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黒崎探偵事務所 Ⅰ -不倫の証拠は、誰のために-  作者: 定年プログラマー


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第2章 依頼に来た妻

 相沢修一が事務所に来てから、四日が過ぎた。


 黒崎探偵事務所の日常は、表向きには何も変わらない。電話が鳴り、書類が届き、調査員が外回りから戻ってきては、また別の案件へ出る。小さな事務所にとって、ひとつの奇妙な来客だけで仕事の流れが止まることはない。


 それでも黒崎は、机の引き出しに入れた名刺の、相沢修一の名前をはっきり覚えていた。


 妙な依頼人は珍しくない。

 だが、自分の妻が近いうちに依頼に来ると予告し、その時は証拠を押さえてほしいと言って帰った男は初めてだった。


 しかもあの男は、困っているようには見えなかった。

 これから起きることの形を、先に置いていった人間の顔をしていた。


 午後二時過ぎ、杉本奈緒が受付の電話を取った時も、黒崎は奥のデスクで報告書を読んでいた。


 調査員の水瀬理央と佐伯旬は、午前の外回りから戻り簡単な整理をしている。電話口の杉本の声はいつも通りやわらかかったが、二往復ほどしたところでわずかに調子が変わった。


「はい。ご相談ですね。承ります。……今からでも大丈夫です。お名前を伺ってもよろしいですか」


 黒崎は資料から目を上げた。


 杉本が一瞬だけこちらへ視線を向ける。


「……相沢、真由美さま」


 やはり来たか、と黒崎は思った。


 驚きはない。

 だが、胸のどこかで予感していた嫌な手触りが、ゆっくりと現実になっていくのを感じた。


 杉本が受話器を置く。


「三十分くらいでいらっしゃるそうです」


「そうか」


 黒崎は短く答えた。


 杉本は受話器のそばに立ったまま、少し考えてから口を開いた。


「落ち着いてるようには聞こえたんですけど……無理に整えてる感じでした」


 それを聞いて、水瀬が手を止める。


「怒ってる感じ?」


「いえ、逆です」


 杉本は眉を寄せた。


「自分が変なことを言ってないか、確認しながら話してる……」


 黒崎はうなずいた。

 四日前の男とは対照的だった。


 相沢修一は、最初から聞かせたい印象を持ってきていた。

 今日来る女は、おそらく逆だ。何を言えばいいか、自分でも決めきれないまま来る。


 水瀬が黒崎を見る。


「同席しますか」


「頼む」


 黒崎は答えた。


「佐伯も今日は中で待機しろ。必要があれば動いてもらう」


「はい」


 佐伯がうなずく。

 まだ何が始まるのかは掴めていない顔だったが、それでも空気の重さくらいは察したらしかった。


 約束の時間より少し早く、ドアベルが鳴った。


 杉本が受付へ向かう。黒崎は席を立たないまま、その気配を聞いていた。


「いらっしゃいませ」


「……あの、お電話した相沢です」


 女の声は思っていたより細かった。

 張りつめているくせに、必要以上に小さく抑えている声だった。大きく話せば、自分の言葉が大げさになるとでも思っているような、そんな話し方だった。


 黒崎が応接スペースへ出る前に、杉本が客をソファへ案内した。


 相沢真由美は四十一歳。

 黒いカーディガンに落ち着いた色のスカート。服装はきちんとしているが、整えたはずの髪の一部がわずかに浮いている。朝、ちゃんと支度をしたのに、途中で何度も指で触って崩れたままになったような髪だった。


