06.
あの夜から、僕の足取りは軽くなった。恐ろしいほどに、心身ともに軽くなっていた。
どうにも思考がすっきりしなかった時、原因はなんだろうと自分なりに心理学だの哲学だのの本を読み漁っていた。そのなかで、青年期の健全な人格形成には、他者からの正しい愛情が必要不可欠と書いてあった。読んだ時は、親からの無償の愛情を受けている澪や水斗を思い浮かべて苦い気持ちになったものだが、今は、他者というのは親でなくても良いのだなと感心しているのだから、人間なんて単純なものだと思う。
他者というのは、本当に自分以外の「誰か」であるのだ。
親以外の祖父母や兄妹といった血縁にあたる相手だけでなく、身近な他人。またはパートナー。
だから青年期の未成熟な子どもは、「誰か」からの関心や愛情を求めるのかと。それらに飢えると妙な行動を起こしがちなのかと。
いつも冷めた目で見ていた、俗にいう中二病とか目立ちたがりのバカがする行動は、かえって健やかな成長途上にある証拠なのだなと理解する。今度からそういった場面に遭遇したときは、微笑ましく見守れそうだ。
僕の場合、親からではなく、幼なじみたちから惜しみないめいっぱいの愛情を注がれて、吹っ切れたらしい。
胸に引っかかっていた棘のようなものが取れた。痛みもモヤモヤもすっきりして、溜まっていた黒い感情は不思議なくらい、綺麗さっぱり消え去っていた。
調べる気も起きなかった引っ越し先の周辺にある高校について情報を集めるようになったことには、純粋に驚いていた。三者面談の日程が近づいてきて、必要に迫られたということもあるだろうけれど。
島を出ても近くに澪がいるし、本土が嫌になったら寂しくて暇にしているだろう水斗に会いに来ればいい。
そう思うと、気が楽になった。絶望するほどの距離はないのだと、気が付いた。どちらもお小遣いの範囲で行き来できる距離だった。
数日後。中学校での三者面談を迎えた。
太田先生は淡々と学校での僕の様子と成績を伝えてから、母から進路希望を聞き出し、うんうん頷いて理解を示し、最終決定は来年の夏ごろにしましょうの一言で締めくくった。
当たり障りなく、中学二年の冬の三者面談として完璧すぎるくらいだった。あまりに鮮やかな手腕に経験値の鬼かと思った。
母は安心した様子でお礼を言い、僕を連れて退出した。
帰路はそれぞれ別だった。母はバスで、僕は自転車で。だけど、少し話がしたくて声をかける。
「母さん」
「なに。どうしたの」
「少し、歩いて帰らない」
母は僕からの提案に驚いたように目を瞠ったが、意図を察したようで、頷いて了承した。
母と僕は並んで、西村のオリーブビーチを歩いていた。
静かな波が、寄せては返す冬の砂浜。肌を撫でる風は弱いけれど、少し刺すような冷たさを持っていた。
靴底がサクッサクッと砂を踏む音が響く。僕の少し前を歩く母の背中は、いつの間にこんなに痩せたのだろうかと思うほど細く小さく、ひどく頼りなげに見えた。
島にうまく馴染めず、孤独に耐えかね、心を閉ざし、子離れしきれず、視野が狭くなってしまった。
僕の、たった一人の母親。
「航。高校のことなんだけど…」
母が立ち止まり、申し訳なさそうに振り返った。自分の都合で息子を島から連れ去ることに、現実感が伴ってきて、怖くもあるのだろう。だけど、それ以外、母にはこの環境を抜け出す建前がなかった。
「いいよ、母さん」
「え…?」
「高校は神戸で考えるよ」
「航?」
唐突に感じたのだろう。つい先週まで、会話すら避けていたのだから当然だった。
「最初は…。自分の意志じゃないのが嫌だったんだ。でも、これといってやりたいこともまだ見えてなかったし。母さんの言うように自分のレベルに合った学校で、ゆっくり将来のこと考えてもいいかなって」
実際、悪いことばかりではなかった。島に高校はひとつしかないのだから、選択肢はぐっと狭まるのは事実だった。
「…澪は高松で勉強して、水斗は家を継ぐんだって。まだ見つからないのは僕だけだった。なら僕は高校で探してみるのも悪くないかなって。…だから、もう僕のことは心配しなくていいよ」
そんなに簡単に割り切れたわけじゃなかった。もうすこし考えないといけないことだってる。
だけど、親であっても他者の心は、僕にはどうにもできないと分かった。僕はわざといつもの涼しい顔で笑ってみせた。
「それより、母さん」
僕は海の向こうの、水平線を見つめた。
「最後にもう一度だけ、父さんとちゃんと話し合ったら?」
「航……」
「責めてるわけじゃないんだ。ただ、二人が冷え切ったまま終わるのが、見ていて悲しいからさ。それに、僕と母さんが一緒に居られるのは高校までだと思う。その先はきっと別になるよ。僕は母さんの人生は生きられない。だから投げやりにならずに、これからお互いがどう生きていくか、ちゃんと話し合ってほしい。今はまだ、パートナーでしょ」
母は、堪えきれなくなったようにポロポロと涙を流し、僕の手をぎゅっと握りしめた。
突き放すような言葉に聞こえないか心配だったけれど、大丈夫だったようだ。母にはこれくらい現実的な言葉がいちばん届くと思った。僕の母親なのだから。
「…そうね。そうよね…」
夕暮れのオリーブビーチに、春を待つ冷たい風が吹き抜けていく。
だけど、僕の胸の中には、ぬくもりが息づいていた。重たい幼なじみたちの愛情が、静かに、だけど確かに。
凍てついた空に、晴れ間が見えた気がした。
(第二章・了)




