第3章 見せるための尾行
金曜の夕方、駅前は一週間分の疲れを吐き出す人間であふれていた。
改札から吐き出される背広姿、信号待ちで滞る人の列、飲み屋の看板に足を止める若い会社員たち。仕事を終えた街のざわめきは、何かを隠すには都合がいい。だが同時に、何かを見せるにも都合がいい。
午後六時二十分。
水瀬理央は駅前ロータリーの端、タクシー乗り場の陰に立っていた。肩にかけたバッグの中には小型カメラとメモ帳。視線は絶えず動いているが、顔はどこにも留まらない。人を見る時ほど、人を見ていない顔をする。それが尾行の基本だった。
少し離れた位置に佐伯旬がいる。
横断歩道を挟んだ向こう側には黒崎がいた。コンビニのガラス越しにこちらを見ている。
イヤホン越しに、黒崎の低い声が入る。
『位置確認』
「水瀬です。北口ロータリー」
『佐伯です。南側歩道橋下です』
『よし』
声は短い。
『予定どおり動くと見ていい。だが、見ているのは足取りだけじゃない。相沢修一が、誰に何を見せたいのかも拾え』
「了解です」
『はい』
佐伯の声は少し硬かった。
まだ、普通の素行調査の延長にいる声だった。
午後六時三十七分。
駅前の人の流れがひとつ揺れた。
修一が現れた。
会社帰りらしいスーツ姿だった。紺のジャケットに細いストライプのネクタイ。四日前と同じように乱れがなく、疲れ方まで整って見える。駅前で足を止めると、スマホを取り出して画面を確認した。
急いでいる男の確認ではない。
誰かに見られても不自然に見えないように整えた確認の仕方だった。
『対象確認』
佐伯の声が入る。
『確認した』
「こっちからも確認済みです」
修一は待ち合わせ場所らしい柱のそばに立ち、腕時計を見た。周囲を見回す動きに不自然さはない。だが自然すぎた。待ち合わせしている男なら、もう少し落ち着かない目になる。誰か特定の相手を探す目になる。
修一の視線は、人混み全体を均等になぞっていた。
探しているというより、整えている目だった。
午後六時四十一分。
白いブラウスに淡いベージュの薄手コートを羽織った若い女が、改札側から歩いてきた。
派手すぎず、地味すぎもしない。若い女として目を引く要素はあるが、いわゆる“いかにも愛人”という雰囲気ではない。少し背伸びした大学生にも見える。高いヒールにまだ慣れていない歩き方だった。
修一がその女に気づく。
その瞬間、水瀬は無意識に息を止めた。
顔は笑っている。声の高さも変わらない。距離の詰め方も問題ない。
だが、“見つけた顔”としては薄かった。
恋人を見つけた時の人間は、目の筋肉が先に動く。呼吸が少し変わる。久しぶりならなおさらだ。修一にはそれがない。予定の相手が到着した時の、確認の表情だった。
女の方も同じだった。
笑顔はある。だが、それが修一に届くまでにほんの一拍遅れる。見つけて嬉しいから笑うのではなく、見つけたから笑う。そんな順番の表情だった。
『接触確認です』
佐伯の声に、わずかな高揚が混じる。
「確認した」
二人は並んで歩き出した。
肩が触れそうな距離だが、触れない。歩幅は合わせている。だが、歩きながら互いの身体の重心が噛み合っていない。関係の近さではなく、並び方を選んだ距離だった。
『普通に黒く見えますけどね』
佐伯が言う。
水瀬は二人の背中を見た。
修一が何か言い、女が少し口元を押さえて笑う。切り取れば十分に親しげだ。だが、笑いの余韻がない。恋人同士の会話なら、そのあとの沈黙にまで親密さが残る。今の二人にはそれがなかった。
「見える、ね」
『違うんですか』
「まだ分からない」
二人は駅前通りを抜け、予約していたらしいイタリアンレストランへ入った。
ガラス張りの店で、窓際の席に案内されるのが歩道側から少し見える。修一は店員に慣れた様子で言葉を返し、女の椅子を軽く引いた。ここだけ見れば、気の利く男と、それを自然に受ける若い女だ。
だが水瀬の目には別のものが映っていた。
修一の動きは流れるようでいて、一拍ごとに“見せる角度”がある。
女はそれに応じている。慣れているわけではないが、外さないようにしている。
店の外で待機しながら、佐伯が小声で言った。
『予約までしてるなら、やっぱり……』
「予約は見せるのに便利だから」
『便利、ですか』
「証拠にする側にも、される側にも」
店内での食事は一時間ほど続いた。
その間、黒崎が一度だけ位置を変え、周辺の導線を確認した。水瀬は店のガラスや外壁の反射を使って断片的に二人の様子を追う。向かい合っている。会話もしている。確かに親密には見える。
ただ、相手に意識を向ける密度が浅い。
