第8章 壊れなかった妻
話し合いの場は、城戸の事務所の会議室に設けられた。
黒崎がそこへ入った時、机の配置はすでに整えられていた。長机を挟んで向かい合う形。城戸の正面に相沢修一、その斜め向かいに真由美が座る席。黒崎と水瀬は少し後ろ、だが必要な時に口を挟める位置だった。
真由美は少し早く来ていたらしく、すでに席に着いていた。
前に事務所へ来た時より、服も髪もきちんと整っている。だがそれは余裕の表れではなく、崩れないための防具に見えた。
相沢修一は、予定時刻の二分前に入ってきた。
遅れも早すぎもしない。こういう男は、時間の使い方まで自分の印象の一部にしている。スーツの皺はなく、顔色も安定している。ここが夫婦の修羅場ではなく、取引先との打ち合わせででもあるかのような表情だった。
誰もすぐには資料へ手を伸ばさなかった。
机の上には、必要最低限の紙しか置かれていない。
それなのに、出ているものが少ないほど、逃げ場も少ないように見えた。
修一だけが、まだこの場を自分の言葉で整えられると思っている顔をしていた。
城戸は定刻になるのを待ってから会議室のドアを閉め、席に着いた。
「では、始めましょう」
机の上には、黒崎たちの調査報告書と、最低限の資料だけが置かれている。最初から札を全部見せれば、人間はそこから逃げる。逃げ道を残したまま順番に塞いでいく方がいい。
城戸はまず、ごく事務的な確認から入った。
「本日は、相沢真由美さんからご依頼のあった素行調査の結果を踏まえ、今後の整理のためにお話を伺う場です。相沢修一さんにも、必要に応じてご説明いただきます」
修一は、わずかにうなずいた。
「分かりました」
その声に焦りはない。
むしろ、話し合いの場を歓迎しているようにさえ聞こえる。ここで真由美が感情的になればなるほど、自分にとっては有利だと、まだそう思っているのだろう。
城戸が報告書の一ページ目を開く。
「まず、先日の調査結果についてです。調査当日、修一さんは女性と接触し、飲食店へ入り、その後ホテル街方向へ移動しています。ただし、現時点で不貞行為を断定する直接証拠はありません」
「ええ」
修一はすぐに応じた。
「私も、その点は当然だと思っています」
真由美の肩がわずかに強張った。
「正直、ここまで大きくなるとは思っていませんでした」
彼は淡々と話し始める。
「真由美が不安に思っていたのは分かります。ただ、私としては、少し落ち着いて話ができればと思っていたんです。探偵まで使う必要があったのか、と言われれば……残念です」
言い方はあくまで穏やかだった。
責めているのではない。傷ついているように聞かせる口調だった。
「報告書をご覧いただければ分かると思いますが、少なくとも不貞を疑われるような事実は確認されていない」
そこで一度、真由美の方を見る。
「真由美は昔から、一度不安になると、それ以外の可能性が見えなくなることがあるんです」
真由美はすぐには言い返さなかった。
だが、完全には飲み込まれなかった。
「……それを、ずっと言われてきました」
真由美の声は小さい。
けれど、途切れなかった。
「私が考えすぎだって。気にしすぎだって。でも、何もなかったとは……思えません」
修一が口を開きかける。
その前に城戸が静かに言った。
「そこです」
「相沢修一さん。あなたが本当に“偶然疑われた夫”なら、今の話は通ります」
「ですが、あなたは違う」
会議室の空気が、一段だけ変わった。
城戸はページをめくる。
「まず確認します。あなたは、今回の調査の五日前、黒崎探偵事務所を訪れていますね」
修一の顔から表情は消えなかった。
ただ、まばたきの間隔だけがわずかに変わった。
――まだ崩れてはいない。
だが、水瀬には分かった。相手は今、最初の計算違いを認識した。
「……相談に伺ったことはあります」
「近いうちに奥様があなたの素行調査を依頼しに来ると伝えた」
「妻が誤解しているようだったので、その可能性があるとお話ししただけです」
「その時、“きちんと証拠を押さえてください”とも言っている」
修一はわずかに笑みを作った。
「誤解なら誤解で、はっきりした方がいいと思ったんです」
