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黒崎探偵事務所 Ⅰ -不倫の証拠は、誰のために-  作者: 定年プログラマー


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第5章 壊したいのは妻だった

 その夜、黒崎探偵事務所の明かりは、いつもより長く消えなかった。


 時計の針は九時を回っている。雑居ビルの他の階はほとんど暗く、廊下の気配も薄い。昼間は狭く感じる事務所が、夜になると少しだけ広く見えることがある。人の声が減る分、机や棚や壁の位置がくっきりするからだ。


 黒崎は応接テーブルを作業机代わりに使い、資料を並べていた。


 真由美の依頼書。

 彼女が書き留めたスマホ画面のメモ。

 調査当日の写真。

 水瀬の現場メモ。

 佐伯が持ち帰った通話内容の聞き取り。

 そして、補足確認で判明した協力女性の人物メモ。


 机の上の一枚に記されている名は、西野美羽。

 二十四歳。

 ここで初めて、現場では“若い女”としてしか見えていなかった輪郭に、名前が与えられた。


 ばらばらに見えたものを一度机の上へ広げてしまうと、人間のやったことは案外、隠しきれない。

 問題は、その線をどこで結ぶかだった。


 水瀬はソファに浅く腰掛け、写真を一枚ずつ見直している。

 佐伯はノートを開いたまま、まだ少し落ち着かない様子で背筋を伸ばしていた。

 杉本は受付側の照明を半分落とし、残務を片づけながらこちらの空気を気にしている。


 誰も急いで話そうとしなかった。


 今日起きたことは、ひとつの意味ではもう解けている。

 修一が見せていたのは、本当の不倫ではない。

 だが、それが分かったせいで、かえって事態は気味悪くなった。


「……名前まで出ると、少し感じが変わりますね」


 杉本が、人物メモの端を見ながら言った。


 黒崎は顔を上げない。


「何がだ」


「ただの“若い女”じゃなくて、ちゃんと一人いるんだなって」


 杉本は少し迷うように続けた。


「当たり前なんですけど。こうやって名前が置かれると、使われた人、って感じが強くなります」


 黒崎は短くうなずいた。


「そうだな」


 机の上に名前が置かれた瞬間、人は役割だけではなくなる。

 だが逆に言えば、修一はその名前すら、こちらが知る前から“用途”として扱っていたことになる。


 佐伯が耐えきれずに口を開く。


「なんか……やっぱり変ですよね」


 黒崎はようやく視線を上げた。


「どこがだ」


「どこがって、全部ですけど」


 佐伯はノートを見ながら、自分の考えを整理するように言った。


「西野美羽が協力者だったのは分かりました。でも、そこまでするかな……わざわざ、あんなに人目のある場所で会って、レストランに入って、ホテル街の方まで行って……いかにもって行動、逆に不自然ですよね?」


