第6章 見せる女と隠す女
翌週に入ると、調査の向きは明確に変わった。
もう金曜の夜を追っても仕方がない。
あの日に見えたものは、相沢修一が見せたかったものだ。
見るべきは、その裏側だった。
月曜の朝、黒崎探偵事務所では短い打ち合わせが行われた。
応接テーブルの上には、先週までの資料が薄い束になって残っている。黒崎はその横に新しいメモ用紙を置き、水瀬と佐伯を見た。
「今週からは見せなかった日の動きを洗う」
黒崎の声はいつも通り低い。
「金曜みたいな派手な動きは、もう期待しなくていい。むしろ何もないように見えるはずだ」
佐伯がノートを開く。
「何もないところを見ろ、ってことですか」
「そうだ」
黒崎はうなずいた。
「相沢が見せたかった動きは見た。次は見せたくない動きを探す」
水瀬が腕を組んだまま言う。
「表に出てる連絡手段とか、立ち寄り先とか、きれいすぎるんですよね」
「人間は隠そうとすると不自然になる」
黒崎は言った。
「だが、本当に用意周到なやつは隠すんじゃない。最初から残さない」
その言葉に、佐伯は少しだけ首をかしげた。
まだ完全には飲み込めていない顔だった。
水瀬がそれを見て、補足するように言う。
「連絡を消してるんじゃなくて、そもそも普通の履歴に残る形で連絡してない可能性があるってこと」
「……なるほど」
佐伯はそこで少し表情を引き締めた。
「怪しいことを探すんじゃなくて、怪しいものがなさすぎる不自然さを見るってことですね」
「そういうこと」
水瀬は短く答えた。
「相沢修一が、自分からは何もしていないように見えて、それでも誰かと噛み合って動いてるなら、その裏に何かある」
その日から三日間、修一の動きは驚くほど“普通”だった。
出勤時間にばらつきはない。
勤務先からの退勤も、週に一度軽く遅くなる程度。
寄り道をしても、立ち寄るのは書店かコンビニ、たまに駅ビルの惣菜売り場。
誰かと露骨に会っている様子もなく、通話が頻繁に入るわけでもない。
表面だけを見れば、先週の金曜がまるで嘘のように、きちんとした会社員だった。
だが水瀬は、二日目の時点で「きれいすぎる」と感じていた。
火曜の午後七時十分。
修一は勤務先を出ると、駅前の喫煙スペース近くで一度立ち止まり、スマホを取り出して画面を確認した。誰かにメッセージを打つ様子はない。通話もしない。そのままポケットへ戻し、改札へ向かう。
たったそれだけの動きだ。
普通なら気にも留まらない。
だが十分後、修一は降りた駅から少し歩いた先の公園脇で、妙に時間を合わせたような足取りを見せた。誰かと合流したわけではない。だが、何かの確認が入ったあとで動きを変えた人間の歩き方だった。
水瀬は、道路を挟んだ向こう側からその背中を見ていた。
『何かありましたか』
少し遅れて合流した佐伯が、イヤホン越しに訊く。
「連絡をした感じには見えない。通話してない。メッセージも打ってない」
佐伯はしばらく黙っていたが、やがて言った。
『怪しいのがないっていうか……怪しいのを、最初から落としてきてる感じですね』
水瀬はわずかに口元を動かした。
言い方は粗いが、本質には近い。
「そういうこと」
修一はその日、結局誰とも会わなかった。
いや、少なくとも外から見える形では会わなかった。
水曜も同じだった。
帰宅途中に一度だけ、駅のベンチでスマホを見る。
そのあと徒歩で十分ほどの場所へ行き、五分だけ立ち止まる。
またスマホを見て引き返す。
何も起きていないようにしか見えない。
だが、水瀬には逆に奇妙だった。
「誰とも連絡取ってない男の動きじゃない」
夜、事務所へ戻ってそう言うと、黒崎は資料から目を上げた。
「どう違う」
「確認の癖があるんです」
水瀬はその日のメモを机へ置く。
「長文打ってる感じはない。通話もしてない。でも、画面を見るタイミングのあとだけ動きが変わる。相手の返事を待ってるというより、共有してる何かを読んでる感じです」
佐伯が横から口を挟む。
「送ってないんじゃなくて、送る必要がないとかですか」
黒崎がそこで佐伯を見た。
思いつきで言った言葉だったのだろう。佐伯自身も、言いながら半信半疑の顔をしている。
