第4章 協力者の声
西野美羽は、修一と別れてから一度も振り返らなかった。
駅へ向かう人の流れに自然に混ざり、ヒールの音を抑えるように歩いていく。恋人と別れたばかりの女なら、もう少し頬に残り火のようなものがある。会話の余韻でも、照れでも、安堵でもいい。何かしら、相手と一緒にいた空気を身体に引きずるものだ。
だが、美羽にはそれがなかった。
佐伯は歩道の反対側から、その若い女の背中を追っていた。
まだ名前は知らない。
ただ、さっきまで修一の隣にいた時と、今の彼女の空気が違うことだけは分かった。
まだ若い。化粧も服も、自分がどう見えるかを多少は意識している年頃だろう。けれど、さっきまで修一の隣にいた時に漂っていた“若い女らしさ”が、別れた途端にすっと引いている。恋の熱が冷めたのではない。役目が終わって気が抜けたような顔だった。
佐伯は無線を切り、スマホだけをポケットに収めた。
水瀬から「短く見て」と言われている。深追いはしない。相手に勘づかれれば終わりだ。
だが今はまだ、その必要はなさそうだった。
美羽は駅前広場の喧騒を抜け、少し人通りの減る通りへ入った。コンビニの灯りが白く路面を照らしている。そこで足を緩め、バッグからスマホを取り出した。画面を確認し、着信に応じるように耳へ当てる。
「もしもし?」
声が、さっきまでと違った。
修一の前では少しだけ背伸びしていた声が、電話に出た瞬間、年相応の柔らかさへ戻る。
佐伯はコンビニ脇の自販機の陰へ、さりげなく位置をずらした。聞こうとして聞くのではない。近くにいたら聞こえてしまう、ぎりぎりの距離を取る。
「うん、今終わった」
美羽が笑う。
その笑い方は、レストランの前で修一に向けた笑顔より、ずっと自然だった。
「違う違う、本気の浮気とかじゃないよ」
佐伯の背筋がわずかに強張る。
やはりそうか、と思うのと、思った以上にあっさり出た、という驚きが同時に来た。
美羽は道路脇の植え込みのそばで立ち止まり、ヒールの先でアスファルトを軽く擦った。
「いや、ほんとに手伝ってるだけ。そういうのじゃないって」
コンビニの自動ドアが開き、客がひとり出てくる。佐伯はジュースを選ぶふりをしながら身体の向きを変えた。視線は送らない。耳だけを向ける。
「うん……まあ、最初はどうかなって思ったけど。でも、奥さんのためにもなるって言われたし」
佐伯は思わず自販機のボタンを押しかけ、寸前で指を止めた。
奥さんのため。
修一が彼女にそう説明していたということか。
「なんかね、相沢さん、奥さんにずっと疑われてて大変みたいで。ちょっとでも変なことがあると、すぐそっちに取られちゃうって」
美羽の声には、演技の調子がなかった。
本気でそう信じている人間の、戸惑い混じりの同情だった。
「そう。だから、ちゃんと違うって分かるようにするっていうか。ほら、一回、はっきりさせた方がいいこともあるじゃん?」
電話の向こうで何か言われたらしい。
美羽は少しだけ眉をひそめ、それから小さく肩をすくめた。
「いや、もちろん変な感じはあったよ?だから最初は断ろうかと思ったんだって。でも、なんか気の毒でさ。そんなに困ってるなら、少し付き合うくらい……って」
気の毒。
その言葉に、佐伯は息を止めた。
相沢修一のどこに、そんな要素がある。
あの男は、自分から舞台を整え、探偵が動くことまで読んでいた。計画していた側の人間だ。被害者の顔をしていたとしても、それは見せるための顔にすぎない。
だが、彼女はその顔を信じている。
「大丈夫だよ、ちゃんとした関係じゃないから」
彼女は言った。
「ほんとに、そういうんじゃない。食事して、ちょっとそれっぽくして、終わり」
佐伯の頭の中で、今夜見た場面が次々と繋がっていく。
駅前での合流。
レストランでの食事。
ホテル街へ向かうが、入らない。
触れそうで触れない距離。
全部、最初から“それっぽく”するための動きだったのだ。
