第33話 美矢子の変貌
選挙からほぼ半年後の今日おれ(有嶺)は美矢子に呼び出されていた。
六月の海沿いの観光ホテルにある屋上テラスカフェだった。
久し振りの再会に何か期待しながらいつになく心が躍ったおれは早めに着いた。
強い日差しと涼しい潮風の匂いが懐かしかった。
先客は白いミニスカート姿の若いスレンダー美女一人だけ。
離れた席にいた。
仰け反って頭の後ろで手を組んでいる。
サングラスと麦藁帽子で顔を隠していた。
しかし胸の膨らみと太ももの露出はこれ見よがしで、愚かな老人は視線をそこにくぎ付けされた。
そのとき
「あなた」
おれに声を掛けながらスレンダー美女がサングラスを外した。
一瞬タイムスリップしたと錯覚した。
サングラスを外した顔は間違いなく昔の女子高生美矢子だった。
何十年ぶりかで再会した九か月前は樽のように太かったのに、今は若い娘のように細くなっていた。
彼女はおれを凝視している。
奇跡的変貌に驚き喜び、あたりかまわずおれは羞恥心の無い叫び声をあげた。
「アモーレ ベッラドンナ(やあ、きれいなお姉さん)」
二人は立ち上がり駆け寄りひしと抱き合い、という場面を勝手に期待して両手を広げ、眼を閉じて待っていた。
ところが美矢子は横をすり抜けておれのテーブルに来ていた。
「デブのぬいぐるみを脱いだのか?」
「そうよ!」
「嘘つけ」
面白くもない質問に彼女は無機的に笑った。
美矢子は今回のことにかかった費用を払うと事務的に言った。
「結局この件は君がほとんどやってしまった。おれは舞台によじ登って引きずり降ろされたカッコ悪い観客だった。おれの装置も役に立たなかった。だから金はいらない」
と言うと、困るから、と無表情で言った。
それならば、と記憶にある部品の価格を積み上げて言えば小切手をきってくれた。
領収書を書こう、と言うと、いらない、税のことも考えなくていいと言った。
まるでスパイに渡すような不思議な金だった。
おれが作ったのは医療用の内視鏡システムに比べると遥かに安い。
それでも渡された小切手の金額に彼女の心遣いが現れていた。
「ほんとに、いいのか?」
美矢子はロボットみたいに笑った。
用事はそれだけだった。
ずっと聞きたかった彼女の家族のことを聞くと
「女子大生だったときしつこく付きまとわれて面倒になって一度だけ男と寝た。妊娠が判った時男は既に音信不通。ちょうどそのころあなたから初めて手紙が来た。私は自分の責任をあなたに押し付けてはいけないと思い、逢いたいと昂る気持ちを泣いて抑えた。葛藤を抑えるためには、逢わないけど連絡は取れるように、というあの方法しかなかった。結局その後も含めて私の前に現れた男は、あなた以外は毒虫かカス野郎ばっかりだった。今は男と無縁になって一人で気ままな暮らし」
そうなんだ、香り高い花のように美しい女に臆面もなく近寄る男はほとんどが毒虫かカスなんだ……でも、しゃべり方に感情が無い。
昔から知っていたという弓美子のことを聞いた。
弓美子がOLを辞めた後に無遠慮に近寄ってきたのは彼女の場合も悪い男ばかりだったそうだ。
あの頃ほとんど縁が切れていた美矢子も詳しくは知らない。
その後弓美子は地球の辺境に救いを求め、一時期尼僧になっていた。
やがて経典の暗記ができないことから上の方に進めないことが判り宗派を変え、怪しい少数派にのめりこんだ。
修行は過酷すぎると幻影が湧き出てくるそうだが、弓美子はそれを利用して人に幻を見せる秘術を得たのかもしれないと美矢子は言った。
薬物も使うという。
話し終えた美矢子は何かを待っているように黙って海ばかり見ていた。
爽やかな海空を背景に黄色い麦藁帽と明るい女の肌という光景はスパイ映画のラストシーンのようだった。
ここで忘れてはならないと思っていた大事な申し出をした。
後から思えばあまりに気安く言うように聞こえたかもしれない。
「おれは今一人者、君もひとりだ。ちょうどいいじゃないか。一緒に暮らそうぜ」
おれには確信があった。
比良野が弓美子を内視鏡検査しているとき隣室で……邪魔が入らなければ……彼女と結ばれていたはずだ。
彼女はにっこり笑って承諾するに違いない……
ところが彼女は無反応、無表情だった。
おれは愕然とした。
美矢子は道端の石ころが〝私は関係ない〟と言っているみたいだった。
あのときの、あれは何だったのだ!
