食い入るように見ながら続けていた。


「あなたは私の股間から内臓をひっぱりだし……それまで私は長いストレートの髪だった。あなたを想像して吹きあがってくる切なさと快感はどうやっても押さえられない。思わず転げまわるとき髪の毛が顔に巻き付いて気が散ったの。それでショートウェーブに変えると近所の人が外国の女優みたい、といったわ」


と言って鯛子は息を弾ませながら笑った。

あのころ彼女が髪型を変えたことはおれも気づいていた。


「ほかにも一杯、いろんな想像をしたわ。夢でもあのころはとても言えなかった。今は言える、好きよ」


口元に笑みがこぼれた。

大学を卒業した後に彼女は警察の公安方面に行き、後に結婚もした。

しかしそれについては語ろうとしない。


 互いにえぐり合うようなキスをしているうちに雲間に月が出てきた

鯛子の黒い和服ははだけて臍から下はすべて露出し白い下腹部や尻が満月のように、脚は三日月のように輝いた。

思い出したのは、高校の昔彼女がブルマ姿で後ろから急にぶつかってきて思わずおれにしがみついたことがあった。

顔が合うと鯛子はとろけるように笑っていた。

今、眼を閉じた鯛子は銀白色の光芒に包まれた月精のように見えている。

彼女は全ての感覚を集中し、吹きあがってくる快感に何度も痙攣した。


「ああ、あの頃の……思い出した。もう何も要らない」


鯛子は目をつむったまま、昔から時々鮮やかに心に浮かぶという異界の森の幻影をおれに語った。

するとおれにも異界の森が見えてきた。

幻影のまま木々を騒がす風、そして葉擦れの音に酔うように進んでゆくと……そこには異界のときと同じ姿勢をとり、微笑む鯛子がいた……二人は共通の幻影を語りあった。


 鯛子は最後に言った。

「語り合えてよかった。あなたと私は恋人となって結ばれたのよ。でも我儘を許して。もうあなたと逢うことは出来ない。何も聞かないで」


 別れる時鯛子はおれの目を瞑らせ額に手を当てた。

しばらくして目を開けると寂さの極みのような鯛子がいた。

暗闇の中に最後の声が聞こえた。


「逢えてよかった」


鯛子は未明の街を音のしない車で帰っていった。

すべて寝静まる一夜の出来事だった。

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