「そこなんだよね」


 水瀬が写真を一枚、テーブルへ置いた。

 駅前で合流した修一と美羽の横顔が写っている。距離は近い。見ようによっては、十分に親密だ。


「普通の不倫なら、もっとちゃんと隠す」


 水瀬は写真の端を指で押さえた。


「でもこの二人、最初から最後まで、雑すぎて……」


 佐伯が眉を寄せる。


「雑……ですか」


「会う瞬間も、歩く距離も、笑うタイミングも、ホテル街へ向かう流れも」


 水瀬は淡々と続けた。


「不自然なくらい、絵になる位置に収まってる。あれは感情で動いた結果じゃない。見せることを前提にした動き」


 佐伯は黙った。

 現場ではまだ半信半疑だったが、こうして事務所で写真と話を並べると、水瀬の見ていたものが少しずつ輪郭を持ちはじめる。


 黒崎はそこで、依頼書を指先で軽く叩いた。


「相沢修一が作りたかったのは、不倫の証拠じゃない」


 その一言で、空気がわずかに変わる。


 杉本が顔を上げる。

 佐伯もノートから目を離した。


 黒崎は視線を机の上に落としたまま言った。


「“夫の浮気を思い込み、探偵まで使って騒ぎ立てる妻”という形だ」


 静かな事務所の中で、その言葉は低く落ちた。


 佐伯は息を呑む。

 杉本は、真由美が最初に来た時の声を思い出したように目を伏せる。


「……相沢さん、怒ってる感じじゃありませんでしたよね」


 杉本が言った。


「むしろ、自分が間違ってるって言われるのに慣れてる人みたいでした」


 水瀬がゆっくりとうなずく。


「あの人、疑ってたんじゃないんですよ」


 佐伯が視線を向ける。


「どういう意味ですか」


「疑った自分を、また否定されるのが怖かったんです」


 水瀬は依頼書のコピーへ目を落とした。


「だから、怒って確かめに来たんじゃない。自分の見たものに意味があるのかどうか、最後まで怖がりながら来た」


 杉本が小さく息を吐く。


「それ、すごく分かります」


 黒崎はその言葉を否定しなかった。


「妻に疑わせる。探偵を動かす。怪しい写真を撮らせる。だが、決定打は出させない」


 水瀬が引き取る。


「そうなった時に残るのは、“浮気を思い込んで探偵まで使った妻”って印象」


「そういうことだ」


 黒崎は言った。


「壊したかったのは真由美の感情じゃない。信用だ」


 杉本が持っていたカップをトレイへ戻す。


「ひどいですね……」


「離婚を有利にしたいのかもしれん。慰謝料や財産分与かもしれない。あるいは周囲に、自分は被害者だと見せておきたいのかもしれない」


 黒崎はひとつずつ可能性を並べる。


「だが、どれにしても共通してるのは、真由美の信用を削ることだ」


 佐伯がノートを見たまま言う。


「でも、それだけのために探偵まで使いますか」


 黒崎はそこで、写真の束をまっすぐ揃えた。


「使う奴はいる」


「そんなにまでして……」


「探偵の報告書は、本人が思ってるより重い」


 黒崎の声は静かだったが、少し硬かった。


「写真と時刻と行動の記録が並ぶ。そこに“怪しい”という空気までつけば、本人が何を言っても、後から覆しにくい」


 佐伯がはっとしたように顔を上げる。


「じゃあ、報告書まで……」


「利用されるところだった」


 黒崎は短く言った。


「証拠は事実を残す。だが、その事実がどう使われるかまでは、自分で決めてはくれない」


 水瀬が低く言う。


「写ってるから真実、じゃないんですよね」


「写ってるのは、その角度から見えたものだけだ」


 黒崎は答えた。


「今回の問題は、嘘の写真を撮らされたことじゃない。事実の並べ方ごと利用されかけたことだ」


 しばらく誰も喋らなかった。外を走る車の音が、窓を一度だけ低く震わせる。


「証拠が動く先が重要なんだろう」


 黒崎は言った。


「妻に渡る。話し合いに出る。記録に残る。その流れまで含めてな」


 佐伯は、机の上に並んだ写真を見た。

 現場では“十分な成果”に思えたものが、今は別の顔に見える。


 ただ撮れたものではない。

 撮らせるために配置されたものだったのだ。


「……怖いですね」


 ぽつりと漏らすと、水瀬が少しだけ視線を向けた。


「何が?」


「相手によって、見せる顔を変えてるのもそうですけど」


 佐伯は言葉を探した。


「探偵まで、自分の段取りの中に入れてたことです」


 黒崎はそれにすぐには答えなかった。


 修一は、自分の妻をどう見せるかを考えていた。

 美羽には、疑われて困っている夫の顔を見せた。

 探偵には、追えば怪しいが断定はできない行動を見せた。

 相手に応じて、必要なだけの“真実”を切り分けていた。


 そこまで整理された悪意は、怒鳴る人間のそれよりむしろ質が悪い。


 水瀬が、写真の束の一番上を裏返した。


「でも、それでもまだ足りないんですよね」


 黒崎がうなずく。


「そうだ」


「妻の信用を壊すだけなら、ここまで大きな舞台にしなくてもいい」


「その通りだ」


 黒崎は西野美羽の人物メモへ視線を落とした。


「見せるための女をここまで作るなら、別に守りたい相手がいる」


 佐伯が小さく繰り返す。


「守りたい相手……」


「正確には、守りたい未来かもしれん」


 黒崎は言った。


「今の生活を壊すためだけじゃなく、その先で自分が困らない形まで作ろうとしてる」


 水瀬がすぐに応じる。


「本命は別にいる」


「そうだ」


 黒崎はうなずいた。


「西野美羽は見せるための女だ。本当に隠したいのは、その先にある」


 黒崎は封筒へ資料を戻した。


「ここから先は、“何があったか”だけじゃない。“何を隠して、何を見せていたか”を押さえる」


 水瀬が静かに立ち上がる。


「了解です」


 佐伯もノートを閉じる。だが、まだ一つだけ気になることがあったらしい。


「黒崎さん。もし、うまくいってたら……真由美さんは、本当に“そういう人”ってことにされてたんですか」


 黒崎はすぐには答えなかった。


 依頼書。

 写真。

 報告書。

 話し合い。

 その先にある、周囲の雑談や一般論まで、ふと頭をよぎる。


「されたかもしれないな」


 黒崎は静かに言った。


「思い込みが強い。感情的だ。探偵まで使って騒ぎ立てた。そういう説明は、いったん揃うと強い」


 佐伯が黙る。


 杉本が受付側から小さく言った。


「そういうの、一度つくと、あとから違うって言っても、きれいには戻らないですよね」


「戻らないこともある」


 黒崎は答えた。


「だから、今の段階で止める」


 その言葉に、事務所の中の空気が少しだけ締まった。


 全面的に取り返せるとは限らない。

 だが、向こうが決めた輪郭のままで終わらせないことはできる。

 そのために、探偵事務所がここにいる。


 黒崎は最後の資料を封筒へ戻した。


「今日はここまでだ」


 誰もすぐには動かなかった。

 なんとなく見えていた違和感は、この夜ようやく構図になった。

 そしてその構図の先に、まだ別の女がいる。


 夜はまだ長い。

 だが、事件の本当の輪郭はようやく机の上に姿を見せ始めていた。


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