やがて彼女は淡々と言った。
「事情があって遠い国に行ってしまうの。もう二度と会わない。本当よ。だから一緒に暮らせない。あなたを嫌いなのじゃない。とっても好きよ。でも秘密の連絡も終りにするわ。会うのはこれでお終いよ。長い付き合いをありがとう」
「女子大生の時妊娠したと言っていたけど、子供は産んだのか?」
「さっきの自伝は真っ赤な嘘でした。黙って利用してきてごめんなさい。スパイの手段のひとつだったの」
おれは微かにひかかる古い約束を必死に思い出した。
少し間があったが
「はじめて逢ったのは高校の図書館だった。君は五月のように爽やかだった。あのころの約束、五十年の間における文明や科学の変遷について君と語りたい」
それまで無機質のようだった美矢子が突然変わり、みずみずしい表情が復活した。
しかし
「愛しているわ。さようなら」
海風と日差しはやさしかった。
美矢子の返事に再び固まり、まるで粘土像になったおれを彼女は潤いのある微笑で見ていた。
やがて彼女は視線を外して無機的な表情にもどり
「あら、忘れるところだった」
美矢子はさっきおれに渡した小切手を取り戻し、その裏側に電話番号を書き込んだ。
おれに返そうとして振り返った美矢子の体がぶつかってきた。
咄嗟に美矢子を抱きしめた。
彼女は抵抗せず素直に抱きしめられた。
「何の電話番号だ」
と聞くと一瞬美矢子は考えるように虚空を見た。
答える代わりに無機的にニッと笑った。
二人は見合って笑い、しばらくそのままだった。
突然美矢子はおれを受け入れるかのように目を閉じて口を開けた。
今だ、彼女の唇を奪ってしまおう、彼女の口から内臓全てを吸い取るつもりで自分の唇を突き出した。
唇が接触する直前、彼女はパッと眼を開けた。
表情は最初の硬い無機質に戻っていた。
無期限の別れだった。
美矢子は空気に溶けたような感じで姿を消した。
まぼろしのように消えた。
彼女は自分で選んだ。
二度と重なり合わない時空の彼方を。
イタリア男気取りの阿呆となったおれはいつまでも唇を突き出していた。
あくまで青い空と海を眺めながら心の中で、あるイタリア歌謡の最後の一行が響いてきた。
〝全てが終わっても、お前は私のことなど見向きもしない〟
無機的な目が心に浮かんだ途端心の歌声も止まった。
全てが終わって何も残らない。
遥か遠い青春は思い出すことも少ない。
ある日の夢に高校生の姿・形で美矢子が現れた。
昔と同じ瞳でおれを見上げる彼女は久しぶりだ。
海の見える丘の上に花の群落があり、誰かを追憶するように紫苑が咲き乱れている。
温かい陽だまりに冷えた風がサーッと吹き美矢子は髪をなびかせ、風が甘い花の香りを運んで来た。
それは興奮を冷ます代わりに過ぎ去った過去への郷愁をいっぱい膨らませた。
あの頃の美矢子に遥かな時を隔てて会っているおれは五十年後に語ろうと約束した、この間における現代文明の変容を語らなければならない。
しかし語る内容が何も出てこない。
焦り始めたおれを見て美矢子は笑いながら消え始め、とうとう見えなくなった。
「逢うのは夢でもこれでお終いよ」
声だけ聞きながら目覚めた。
美矢子の魂は心の中からも去っていった。
何もない空間に向かって無言で挨拶した。