だが水瀬は、その一言で何かが繋がるのを感じたようだった。
「……それだ」
「え?」
佐伯が目を瞬かせる。
「送ってないんじゃなくて、送る必要がない」
水瀬は独り言のように繰り返した。
「同じアカウントを二人で見てるなら、送受信はいらない」
黒崎の目が細くなる。
「共有か」
「はい」
水瀬は慎重に言葉を選んだ。
「たとえばメールアカウント。二人で同じアカウントに入って、下書きだけでやり取りするやり方なら、普通の送受信履歴は表に出にくい。片方が下書きを残して、もう片方が読んで書き換える」
佐伯が「うわ」と小さく漏らした。
「そんなことできるんですか」
「珍しくはない」
黒崎が答えた。
「使い捨ての連絡手段より、よほど痕跡が薄い場合がある」
水瀬は先週の依頼内容を思い出していた。
真由美に見せたスマホの画面には、予定が見える形で残っていた。
つまり修一は、“見せたい相手”には痕跡を残している。
その一方で、今の動きには普通の連絡履歴がほとんど見えない。
つまり、“隠したい相手”との痕跡は最初から残さないようにしている。
「見せる相手には予定を残す」
水瀬が言った。
「隠す相手には、何も残さない」
黒崎が小さくうなずく。
「あの男は、嘘をついてるんじゃない」
佐伯が顔を上げる。
「どういうことですか」
「見せる真実と、隠す真実を分けてるんだ」
黒崎の言葉は、静かだが重かった。
修一は真由美に嘘を見せたのではない。
見せていい真実――疑うに足る予定と、疑ってもなお決定打に届かない行動だけを切り出して見せた。
そして、本当に見せたくない真実――別の相手との連絡と接触――は、最初から表に出さなかったのだ。
木曜の夕方、その“隠したい方”が、ようやく形を見せた。
その日は、退勤時間が通常より三十分ほど早かった。
修一は会社を出たあと、駅とは逆方向へ歩いた。
水瀬が主尾行、佐伯が一筋向こうの通りで補助に回る。黒崎は少し離れた位置から全体を見ていた。
修一は繁華街ではなく、オフィスビルと古いマンションが混じる中途半端な一角へ入っていく。人気はあるが、わざわざ人が立ち止まる場所ではない。目立たず短時間の接触をするには都合がいい。
路地の奥にある小さなカフェの前で、修一は立ち止まった。
そこでスマホを一度だけ確認する。
そして数分後、女が現れた。
西野美羽ではなかった。
年齢は三十代後半から四十手前に見える。
黒のコートに、飾り気のないバッグ。派手さはないが、雑な印象もない。髪は肩のあたりで切り揃えられていたが、何度か指を通した跡のような乱れが残っている。
水瀬は一瞬で分かった。
こちらの方が、よほど“本当”だ。
修一と女の距離には、美羽との時のような演出の空気がなかった。
近づき方が自然だ。声をかけるタイミングも、立ち位置も、互いの歩幅の変え方も、身体が覚えている関係のそれだった。
『……違いますね』
イヤホン越しに、佐伯の声が低く入る。
「うん」
『こっちの方が自然です』
「自然だね」
それが逆に重かった。
修一と女は店へ入らなかった。
カフェ脇の細い通路を抜け、裏手の人目の薄い歩道へ移る。二人で歩く時間は短い。十分もなかっただろう。何かを話し、立ち止まり、また少し歩く。
恋人同士の逢瀬にしては味気ない。
だが、味気ないのは関係が薄いからではない。
目立たないために、最初から余計な熱を外に出さない動き方をしているだけだ。
水瀬はその女の横顔を遠目に見ながら、別の違和感を拾っていた。
怯えている、というほどではない。
だが、修一に対してどこか一段低い位置にいる。会話の主導権が常に修一の方にある。女はそれに従っている。対等な関係には見えなかった。
水瀬は、その女の歩き方にもう一つ奇妙な引っかかりを覚えた。
修一の一言に先回りして身体が動く。
それは恋人に甘える女の反応ではなく、相手の機嫌を損ねないために身についた癖のように見えた。
別れ際、女が一瞬だけ腹のあたりへ手をやった。
寒さのせいとも見える、ごく小さな仕草だった。
けれど水瀬には、身体のどこかを無意識に庇う人間の動きに見えた。
恋人というより、もっと別の傷を握られている人間の顔に近かった。
やがて二人は、何事もなかったように別れた。