「え? ううん、奥さんのことは知らないよ。会ったこともないし」
彼女は少しだけ声を潜めた。
「でも、これで奥さんも落ち着くならいいかなって。相沢さんも普通に生活したいだけなんだろうし」
普通に生活したいだけ。
佐伯は唇の裏を噛んだ。
今夜、修一が本当に普通の男に見えた瞬間など、一度もなかった。
彼女はさらに何か言いかけたが、そこでふと周囲を見た。
佐伯は即座に自販機へ視線を落とし、財布から小銭を出した。缶コーヒーのボタンを押し、取り出し口に手を入れる。後ろでスマホの向こうに向かって笑う声が、少しだけ遠くなった。
「じゃ、また後で話す」
通話が切れる。
彼女はスマホをバッグへ戻し、短く息を吐いた。その吐き方が、ようやく何かの役目から解放された人間のものに見えた。彼女はもう一度だけ髪を直し、そのまま駅の階段へ向かっていく。
佐伯は追わなかった。
ここで深く入るより、今聞いたことを持ち帰る方が先だった。
水瀬の違和感は正しかった。
いや、正しいというより、見ていた場所が最初から違っていたのだ。
佐伯は缶コーヒーを片手に、人混みの薄い方へ歩き出しながらスマホを取り出した。
「理央さん」
『どうだった?』
「当たりです」
少し間があった。
だが驚きはなかった。
『あの女、何か言った?』
「はい。友達との電話です。本気の浮気じゃない、手伝ってるだけだって。それから……“奥さんのためにもなるって言われた”って」
通話の向こうで、水瀬の息がごく浅く動いた。
『ほかは?』
「修一に同情してます。奥さんに疑われて困ってる人、って信じてる感じでした」
今度は少し長く沈黙が落ちた。
「たぶん、彼女は本当の目的を知らないです」
『そうだろうね』
「本気で、夫婦関係を落ち着かせる手伝いをしてると思ってます」
『分かった。そのまま戻ってきて』
事務所に戻ると、明かりはまだ落ちていなかった。
水瀬がソファに座り、今夜の写真を確認している。奥のデスクでは黒崎が腕を組んだまま椅子に深く座っていた。杉本もまだ帰っておらず、受付側で帳簿を閉じかけた手を止める。
「戻りました」
佐伯が言うと、水瀬が顔を上げた。
「聞けた?」
「かなり、はっきり」
佐伯は今聞いたことを順番に話した。
本気の浮気ではないこと。
手伝っているだけだという認識。
修一が“奥さんのためになる”“疑われて困っている”と説明していること。
そして、彼女がそれをかなり信じていること。
話し終えるまで、誰も口を挟まなかった。
杉本が先に小さく息を吐いた。
「奥さんのため、ですか……」
「はい。そう言ってました」
佐伯は答えた。
「少なくとも、悪いことに加担してるつもりではなさそうでした」
水瀬がソファの背にもたれた。
「やっぱりね」
その言い方に勝ち誇った感じはない。むしろ嫌な確信が深まった時の重さだけがあった。
「現場で、距離が噛み合ってなかった。近いのに、関係が浅い。芝居なら説明がつく」
佐伯はうなずいた。
「でも、気になったのはそこだけじゃないです」
「修一に同情してること?」
「そうです」
佐伯は少し早口になった。
「修一のこと、本気で困ってる人だと思ってました。奥さんに疑われて気の毒な人、って」
黒崎がそこで初めて口を開く。
「なるほどな」
低い声だった。
「ただの偽装じゃない。相手ごとに見せる顔を変えてる」
黒崎は依頼書と写真を見たまま、しばらく何も言わなかった。
やがて低く言う。
「まだ足りない」
佐伯が顔を上げる。
「何がですか」
「今見えてるのは、あの男が見せたかったものだ」
黒崎は写真の束を指先で整えた。
「だが、これだけ手間をかけるなら、目的が別にある。」
杉本が小さく言う。
「じゃあ、まだ終わってないんですね」
「終わってない」
黒崎は立ち上がった。
「次は、見せなかった日を洗う」
夜はまだ長い。
だが、事件はようやく本当の顔を見せ始めていた。