城戸はそこを追わない。
「次に、依頼のきっかけです。真由美さんが今回、調査を依頼する直接の理由になったのは、あなたのスマートフォンの画面に表示されていた予定でした」
真由美の視線が、机の上の自分のメモへ落ちる。
「金曜夜の時間、待ち合わせを思わせる内容、店の予約、場所。偶然目に入った情報としては、あまりに具体的です」
「あなたは、奥様がその情報で動くと分かっていた。違いますか」
修一の口元が初めて、ほんのわずかに硬くなった。
「分かっていた、というより……妻の性格から、そういう可能性を考えただけです」
「可能性を考えた」
城戸は復唱した。
「ですから五日前に探偵事務所へ行き、依頼を予告した」
修一は返事をしなかった。
城戸はさらに一枚、写真を前へ出す。
駅前での合流。美羽と修一が、少し離れて並んでいる写真だ。
「調査当日、あなたは西野美羽さんと会っています」
「知人です」
修一はすぐに答えた。
「それ以上でも以下でもありません」
「ええ」
城戸はあっさりと認めた。
「ですから、交際相手ではないと申し上げています」
「問題は、西野美羽さんが“交際相手であるように見える位置”に配置されていたことです」
「あなた方の行動は、不倫を疑うには十分で、断定するには足りない形に揃いすぎています。駅前での接触、飲食店、ホテル街方向への移動。ただし一線は越えない」
修一は口元だけで笑おうとした。
だが、もう最初のような整った余裕には戻らない。
言葉を選ぶたびに、次の逃げ道がひとつずつ細くなっていく。
「それは見方の問題でしょう。仕事関係の相手と食事をすることもありますし、歩く道まで――」
「では、その“仕事関係の相手”は、あなたとどのような仕事上の関係にあるんですか」
城戸が言った。
修一が一瞬詰まる。
「それは……個人的な――」
「個人的、ということですね」
城戸は即座に拾った。
「そして彼女は、その“個人的な知人”である以上の役割を果たしていた」
城戸は、次の紙を前へ出す。
佐伯の聞き取り記録だ。
「西野さんは、友人との電話でこう話しています。“本気の浮気ではない”“手伝っているだけ”“奥さんのためにもなると聞いている”」
修一の顔色が、そこでわずかに変わった。
「それは盗み聞きでしょう」
初めて声の抑え方が崩れた。
「問題は、盗み聞きの是非ではありません。西野美羽さんが、あなたとの関係を本物の交際だとは認識していなかったことです」
修一は口を閉じた。
「さらに彼女は、あなたから“妻のためにもなる”“あなたは疑われて困っている”と説明されていた」
城戸の声には抑揚がない。
「つまりあなたは、奥様には“疑う材料”を見せ、黒崎探偵事務所には“追える行動”を見せ、西野美羽さんには“困っている夫”の顔を見せていた」
真由美の指先が、膝の上で強く握られる。
それでも彼女は視線を落とさなかった。
城戸はそこで、はっきりと言った。
「あなたが作ろうとしたのは、不倫の証拠ではありません」
「“夫の浮気を思い込み、探偵まで使って騒ぎ立てる妻”という人物像です」
その言葉が落ちた瞬間、真由美はゆっくりと息を吸った。
長い間、自分の胸の中で言葉にならなかったものが、初めて誰かの口から正しい形で外へ出た気がした。
修一は、初めて返す言葉を選び損ねた顔になった。
「……何を根拠に、そこまで」
「根拠は順番です」
城戸が言う。
「あなたは先に探偵事務所へ来た。依頼を予告した。奥様が動く材料を与えた。追えば怪しい行動を見せた。だが決定打は与えなかった。協力者には別の説明をしていた。これだけ揃ってなお、“偶然誤解された夫”だと主張するのは難しい」
修一の視線が、今度は真由美へ向いた。
その目は、助けを求めるものでも謝るものでもなかった。むしろ“余計なことを言うな”と押し返す時の目に近かった。
だが真由美は目を逸らさなかった。
城戸は次の資料へ手を伸ばした。
「そして最後に、もうひとつ伺います。西野美羽さんとは別の女性についてです」
真由美が息を止める。
修一の表情から、今度こそ完全に余裕が消えた。
「あなたは、通常の通信履歴にはほとんど痕跡を残さず、別の女性と接触していた」
