表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒崎探偵事務所 Ⅰ -不倫の証拠は、誰のために-  作者: 定年プログラマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/9

第1章 予告してきた男

 午後三時を回ると、黒崎探偵事務所は一日の中でもいちばん静かな時間に入る。


 午前中の電話対応もほぼ終わり、外回りに出ている調査員もまだ戻らない。雑居ビルの四階にある小さな事務所には、古い空調の低い唸りと、紙をめくる音だけが残っていた。


 黒崎恒一は、デスクで報告書の見直しをしていた。


 書類の束は揃っている。使い終えた赤ペンは定規と平行に置かれていた。几帳面というより、余計なものが視界に入るのを嫌う癖だった。長くこの仕事をしていると、人の話より先に、人の沈黙や視線の置き方を見るようになる。机の乱れも、どこか人間の嘘に似ていた。


 受付側では、杉本奈緒が郵便物を仕分けていた。封筒を差出人ごとに分けながら、「今日は静かですね」と言う。


「静かな日ほど、面倒なのが来る」


 黒崎は報告書から目を上げずに答えた。


「縁起でもないこと言わないでください」


「経験則だ」


 杉本が小さく笑った、その時だった。


 受付のドアベルが鳴る。


 黒崎はペンを置いた。杉本が「はい」と応対に立つ。ガラス戸の向こうに立っていた男を見た瞬間、彼女はほんのわずかに表情を止めた。


 四十代半ばくらい。紺のジャケットに白いシャツ。派手ではないが質の良い時計。身なりに乱れがなく、疲れ方まで整って見えそうな男だった。


「ご相談の予約などは……」


「いえ、突然すみません」


 男はそう言って名刺入れを取り出した。動作に迷いがない。声も穏やかで、相手に圧をかけすぎない。


「少し、お話を伺っていただければ」


 杉本は名刺を受け取る。


 相沢修一


 名前に引っかかりはない。だが、杉本はその名刺をすぐ机に置く気になれなかった。感じの悪い人ではない。むしろ初対面の印象だけなら上等だ。けれど、こういう人は最初から“どう見られるか”を整えて来る。


「どうぞ。所長が伺います」


 応接スペースへ案内すると、男は礼を言って椅子に腰を下ろした。背もたれにもたれ過ぎず、かといって緊張も見せない。姿勢の作り方までそつがない。


 黒崎が向かいに座る。杉本がお茶を置くと、男は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。


「黒崎です」


「相沢です。突然、申し訳ありません」


 名刺交換を済ませる。黒崎は相沢の手元をちらりと見た。爪は短く揃っている。乱れを嫌う人間の手だった。


「ご相談とのことでしたが」


 黒崎が促すと、相沢は一度だけ間を置いた。言葉を探しているように見せるための間に、黒崎には見えた。


「少し、特殊なお願いになると思います」


「そういう仕事です」


 黒崎が平坦に返すと、相沢は苦笑のようなものを浮かべた。


「近いうちに、妻がこちらへ来ると思います」


 黒崎は表情を変えなかった。


「妻が、私の素行調査を依頼するために」


 そこで、杉本がテーブルにカップを置く手をわずかに止めた。


「その時は」


 相沢はまっすぐ黒崎を見た。


「ちゃんと証拠を押さえてください」


 空調の低い唸りが、やけに大きく聞こえた。


 黒崎はすぐには返事をしなかった。こういう時、驚きを先に見せると相手の置いてきた形に乗ることになる。


「ご自分が不利になるかもしれない証拠を、ですか」


「まあ、事実なら、そうなるでしょうね」


 相沢は静かに言った。


「ですが、曖昧なままにしておくより、きちんと残しておいた方が良いこともあります」


 筋だけを追えば、もっともらしい。

 だが黒崎には、その整い方自体が不自然だった。


「奥様が来られると、なぜ分かるんです」


「長く一緒にいると、相手が次に何を考えるか、ある程度は分かるものです」


「予想ですか」


「そうですね。予想というより……そうなるだろう、という確信に近いかもしれません」


 話し方がきれいすぎる。

 困っている夫の口調ではなく、聞かせるために形を整えた説明だった。


「奥様は、何を疑っておられるんですか」


「ありきたりですが、私が浮気をしていると、思っているようです」


 相沢はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。


「妻は昔から、少し思い込みが強いところがありまして。最近は特に、不安になると周りが見えなくなることがあります。帰宅時間や仕事の予定みたいな些細なことで、勝手に結論を出してしまうんです」


