第7章 弁護士事務所の机の上
城戸真司の事務所は、黒崎探偵事務所より二駅先の、再開発された一角にあるビルの六階に入っていた。
同じ「事務所」という言葉でも、そこに漂う空気はまるで違う。黒崎のところが、人の出入りや生活の匂いを少しずつ染み込ませた場所だとすれば、城戸の事務所は最初から余計なものを削ぎ落として作られた空間だった。受付のカウンターは低く、壁は白い。観葉植物さえ、飾りというより視線の通り道を整えるために置かれているように見える。
黒崎と水瀬が通された会議室も同じだった。
長机がひとつ。椅子が四脚。壁際に書棚。
それ以上のものは、ほとんどない。
黒崎は手にしていた封筒を机の上へ置いた。
紙のこすれる音だけが、小さく部屋に響いた。
城戸は向かいに座り、まだ封筒に手を伸ばさなかった。
四十六歳。細身で、背筋がまっすぐな男だ。高い声でも低い声でもないのに、不思議と部屋の中で輪郭を持つ話し方をする。相手に威圧感は与えないが、曖昧な言葉をそのまま通す空気も作らない。
「相沢修一さんの件ですね」
最初の一言で、彼はすでに大半の説明を省いていた。
黒崎が短くうなずく。
「単純な不倫調査では終わらなかった」
「黒崎さんがその顔で来る時は、だいたいそうです」
城戸はそう言って、ようやく封筒へ手を伸ばした。
水瀬はわずかに眉を上げた。
黒崎は普段から表情の薄い男だが、城戸にはそれでも分かるらしい。
「そんなに顔に出てるか」
「出てはいません」
城戸はあっさりと言う。
「ただ、無駄な前置きをしない時は、面倒な構図の案件です」
その言葉に、水瀬は思わず小さく息を漏らした。笑いに近いが、声にはならない。黒崎が横目で一度だけ見る。城戸は気にした様子もなく、封筒から資料を取り出していった。
依頼書。
真由美のメモ。
調査写真。
水瀬の現場メモ。
佐伯の聞き取り記録。
本命女性との接触記録。
机の上に紙が並ぶたびに、事件の輪郭が静かに濃くなっていく。
「順番に伺います」
城戸は言った。
「まず、起点から」
黒崎が話し始めた。
五日前、相沢修一が自ら黒崎探偵事務所を訪れたこと。
近いうちに妻が自分の素行調査を依頼しに来ると予告したこと。
その時は、きちんと証拠を押さえてほしいと告げたこと。
城戸は途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、机の上のメモ用紙に短く要点だけを書きつけていく。質問を差し込むのは、黒崎がひと区切り置いたあとだけだった。
「その時点で、相談ではなく“予告”に近かった」
「そう見た」
「理由を明確には言わなかった」
「言わない。だが、妻の性格についてだけはやけに整えて話した」
城戸はそこで一度だけ目を上げた。
「思い込みが激しい、という類いの?」
「そうだ」
「なるほど」
その「なるほど」は、理解より分類に近い響きを持っていた。
次に水瀬が、真由美の来所時の印象と依頼内容を説明した。
彼女は自分の感覚を疑いながら、それでも確認せずにはいられないというふうに話したこと。
スマホに見えた金曜夜の予定が、依頼の直接のきっかけになっていたこと。
内容が妙に具体的で、偶然目に入った情報としては出来すぎていたこと。
「誘導の可能性が高いと」
城戸が言う。
「はい」
水瀬はうなずいた。
「見ようと思って見た、というより、“見えてしまった”と言う方が自然でした。でもその見えた内容が、そのまま調査の設計図になるくらいには揃っていた」
城戸は依頼書と真由美のメモを並べる。
その仕草は無駄がなく、まるで紙同士の相性を見ているようだった。
「つまり相沢修一さんは、奥様が依頼に来るだけでなく、どういう材料で来るかまで作っていた可能性が高い」
「その通りだ」
黒崎が答える。
「次に、調査当日の動きですね」
城戸は写真へ手を移した。
水瀬が調査当日の様子を説明する。
駅前での合流。
レストランでの食事。
ホテル街方向への移動。
だが、一線は越えない。
近いのに熱がない。恋人同士にしては、距離の取り方が丁寧すぎる。
「黒く見えるが、黒だと断定はできない」
城戸が写真を見ながら言う。
「まさにそれです」
水瀬は答えた。
「現場では十分に怪しい。依頼人が見れば、ほとんど確信してもおかしくない。でも、法的な意味で詰めようとすると足りない。そこを正確に選んでいました」
「意図的に濃いグレーを作ったわけですね」
