表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒崎探偵事務所 Ⅰ -不倫の証拠は、誰のために-  作者: 定年プログラマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/9

第4章 協力者の声

 西野美羽は、修一と別れてから一度も振り返らなかった。


 駅へ向かう人の流れに自然に混ざり、ヒールの音を抑えるように歩いていく。恋人と別れたばかりの女なら、もう少し頬に残り火のようなものがある。会話の余韻でも、照れでも、安堵でもいい。何かしら、相手と一緒にいた空気を身体に引きずるものだ。


 だが、美羽にはそれがなかった。


 佐伯は歩道の反対側から、その若い女の背中を追っていた。

 まだ名前は知らない。

 ただ、さっきまで修一の隣にいた時と、今の彼女の空気が違うことだけは分かった。


 まだ若い。化粧も服も、自分がどう見えるかを多少は意識している年頃だろう。けれど、さっきまで修一の隣にいた時に漂っていた“若い女らしさ”が、別れた途端にすっと引いている。恋の熱が冷めたのではない。役目が終わって気が抜けたような顔だった。


 佐伯は無線を切り、スマホだけをポケットに収めた。

 水瀬から「短く見て」と言われている。深追いはしない。相手に勘づかれれば終わりだ。


 だが今はまだ、その必要はなさそうだった。


 美羽は駅前広場の喧騒を抜け、少し人通りの減る通りへ入った。コンビニの灯りが白く路面を照らしている。そこで足を緩め、バッグからスマホを取り出した。画面を確認し、着信に応じるように耳へ当てる。