修一は駅方向へ戻り、女は逆方向へ歩いていく。
『本命ですか』
佐伯が抑えた声で言う。
水瀬はすぐにはうなずかなかった。
“本命”という言葉が、いかにも男の側の物語に見えたからだ。
「少なくとも、西野美羽とは違う」
『芝居じゃない』
「うん」
水瀬は視線を離さないまま言った。
「西野美羽は見せるための女だった。こっちは隠すための女」
その言葉は、自分で口にしてみて、あまりにしっくりきた。
修一は女を二人使い分けている。
一人は、妻に見せるため。探偵に追わせるため。
一人は、自分の本当の生活のため。痕跡を残さないため。
どちらにも誠実さはない。
あるのは用途の違いだけだ。
事務所に戻ると、黒崎はすでに先に着いていた。
水瀬は撮った写真とメモを机に置き、今日見たことを順番に話した。
金曜とは違う、短くて地味な接触。
だが距離感は自然だったこと。
そして、女がどこか張りつめて見えたこと。
「なるほど」
黒崎は写真を一枚ずつ見ながら言った。
「西野美羽は見せるための女」
「はい」
「こっちは隠すための女」
「そう考えるのが自然です」
佐伯も続けた。
「通信の痕跡が表に見えないのに、動きのタイミングだけが噛み合いすぎてるのも、たぶんその女絡みです」
黒崎はうなずく。
「共有アカウントの下書き利用か、近い手口か」
「可能性は高いです」
水瀬が言う。
「見せたい予定は真由美さんに見せる形で残して、隠したい相手には普通の履歴を残さない。かなり分けてます」
杉本が、少し離れた受付側からこちらを見ていた。
会話の意味までは全部分からなくても、空気の冷たさは伝わるらしい。
「つまり……」
佐伯が言葉を探す。
「相沢修一は、浮気相手を二人作ってたってことですか」
黒崎は首を横に振った。
「そういう話じゃない」
その言い方に、佐伯は少し身を固くする。
「女を二人使ってるんじゃない」
黒崎は写真を伏せた。
「一人は壊すために使い、一人は守るために隠してる」
事務所の中が静まる。
「どっちも、自分の都合でだ」
水瀬は小さく息を吐いた。
まさしくその通りだった。
西野美羽は、真由美を“不安定な妻”に仕立てるための舞台装置だ。
では今日見た女は何か。
修一が守りたかった未来かもしれない。離婚後の生活かもしれない。
だが、少なくとも対等な幸福には見えない。
「今日の女」
黒崎が言った。
「見た印象はどうだ」
水瀬は少し考えた。
「西野美羽みたいな軽さはありませんでした。修一との距離は自然でしたけど……」
「けど?」
「幸せそうには見えなかったです」
その言葉に、黒崎の目がわずかに細くなる。
「なるほどな」
「守られてるというより、囲われてる感じに近いです」
水瀬は続けた。
「本人も、隠れて会ってるのが当たり前になってるように見えました」
黒崎は写真をまとめ、封筒へ戻した。
「いずれにしても、これで骨は見えた」
佐伯が問い返す。
「骨、ですか」
「相沢修一のやってることの形だ」
黒崎は静かに言った。
「妻に見せる関係と、隠す関係を最初から分けてる。探偵に追わせるのも計算のうち。そこまで揃えば、次は論理に変えるだけだ」
水瀬がうなずく。
「城戸先生ですね」
「明日、資料を持っていく」
黒崎は立ち上がった。
「感覚で分かってるだけじゃ足りん。机の上で使える形にする」
佐伯はその言葉を聞きながら、改めて今日見た女の横顔を思い出していた。
年上の、静かな女。
修一と並ぶ姿は美羽の時よりずっと自然だった。
だが、美羽よりずっと救いがなさそうにも見えた。
相沢修一は、よく出来た男だ。
黒崎がそう言った意味が、ようやく分かってきた気がする。
よく出来ているから厄介なのではない。
人を、人のまま見ていないから厄介なのだ。
用途ごとに分け、見せる位置と隠す位置を決め、自分の未来の部品みたいに扱っている。
黒崎は照明を一段落としながら、低く言った。
「今日は終わりだ」
だが誰もすぐには立たなかった。
それぞれが、修一の作った歪な構図を頭の中でなぞっていた。
見せるための女。
隠すための女。
そしてその間で、壊されかけていた妻。
事件は、ようやく全体の輪郭を持ち始めていた。