「はい」
城戸は少しだけ口元を引いた。
笑ったわけではない。だが、ようやくこの事件の手触りを完全に理解した顔だった。
「厄介ですね」
それは感情的な悪口ではなく、案件の性質を評する言葉だった。
黒崎が鼻を鳴らす。
「まだ続きがある」
佐伯の聞き取り記録が、机の中央へ滑らせられる。
今度は黒崎ではなく水瀬が、その内容を淡々と読み上げた。
本気の浮気ではないこと。
手伝っているだけだという認識。
しかもその行動は“奥さんのためにもなる”“修一は疑われて困っている”と説明されていたこと。
美羽本人は、その説明をかなり信じている様子だったこと。
城戸はそこで、机の上の資料を一度見渡した。
「なるほど」
そして、ペンを置く。
「不貞の偽装ではありませんね」
水瀬が視線を上げる。
「と、言いますと」
「正確には、“人物像の偽装”です」
その言葉が、水瀬の胸にきれいに落ちた。
感覚として掴んでいたものに、ぴたりと名前がついた瞬間だった。
「相沢修一さんが作ろうとしたのは、不倫の証拠ではありません」
城戸は言った。
「“夫の浮気を思い込み、探偵まで使って騒ぎ立てる妻”という人物像です」
会議室の空気が、そこで一度固まった。
「自分からは何も言わない。だが疑う材料は見せる。探偵も動かせる。写真も残る。ところが決定打は出ない。最後に残るのは、疑い過ぎた妻の印象だけです」
「修一自身は、困っている被害者夫を演じられる」
水瀬が言う。
「そういうことです」
城戸は迷いなく認めた。
黒崎は机の上の報告写真を見ていた。
本来なら、こういう写真は事実を示すためのものだ。
だが今回は、それが危うく別の使い方をされるところだった。
「危ないところだったな」
「何がです?」
「報告書が、証拠じゃなく凶器になるところだった」
城戸はわずかにうなずいた。
「ええ。事実であることと、どう扱うべきかは別です。そこを切り分けないと、相手が置いた形のまま使われます」
水瀬は、あらためて本命女性との接触記録を前へ出した。
木曜夕方の、人気の薄い通り。短い接触。自然な距離。だが幸福な関係には見えない女。
「西野美羽とは別に、本命と見られる女性がいます」
城戸が写真を手に取る。
「見せる方と、隠す方ですか」
「たぶん」
水瀬は答えた。
「西野美羽とは違って、こっちは演技じゃない。ただ、対等でもなさそうでした」
城戸は本命女性の写真をしばらく見てから、ほんのわずかに眉を寄せた。
「この女性は、単なる交際相手として見るには不自然です」
そこで一度言葉を切る。
「相沢修一さんとの間に、別の被害関係がある可能性があります」
その一言だけで十分だった。
今ここで具体を言い切る必要はない。だが、水瀬が現場で拾った違和感は、机の上でも嘘をつかなかった。
城戸は資料をまとめ直す。
「では、ここからどう扱うかを整理します」
「最初に出すのは事前来所です。ここで“偶然疑われた夫”という前提を壊す」
「次に、依頼誘導です。奥様がその情報で動くと分かっていた。そこを押さえる」
「その次が、西野美羽との偽装関係。交際の有無を争う必要はありません。“交際相手ではないのに、交際相手のように振る舞わせた”ことが重要です」
黒崎が黙って聞いている。
「そのうえで、最後に本命女性の存在へ進む」
「いきなりそこから入らないんですか」
水瀬が問う。
「入りません」
城戸はきっぱりと言った。
「本人が一番触れられたくないのはそこでしょう。だからこそ、先に土台を崩します。“偶然疑われた夫”ではなく、“疑われるように仕組んだ夫”だと認めさせれば、その先は早い」
黒崎はその組み立てに、さすがだと思った。
探偵は事実を拾う。
弁護士は、拾われた事実の順番と扱い方を決める。
「話し合いには、真由美さんも出す」
黒崎が確認する。
「ええ」
城戸は答えた。
「ただし、主導権を握る必要はありません。奥様には、ここまでの構図をあらかじめ共有しておく。相沢修一さんにまた“考えすぎだ”と押し返されないように」
その一言で、黒崎は少しだけ楽になった気がした。
最後の資料が封筒へ戻ると、城戸はそれを真っすぐ黒崎の前へ返した。
「準備はできました」
黒崎が目を上げる。
「次は、机の上の話では終わりません」
城戸はまっすぐ言った。
「相沢修一さん本人の前で、これを崩します」
水瀬は黙ってうなずいた。
黒崎も、短くひとつだけ返した。