「もしもし?」


 声が、さっきまでと違った。

 修一の前では少しだけ背伸びしていた声が、電話に出た瞬間、年相応の柔らかさへ戻る。


 佐伯はコンビニ脇の自販機の陰へ、さりげなく位置をずらした。聞こうとして聞くのではない。近くにいたら聞こえてしまう、ぎりぎりの距離を取る。


「うん、今終わった」


 美羽が笑う。

 その笑い方は、レストランの前で修一に向けた笑顔より、ずっと自然だった。


「違う違う、本気の浮気とかじゃないよ」


 佐伯の背筋がわずかに強張る。


 やはりそうか、と思うのと、思った以上にあっさり出た、という驚きが同時に来た。


 美羽は道路脇の植え込みのそばで立ち止まり、ヒールの先でアスファルトを軽く擦った。


「いや、ほんとに手伝ってるだけ。そういうのじゃないって」


 コンビニの自動ドアが開き、客がひとり出てくる。佐伯はジュースを選ぶふりをしながら身体の向きを変えた。視線は送らない。耳だけを向ける。


「うん……まあ、最初はどうかなって思ったけど。でも、奥さんのためにもなるって言われたし」


 佐伯は思わず自販機のボタンを押しかけ、寸前で指を止めた。


 奥さんのため。

 修一が彼女にそう説明していたということか。


「なんかね、相沢さん、奥さんにずっと疑われてて大変みたいで。ちょっとでも変なことがあると、すぐそっちに取られちゃうって」


 美羽の声には、演技の調子がなかった。

 本気でそう信じている人間の、戸惑い混じりの同情だった。


「そう。だから、ちゃんと違うって分かるようにするっていうか。ほら、一回、はっきりさせた方がいいこともあるじゃん?」


 電話の向こうで何か言われたらしい。

 美羽は少しだけ眉をひそめ、それから小さく肩をすくめた。


「いや、もちろん変な感じはあったよ?だから最初は断ろうかと思ったんだって。でも、なんか気の毒でさ。そんなに困ってるなら、少し付き合うくらい……って」


 気の毒。


 その言葉に、佐伯は息を止めた。


 相沢修一のどこに、そんな要素がある。

 あの男は、自分から舞台を整え、探偵が動くことまで読んでいた。計画していた側の人間だ。被害者の顔をしていたとしても、それは見せるための顔にすぎない。


 だが、彼女はその顔を信じている。


「大丈夫だよ、ちゃんとした関係じゃないから」


 彼女は言った。


「ほんとに、そういうんじゃない。食事して、ちょっとそれっぽくして、終わり」


 佐伯の頭の中で、今夜見た場面が次々と繋がっていく。

 駅前での合流。

 レストランでの食事。

 ホテル街へ向かうが、入らない。

 触れそうで触れない距離。


 全部、最初から“それっぽく”するための動きだったのだ。


「え? ううん、奥さんのことは知らないよ。会ったこともないし」


 彼女は少しだけ声を潜めた。


「でも、これで奥さんも落ち着くならいいかなって。相沢さんも普通に生活したいだけなんだろうし」


 普通に生活したいだけ。


 佐伯は唇の裏を噛んだ。

 今夜、修一が本当に普通の男に見えた瞬間など、一度もなかった。


 彼女はさらに何か言いかけたが、そこでふと周囲を見た。

 佐伯は即座に自販機へ視線を落とし、財布から小銭を出した。缶コーヒーのボタンを押し、取り出し口に手を入れる。後ろでスマホの向こうに向かって笑う声が、少しだけ遠くなった。


「じゃ、また後で話す」


 通話が切れる。


 彼女はスマホをバッグへ戻し、短く息を吐いた。その吐き方が、ようやく何かの役目から解放された人間のものに見えた。彼女はもう一度だけ髪を直し、そのまま駅の階段へ向かっていく。


 佐伯は追わなかった。


 ここで深く入るより、今聞いたことを持ち帰る方が先だった。

 水瀬の違和感は正しかった。

 いや、正しいというより、見ていた場所が最初から違っていたのだ。


 佐伯は缶コーヒーを片手に、人混みの薄い方へ歩き出しながらスマホを取り出した。


「理央さん」


『どうだった?』


「当たりです」


 少し間があった。

 だが驚きはなかった。


『あの女、何か言った?』


「はい。友達との電話です。本気の浮気じゃない、手伝ってるだけだって。それから……“奥さんのためにもなるって言われた”って」


 通話の向こうで、水瀬の息がごく浅く動いた。


『ほかは?』


「修一に同情してます。奥さんに疑われて困ってる人、って信じてる感じでした」


 今度は少し長く沈黙が落ちた。


「たぶん、彼女は本当の目的を知らないです」


『そうだろうね』


「本気で、夫婦関係を落ち着かせる手伝いをしてると思ってます」


『分かった。そのまま戻ってきて』


 事務所に戻ると、明かりはまだ落ちていなかった。

 水瀬がソファに座り、今夜の写真を確認している。奥のデスクでは黒崎が腕を組んだまま椅子に深く座っていた。杉本もまだ帰っておらず、受付側で帳簿を閉じかけた手を止める。


「戻りました」


 佐伯が言うと、水瀬が顔を上げた。


「聞けた?」


「かなり、はっきり」


 佐伯は今聞いたことを順番に話した。

 本気の浮気ではないこと。

 手伝っているだけだという認識。

 修一が“奥さんのためになる”“疑われて困っている”と説明していること。

 そして、彼女がそれをかなり信じていること。


 話し終えるまで、誰も口を挟まなかった。


 杉本が先に小さく息を吐いた。


「奥さんのため、ですか……」


「はい。そう言ってました」


 佐伯は答えた。


「少なくとも、悪いことに加担してるつもりではなさそうでした」


 水瀬がソファの背にもたれた。


「やっぱりね」


 その言い方に勝ち誇った感じはない。むしろ嫌な確信が深まった時の重さだけがあった。


「現場で、距離が噛み合ってなかった。近いのに、関係が浅い。芝居なら説明がつく」


 佐伯はうなずいた。


「でも、気になったのはそこだけじゃないです」


「修一に同情してること?」


「そうです」


 佐伯は少し早口になった。


「修一のこと、本気で困ってる人だと思ってました。奥さんに疑われて気の毒な人、って」


 黒崎がそこで初めて口を開く。


「なるほどな」


 低い声だった。


「ただの偽装じゃない。相手ごとに見せる顔を変えてる」


 黒崎は依頼書と写真を見たまま、しばらく何も言わなかった。


 やがて低く言う。


「まだ足りない」


 佐伯が顔を上げる。


「何がですか」


「今見えてるのは、あの男が見せたかったものだ」


 黒崎は写真の束を指先で整えた。


「だが、これだけ手間をかけるなら、目的が別にある。」


 杉本が小さく言う。


「じゃあ、まだ終わってないんですね」


「終わってない」


 黒崎は立ち上がった。


「次は、見せなかった日を洗う」


 夜はまだ長い。

 だが、事件はようやく本当の顔を見せ始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