城戸は写真を一枚、前へ滑らせる。
木曜夕方の、人気の薄い通り。修一と、あの女の横顔。
「これは、何の関係ですか」
修一はすぐには答えなかった。
「……仕事の相談です」
ようやく出てきた言葉は、今まででいちばん弱かった。
水瀬は思わず、机の下で奥歯を噛んだ。
「仕事の相談相手と、通常の連絡手段では痕跡がほとんど残らない」
城戸は淡々と言う。
「一方で、行動のタイミングだけは噛み合いすぎている。共有アカウントの下書き機能を使ったやり取りなど、送受信履歴を残さない方法はいくらでもあります」
修一が顔を上げる。
「そこまで調べる権利があるんですか」
初めて、声に怒気が混じった。
「問題は権利ではありません」
城戸は一歩も引かない。
「あなたが、“見せたい相手には予定を残し、隠したい相手には痕跡を残さない”ように行動していたことです」
そこへ、水瀬が初めて口を挟んだ。
「西野美羽さんとの距離は、綺麗すぎました」
修一が水瀬を見る。
「でも、あの女性との距離は自然だった」
水瀬は視線を逸らさない。
「見せるための関係と、隠すための関係。最初から分けていたんですよね」
城戸が最後のひと押しをかける。
「つまりあなたは、奥様の信用を壊しながら、別の女性との関係だけは守ろうとしていた」
修一の整っていた顔が、そこで初めて目に見えて崩れた。
「違う」
声が速かった。
「そんなつもりじゃない。俺はただ――」
その“ただ”の先に、もう整った言葉は続かなかった。
真由美は、すぐには言葉を返さなかった。
怒鳴らない。泣きもしない。
その静けさの方が、修一にはこたえているように見えた。
「……やっぱり、そうだったんですね」
「私、ずっと、自分がおかしいのかと思っていました」
彼女の声は小さかった。
だが、最初に事務所へ来た時のような揺れはない。
「私が疑いすぎなんだって。考えすぎなんだって。何度もそう言われて、だんだん、自分の見たものまで信じられなくなって」
真由美は修一を見た。
「でも、違った」
修一の喉が動く。
何か言おうとして、言葉にならない。
「真由美」
その呼び方だけが、妙に古びて聞こえた。
「違う、そういうつもりじゃ……」
「どういうつもりだったの」
真由美の声は、驚くほど静かだった。
「私を、おかしい人みたいに見せて。探偵まで使って。ほかの人にまで嘘をついて」
修一は目を逸らした。
それで十分だった。
城戸はそこで話を閉じに入った。
「本日の時点で確認できるのは、あなたが偶然疑われた夫ではないということです」
「疑われるように仕組み、その疑いを奥様の不安定さとして利用しようとした。その前提で、今後の協議を進めます」
そこまで言ってから、城戸は少しだけ間を置いた。
「ただし」
修一が顔を上げる。
「ここで必要なのは、感情的に誰かを叩くことではありません。相沢さん、あなたが置いた形を、正しい順番で戻すことです」
黒崎はその言葉に、わずかに視線を上げた。
城戸はやはり、勝ち負けではなく扱い方の線引きをしている。
修一は返事をしなかった。
もはや整った沈黙ですらなく、ただ言葉を失った人間の黙り方だった。
真由美もそれ以上何も言わなかった。
十分だったからだ。
自分の感覚が間違っていなかったこと。
壊れていたのは自分ではなく、目の前の男のやり方だったこと。
その二つが分かれば、もうその場で勝ち誇る必要はない。
会議室を出る頃には、曇っていた空が少しだけ暗くなっていた。
城戸が必要な説明を終え、真由美は別室で少し休むことになった。修一は無言のまま、事務所のスタッフに案内されて先に出ていく。
黒崎は最後に机の上へ残された報告書を見た。
駅前の写真。
レストラン前の写真。
ホテル街へ向かう後ろ姿。
本来なら、それらは単なる記録にすぎない。
だが今日は、その記録が危うく一人の女を壊す道具になるところだった。
証拠は、写したものしか語らない。
だからこそ、その証拠が“誰に見せるために作られたのか”まで読まなければならない。
黒崎は報告書を静かに閉じた。
相沢真由美は、壊れなかった。
壊されかけていたのに、最後まで壊れなかった。