 その口調には、怒りも疲れも薄かった。

 ただ、観察結果を述べているような平坦さだけがある。

 それがかえって冷たい。


「説明はされないんですか」


「していますよ。ですが、一度そう思い込むと、こちらが何を言っても届かない」


 相沢はカップに手を添えたが、飲まなかった。


「だから、もしこちらへ来たら、きちんと調べていただきたいんです。客観的に」


 客観的に。


 黒崎はその言葉を胸の中で転がした。

 探偵が扱う“客観”なんてものは、せいぜい写真と時刻と行動の記録だ。だが写真は、写したものしか残さない。時刻は、その場に至るまでの意図までは記録しない。


 問題は、その事実が何であるかだけではない。

 誰のために、どう使われるかだ。


「依頼、という形で受けるべきですか」


 黒崎が訊くと、相沢は初めてほんの少しだけ笑った。


「いえ。まだ依頼ではありません。ただ……そうなった時に、こちらにも事情があると知っておいていただきたかった」


「事情」


「ええ」


 相沢は視線を少し落とした。


「妻を追い詰めたいわけではないんです。ただ、誤解は形にしておいた方が、後で楽なこともありますから」


 その言い方に、杉本はぞくりとした。

 誤解を解きたい人の言葉ではない。

 誤解を“使う側”の言葉だった。


 黒崎は、机の上に置かれた相沢の名刺を指先で軽く押さえた。


「奥様が来られたとして、その時こちらが何を受けるかは、話を伺ってから判断します」


「もちろんです」


 相沢はあっさりとうなずいた。

 食い下がりもしない。その引き際の良さまで、黒崎には用意されたものに見えた。


「私はただ、そう遠くないうちにそうなると、お伝えしたかっただけです」


「ご親切にどうも」


 黒崎の声音が、わずかに硬くなったが、相沢は気にしていない。


 立ち上がると、ジャケットの前を整える。

 そしてドアの前で足を止め、振り返った。


「妻は、自分で見たいものだけを見るんです」


 相沢は静かに言った。


「ですから、誰かが記録しておいた方がいい」


 杉本がドアを開けると、相沢は最後まで礼儀正しく頭を下げ、廊下へ出ていった。足音が遠ざかり、やがて階段へと続くドアの閉まる音がした。


 事務所の中に、元の静けさが戻る。


 杉本は、しばらくドアノブに触れたまま立っていたが、やがて小さく息を吐いて応接テーブルへ戻った。相沢が一口も飲まなかったお茶は、ほとんど冷めていなかった。


「感じの悪い人じゃなかったですけど」


 カップを持ち上げながら、杉本が言う。


 黒崎は返事をしない。


「なんだか……最初から答えを知ってる人みたいでした」


 黒崎はようやく顔を上げた。


「そういう奴はいる」


「話がうまい人、ですか」


「いや」


 黒崎は相沢の名刺を見た。


「話の形だけ先に作ってくる奴だ」


 杉本は少し黙ったあと、ふと訊いた。


「本当に来るんでしょうか、奥さん」


 黒崎は名刺を机の上に置いた。

 会社名も肩書も、どこにもおかしなところはない。だが、人間は名刺より先に、場の空気へ自分を刷り込む。


「来るな……奥さんは」


 黒崎が低く言うと、杉本が顔を上げた。


 黒崎は首を横に振った。


「いや」


 そして、はっきりと言った。


「来る。あの男が、来させる」


 窓の外では、夕方に向けて空の色が少しずつ鈍くなり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