 化粧は薄い。

 顔立ちは整っているが、それより先に目の下の影と、唇の乾きが目に入る。眠れていない人間の顔だと杉本は思った。


「どうぞ、おかけください」


 杉本が言うと、真由美は小さく頭を下げた。


「突然、すみません」


 その「すみません」に、杉本は胸の奥が少しざらついた。

 この人は、夫を疑って怒って来た人ではない。

 こんな相談を持ち込む自分が間違っているのではないかと、最後まで迷ってきた人の声だった。


 黒崎が向かいに座る。水瀬は少し斜めの位置に腰を下ろした。


「黒崎です。今日は私が伺います。こちらは調査員の水瀬です」


「相沢真由美です」


 バッグを膝の上に置いたまま、その端を指先だけで握っている。その手に、わずかな震えがあった。


 杉本が湯のみを置いて下がる。

 真由美は一瞬だけ水瀬の方を見たあと、少しだけ肩の力を抜いた。女性が同席していることが、多少は話しやすさにつながったらしい。


「それで、ご相談というのは」


 黒崎が促すと、真由美はすぐには口を開かなかった。


 湯のみに手を伸ばしかけ、途中でやめる。視線がテーブルの木目に落ちる。何から話せばいいのか、自分でも決められていないのだろう。


「……大したことじゃ、ないのかもしれないんです」


 やっと出てきたのは、そんな言葉だった。


「私の思い過ごしなら、それでいいんです。ただ……」


 そこで言葉が止まる。


「ただ、気になることがあると」


 黒崎が短く引き取ると、真由美は小さくうなずいた。


「はい」


「順番に聞きます。気になったことからで構いません」


 黒崎の声は低く、平坦だった。余計な慰めも急かしも入れない。こういう時、相手が欲しいのは優しさより、途中で切られないことの方が多い。


 真由美は一度だけ息を整えた。


「主人のことなんです」


 その一言で、場の空気がわずかに締まる。


「最近、帰りが少し不規則になって……でも仕事だと言われれば、そうなのかもしれないと思っていました。前はもう少し、遅くなる時も話してくれてたんです。どこで誰と会うとか、簡単でも説明してくれてたのに」


「最近は違う」


「はい」


 真由美は膝の上で指を組み直した。


「聞くと、嫌な顔をするようになりました。嫌な顔というか……笑って流す感じです。気にしすぎだよ、とか。考えすぎじゃないか、とか」


 水瀬は黙ってメモを取りながら、真由美の話し方を見ていた。

 感情は揺れている。だが論点は飛ばない。自分の感じた違和感が、本当に違和感として口にしていいものか確かめながら並べている話し方だった。


「スマホも」


 真由美が言った。


「前より手放さなくなりました。お風呂とか、寝る時とか……前はその辺に置いてたんです。でも、それも私が気にしすぎなのかなと思って」


「それで、決定的に気になったことがあった」


 黒崎が言うと、真由美のまつ毛がわずかに震えた。


「……はい」


「ある日、主人のスマホの画面が見えたんです」


 そう言って、真由美は少し身を縮める。

 見ようと思って見たのではない、と先に弁明したいのだろう。


「盗み見しようと思ったわけじゃないんです。ほんとに偶然で……主人がテーブルの上に置いた時、画面がついたままになっていて」


「どんな内容でした」


 水瀬が静かに訊いた。


「金曜日の夜の予定でした。時間が出ていて、駅前で待ち合わせみたいな……あと、お店の予約画面みたいなのも見えました」


「お店の名前は」


「全部は見えませんでした。でも、駅の近くのレストランだったと思います」


 真由美は言いながら、あの時の画面を頭の中でたどっているようだった。


「それから……女の人の名前みたいなのが、ちらっと。苗字じゃなくて、下の名前だった気がして」


「覚えていますか」


「いえ、そこまでは……でも、男の人の名前ではなかったと思います」


 声が少し揺れた。


「あと、場所の名前も見えて……その辺りって、あまり行かない所なんです。食事するだけなら別におかしくないのに、なぜか……」


 言葉が切れる。


「浮気だと思ってしまった」


 黒崎が補うと、真由美は苦しそうにうなずいた。


「はい。思ってしまって」


 湯のみへ伸ばした手が、今度は届いた。だが持ち上げたまま口をつけられない。指先が白くなっている。


「それを、ご主人に直接聞きましたか」


 水瀬の質問に、真由美は首を横に振った。


「……怖くて」


「怒られるからですか」


「怒られる、というか」


 真由美は視線を伏せた。


「また考えすぎだって言われると思ったんです。前にもそういうことがあって、そのたびに、私の方が変なんだって話になって……。だから今度は、私が見たものが本当にそういう意味のあるものなのか、確かめたくて」


