第2話 真夏の病院
ここは比良野四郎副院長が勤務する病院である。
八月上旬のある昼休み、外気温は三十八度に達していた。
窓に寄り外を眺めると真夏の熱が顔をあぶった。
外は湿気でぬめっとした中を熱線が飛び交うような猛暑で、日陰でもまるで怒っているように暑かった。
広い庭にも噴水の周りにも誰もいなかった。
遠くに見える山々は炎天下じりじりと焦げ付いたように黒っぽく見えていた。
しかし冷房のよく効いた副院長室の中は別天地だった。
比良野副院長はある事で動き出すことを決めた。
これはオレがやらなければならない、絶対負けるものか。
心も熱くなった。
その決断がこのあとの奇妙な戦いの始まりだった。
比良野が社会人になってから四十年経っていた。
この街は関西郊外でも比較的大きく、農村部と都市部と港湾を抱えた豊かな所だった。
敷地の広いこの総合病院は高台にあった。
そこからは地形の関係で街はほとんど見えず人里離れた山の中のような雰囲気もあった。
部屋には男性の高岡医師が呼ばれていた。
ぶつかる音がしたので二人が振り返るとほっそりした背の高い女医の小松篤子がドアに寄り掛かっていた。
「あら、私としたことが。ご無礼ご容赦」
入る時オデコをぶつけたのだ。
何かに集中したとき彼女はときどきこれをやる。
三人でアイスティーを飲みながら話し合った。
小松女医が言った。
「ところで先生、院長選に御出馬とのお噂、ほんとうでございますか?」
「それよ。君たちを呼んだ理由は」
小松女医の言葉遣いはいつも変に丁寧だ。
しかし口は堅いと思った比良野は彼女を仲間に入れた。
「選挙はいつ頃なので?」
「十一月頃だ」
高岡が聞いた。
「どうしてそんな先になるのですか?」
「初めての院長選挙なので、規約づくりから世話役や裏方の選考など、これから決めなければならない。それに時間がかかる」
そのあと院内に飛び交う噂や人物評を三人でじっくり話し合った。
比良野が内科医であるのに対し高岡は整形外科医だった。
比良野とあまり年が違わない後輩で、過去に仕事をやった経験からこういう相談が出来るほど彼を信頼していた。
小松女医は三十台後半、出身は関東である。
大柄でほっそりして控えめな性格で、そこそこ美人なのに印象は幽霊のようだった。
彼女には昔自身がつけた〝スズラン先生〟という、あまり知られないあだ名があった。
何か理由があったらしいが、爽やかな初夏に直径数ミリの白い鈴形の花が俯いて並んで咲いている風情は彼女に似ていた。
下ネタは言うのも聞くのも好まないのに泌尿器科の女医になったのは指導教授の指示だという。
男性患者の触診もちゃんとやる。
比良野と同様親戚に医者がいないのでよく知らず専門分野を選んだようだ。
比良野と篤子は二人とも独身で、親しいことは確かだが親子ほど年が開いていることもあって、恋人かどうかはよくわからなかった。
比良野の友人でたまに訪れる有嶺も彼女をよく知っていた。
有嶺と比良野は初めて社会人になった数十年前、同じIT企業で机を並べた同期だった。
それ以来の親友である。
数年後仕事に限界を感じた比良野は会社を退職した。
それから彼は猛勉強して医師になった。
いろいろな病院を経て今はここで副院長をしていた。
有嶺は会社に定年までいたが比良野との付き合いは途切れず続いていた。
ときには悩みを聞いた。
若い頃かっこよかった比良野だが、医者になるための勉強が忙しくてモテる暇がなかった。
比良野はずっと独身だが、社内のOL達に全くモテなかった有嶺は遅めの見合い結婚をした。
十年ほどで妻と死別してその後ずっと独身だ。
あるとき気分が乗った比良野は模型を使って有嶺に内視鏡の扱い方を教えたこともある。
昔は単に堅物だった比良野だが今はリアリストとか剛直とか言われている。
やさしさは顔に出ず痛快味のある生来の目付きは少し怖モテの印象を与えることがあった。
たまに無理に笑った顔を作ることもあった。
ある大物の酒席に比良野が呼ばれた。
たまたま傍に居た有嶺も巻き添えになって招かれた。
芸者たちが出てきて手をついて挨拶しはじめた。
「ようおこしやす」
そのとき比良野はいきなりカニの甲羅にかぶりついた。
突然の顰め面と生来のギョロ目で睨まれた芸者たちは飛びのいた。
喰われる蟹の恐怖を感じたように
「本日は……? あーれー!」
「かに……かんにんどっせー」
芸者たちに後で言われた悪口は計り知れない。
このときの顔がもとで〝笑い恐竜〟というあだ名が付いたらしい。