見ている時間の長さに対して、視線の温度が足りない。
午後七時五十八分。
二人が店を出た。
夜の空気は十分に冷えていて、酔客の声が少しずつ増え始めている。修一は店を出たあと、何か自然な流れのように女の背に手を添えた。人波を避けるため、と言い訳できる程度の触れ方だった。
『今のは押さえられますね』
「押さえられる」
水瀬はそう返した。
押さえられる。
だからこそ変だ、と彼女は思った。
二人はホテル街へつながる道へ足を向けた。
駅前から少し外れたその通りは、表向きには飲食店とビジネスホテルが混じる普通の一角だ。だが一本入れば、誰が見ても用途のはっきりした看板が並ぶ。
『入りますかね』
佐伯の声が硬い。
水瀬はすぐには答えなかった。
二人は通りを進む。
女が少しだけ修一の方を向く。修一は何か囁く。女が笑う。
絵としては十分だった。依頼人がこの場を見れば、ほぼ黒と判断するだろう。
だが、距離が変わらない。
近づきそうで、近づかない。
行動の流れがあるのに、欲望の流れがない。
ホテル街の入口近くで、修一たちは速度を落とした。
コンビニの前で立ち止まり、何かを買うでもなく自販機の前をうろつく。二、三分。時間を潰しているように見えるが、何のための足止めかが曖昧すぎる。
『どうします』
「そのまま見て」
結局、二人はホテルへは入らなかった。
少し路地に入って、また戻り、別方向へ流れる。
タクシー乗り場で足を止めたかと思えば乗らず、そのまま歩道橋の方へ向かい、そこで女と別れた。
最後まで、決定打にはならなかった。
だが、十分すぎるほど怪しかった。
女は駅の反対側へ歩いていき、修一は一人でタクシーを拾った。
車が流れに紛れて見えなくなるまで、水瀬は動かなかった。
『……十分ですよね』
佐伯が言う。
その言葉には、若手なりの達成感が少し混じっていた。
写真もある。行動も追えた。報告書としては十分に“材料”になる。
だが水瀬は首を横に振った。
「十分すぎる」
『え?』
「だから変なんだよ」
佐伯が戸惑う。
『何がです』
水瀬は、女の背中が小さくなっていく方角を見た。
「近いのに、熱がない」
『熱、ですか』
「恋人同士って、もっと雑に触るの。視線も、間の取り方も、身体の寄り方も。あんなふうに丁寧じゃない。丁寧すぎる」
佐伯は黙った。
「それに、あの男は周りを気にしすぎてる」
水瀬は続けた。
「見つからないようにじゃない。見られても崩れないように、だ」
佐伯が小さく息を呑む。
『……浮気してるんじゃなくて』
「浮気してるように見せてる」
水瀬は言い切った。
その瞬間、自分の違和感がようやく形になった。
修一は尾行を避けていない。
むしろ尾行されても破綻しない行動を、最初から選んでいる。
ホテル街へ行く。だが入らない。
触れる。だが崩れない。
恋人に見える。だが本物にはならない。
『……じゃあ、何のために』
佐伯がようやく言った。
水瀬はすぐには答えなかった。
だが、答えの輪郭だけは見えていた。
「あの男には、見せたい相手がいる」
『奥さん、ですか』
「たぶん、それだけじゃない」
水瀬はカメラをバッグへ戻した。
「佐伯くん」
『はい』
「あの女を少し追って」
『彼女を、ですか』
「うん。答えは、たぶんあっちにある」
佐伯は一拍だけ迷った。
普通ならここで調査終了でもおかしくない。対象者は別れた。写真もある。これ以上は依頼外と取られても仕方がない。
だが、ここまで来て引くには、修一の動きが出来すぎていた。
『分かりました。短く見ます』
「無理はしないで。話が聞こえたら拾うくらいでいい」
『了解です』
佐伯が女の進行方向へ動く。
水瀬はその背中を見送りながら、黒崎へ短く連絡を入れた。
「黒崎さん」
『どうした』
「修一は黒じゃないです」
少し間があって、黒崎の声が返る。
『そうか』
「黒く見えるように動いてました」
『だろうな』
「驚かないんですね」
『驚く段階は、四日前に終わってる』
黒崎の声は淡々としていた。
『そのまま佐伯を動かせ。女の方に、もう一枚何かあるはずだ』
「了解です」
通信を切る。
夜の駅前は相変わらず騒がしかった。
笑い声も、車の音も、信号機の電子音も、何ひとつ変わらない。
その中で水瀬だけが、今夜の調査が“証拠を掴んだ”のではなく、“証拠の作られ方を見た”のだと理解していた。
相沢修一は、おそらく最初から知っていた。
妻が疑うことも。
探偵が動くことも。
報告書が作られることも。
そして、その報告書が誰のためにどう使われるかまで。
この夜が、ただの素行調査で終わらないことだけは、もう間違いなかった。