 その「確かめたくて」に、水瀬は黒崎と同じものを感じた。

 夫を裁くための言葉ではない。

 自分の感覚を、まだ全部は手放したくない人の言葉だった。


「調査を希望される日は、その画面に出ていた金曜日ですね」


「はい」


「今週ですか」


「はい。今週の金曜です」


 真由美はバッグから小さなメモ帳を取り出した。そこには、見えた内容を慌てて書き留めたのだろう、時間や駅名の断片が並んでいた。字が少し潰れている。


「すみません、こんなの……」


「十分です」


 黒崎はメモを受け取り、一瞥した。

 時間、場所、店名の断片。

 依頼の材料としては、不自然なくらい具体的だった。


 相沢修一はやはり、来させたのだ。

 来ると予告しただけではない。来るための材料まで与えていた。


 だが、それを今ここで口にすることはできない。

 今はまだ、相沢修一がどこまで何を仕込んでいるのか見切れていない。

 真実は、見つけるだけでは足りない。どう扱うかを誤れば、相手の置いた形に利用される。


 黒崎はメモをテーブルへ置き、真由美を見た。


「調査の目的は、ご主人の不貞の有無を確認すること。それでよろしいですか」


「はい」


 真由美は答えたあと、少し間を置いて付け足した。


「本当に何もなければ、それが一番なんです」


 水瀬がペン先を止めた。


「何もない方がいい、と」


「そうです」


 真由美は苦笑にもならない表情で言った。


「私の勘違いなら、その方がいいです。私が恥をかくだけで済むなら、それで……」


 その言葉に、扉の外にいた杉本がそっと目を伏せた。

 お茶のおかわりを聞こうとして近くまで来ていたが、そのまま入る気になれなかった。


 この人は、夫を追いつめたいんじゃない。

 自分の恥で済むならその方がいいと言っている。

 それでも来たのは、それ以上に“何かがある”と思わされてきたからだ。


「承知しました」


 黒崎は淡々と告げた。


「調査の流れと、費用について説明します」


 そこからは事務的な確認に入った。


 対象者は相沢修一。

 調査希望日は今週金曜の夕方から夜。

 勤務先からの動きを見て、接触相手と行動内容を確認する。

 調査結果は報告書にまとめ、必要なら写真も添付する。


 真由美は説明の間、何度も小さくうなずいていた。

 理解しているというより、今ここで聞き漏らしてはいけないと、自分に言い聞かせている、うなずき方だった。


 契約書に署名する段になると、真由美の手はやはり少し震えた。


 杉本がさりげなく別のボールペンを差し出す。


「こちら、書きやすいので」


「あ……ありがとうございます」


 真由美は小さく頭を下げた。

 その時だけ、ほんの少しだけ表情が緩んだ。人に親切にされることに慣れていない人間の、ぎこちない安堵だった。


 すべての手続きが終わると、真由美はまた深く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 声はまだ細い。

 けれど、最初に来た時よりは少しだけ芯が戻っていた。自分の不安を、誰かがきちんと受け取った。その事実だけでも、人は少し持ち直す。


 杉本が玄関まで見送る。


 ドアが閉まり、足音が遠ざかるまで、事務所の中は誰も口を開かなかった。


 先に息を吐いたのは杉本だった。


「……かなり追い詰められてましたね」


 黒崎はテーブルの上に残った契約書を見ている。

 水瀬はメモを閉じながら言った。


「でも、話は散ってませんでした」


「ええ」


 杉本がうなずく。


「怒って来た人の話し方じゃなかったです。どっちかというと……自分が変なことを言っていないか、ずっと確かめながら話してる感じでした」


 水瀬が視線を上げる。


「疑ってる人というより、疑った自分を否定され続けてきた人の話し方でした」


 黒崎はそこでようやく口を開いた。


「あの男の言う“思い込みが激しい”とは、少し違うな」


 杉本が、四日前の来客を思い出したように小さく眉を寄せる。


「夫婦とは思えないですね」


 黒崎は依頼書を閉じた。


 相沢修一は、妻が来ることを知っていた。

 真由美は、スマホで見た予定をもとに依頼へ来た。

 その情報は偶然にしては出来すぎている。

 つまりこの依頼そのものが、すでにあの男の置いた形の中にある可能性が高い。


 だが、相手の置いた形の中にあるからといって、こちらまでそのまま使われる必要はない。


「調査は予定どおり進める」


 黒崎が言うと、水瀬がすぐにうなずいた。


「はい」


「ただし、追うのは相沢修一の足取りだけじゃない」


 黒崎は真由美のメモ帳の写しを指で叩いた。


「あいつが、誰に何を見せたいのかも見る」


 水瀬の口元がわずかに引き締まる。


「了解です。なら、写真の数より距離感を見ます」


「佐伯」


 黒崎が呼ぶと、佐伯が背筋を伸ばした。


「はい」


「金曜は入ってもらう。表の動きと、裏の位置取り、両方必要だ」


「分かりました」


 杉本が、片づける前の湯のみを見ながら言った。


「面倒なのが来るって、当たりましたね」


 黒崎は短く鼻を鳴らした。


「まだ、"来た"だけだ」


「これからもっと面倒になる、と」


「なるだろうな」


 窓の外では、夕方の光がビルの壁に斜めに差し込んでいた。

 依頼書に書かれた金曜日の日付を、黒崎はしばらく見ていた。


 相沢修一は、この紙がここに置かれるところまで、どこまで思い描いていたのか。


 黒崎はゆっくりと書類を封筒へ戻した。


「面倒なのが始まるぞ」


 水瀬が立ち上がりながら答える。


「最初から、向こうの段取りの上ですからね」


 黒崎は首を横に振った。


「いや」


 そのまま、静かに言った。


「段取りの上にいると思ってるのは、あっちだ」


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