第1章 予告してきた男
午後三時を回ると、黒崎探偵事務所は一日の中でもいちばん静かな時間に入る。
午前中の電話対応もほぼ終わり、外回りに出ている調査員もまだ戻らない。雑居ビルの四階にある小さな事務所には、古い空調の低い唸りと、紙をめくる音だけが残っていた。
黒崎恒一は、デスクで報告書の見直しをしていた。
書類の束は揃っている。使い終えた赤ペンは定規と平行に置かれていた。几帳面というより、余計なものが視界に入るのを嫌う癖だった。長くこの仕事をしていると、人の話より先に、人の沈黙や視線の置き方を見るようになる。机の乱れも、どこか人間の嘘に似ていた。
受付側では、杉本奈緒が郵便物を仕分けていた。封筒を差出人ごとに分けながら、「今日は静かですね」と言う。
「静かな日ほど、面倒なのが来る」
黒崎は報告書から目を上げずに答えた。
「縁起でもないこと言わないでください」
「経験則だ」
杉本が小さく笑った、その時だった。
受付のドアベルが鳴る。
黒崎はペンを置いた。杉本が「はい」と応対に立つ。ガラス戸の向こうに立っていた男を見た瞬間、彼女はほんのわずかに表情を止めた。
四十代半ばくらい。紺のジャケットに白いシャツ。派手ではないが質の良い時計。身なりに乱れがなく、疲れ方まで整って見えそうな男だった。
「ご相談の予約などは……」
「いえ、突然すみません」
男はそう言って名刺入れを取り出した。動作に迷いがない。声も穏やかで、相手に圧をかけすぎない。
「少し、お話を伺っていただければ」
杉本は名刺を受け取る。
相沢修一
名前に引っかかりはない。だが、杉本はその名刺をすぐ机に置く気になれなかった。感じの悪い人ではない。むしろ初対面の印象だけなら上等だ。けれど、こういう人は最初から“どう見られるか”を整えて来る。
「どうぞ。所長が伺います」
応接スペースへ案内すると、男は礼を言って椅子に腰を下ろした。背もたれにもたれ過ぎず、かといって緊張も見せない。姿勢の作り方までそつがない。
黒崎が向かいに座る。杉本がお茶を置くと、男は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
「黒崎です」
「相沢です。突然、申し訳ありません」
名刺交換を済ませる。黒崎は相沢の手元をちらりと見た。爪は短く揃っている。乱れを嫌う人間の手だった。
「ご相談とのことでしたが」
黒崎が促すと、相沢は一度だけ間を置いた。言葉を探しているように見せるための間に、黒崎には見えた。
「少し、特殊なお願いになると思います」
「そういう仕事です」
黒崎が平坦に返すと、相沢は苦笑のようなものを浮かべた。
「近いうちに、妻がこちらへ来ると思います」
黒崎は表情を変えなかった。
「妻が、私の素行調査を依頼するために」
そこで、杉本がテーブルにカップを置く手をわずかに止めた。
「その時は」
相沢はまっすぐ黒崎を見た。
「ちゃんと証拠を押さえてください」
空調の低い唸りが、やけに大きく聞こえた。
黒崎はすぐには返事をしなかった。こういう時、驚きを先に見せると相手の置いてきた形に乗ることになる。
「ご自分が不利になるかもしれない証拠を、ですか」
「まあ、事実なら、そうなるでしょうね」
相沢は静かに言った。
「ですが、曖昧なままにしておくより、きちんと残しておいた方が良いこともあります」
筋だけを追えば、もっともらしい。
だが黒崎には、その整い方自体が不自然だった。
「奥様が来られると、なぜ分かるんです」
「長く一緒にいると、相手が次に何を考えるか、ある程度は分かるものです」
「予想ですか」
「そうですね。予想というより……そうなるだろう、という確信に近いかもしれません」
話し方がきれいすぎる。
困っている夫の口調ではなく、聞かせるために形を整えた説明だった。
「奥様は、何を疑っておられるんですか」
「ありきたりですが、私が浮気をしていると、思っているようです」
相沢はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。
「妻は昔から、少し思い込みが強いところがありまして。最近は特に、不安になると周りが見えなくなることがあります。帰宅時間や仕事の予定みたいな些細なことで、勝手に結論を出してしまうんです」
その口調には、怒りも疲れも薄かった。
ただ、観察結果を述べているような平坦さだけがある。
それがかえって冷たい。
「説明はされないんですか」
「していますよ。ですが、一度そう思い込むと、こちらが何を言っても届かない」
相沢はカップに手を添えたが、飲まなかった。
「だから、もしこちらへ来たら、きちんと調べていただきたいんです。客観的に」
客観的に。
黒崎はその言葉を胸の中で転がした。
探偵が扱う“客観”なんてものは、せいぜい写真と時刻と行動の記録だ。だが写真は、写したものしか残さない。時刻は、その場に至るまでの意図までは記録しない。
問題は、その事実が何であるかだけではない。
誰のために、どう使われるかだ。
「依頼、という形で受けるべきですか」
黒崎が訊くと、相沢は初めてほんの少しだけ笑った。
「いえ。まだ依頼ではありません。ただ……そうなった時に、こちらにも事情があると知っておいていただきたかった」
「事情」
「ええ」
相沢は視線を少し落とした。
「妻を追い詰めたいわけではないんです。ただ、誤解は形にしておいた方が、後で楽なこともありますから」
その言い方に、杉本はぞくりとした。
誤解を解きたい人の言葉ではない。
誤解を“使う側”の言葉だった。
黒崎は、机の上に置かれた相沢の名刺を指先で軽く押さえた。
「奥様が来られたとして、その時こちらが何を受けるかは、話を伺ってから判断します」
「もちろんです」
相沢はあっさりとうなずいた。
食い下がりもしない。その引き際の良さまで、黒崎には用意されたものに見えた。
「私はただ、そう遠くないうちにそうなると、お伝えしたかっただけです」
「ご親切にどうも」
黒崎の声音が、わずかに硬くなったが、相沢は気にしていない。
立ち上がると、ジャケットの前を整える。
そしてドアの前で足を止め、振り返った。
「妻は、自分で見たいものだけを見るんです」
相沢は静かに言った。
「ですから、誰かが記録しておいた方がいい」
杉本がドアを開けると、相沢は最後まで礼儀正しく頭を下げ、廊下へ出ていった。足音が遠ざかり、やがて階段へと続くドアの閉まる音がした。
事務所の中に、元の静けさが戻る。
杉本は、しばらくドアノブに触れたまま立っていたが、やがて小さく息を吐いて応接テーブルへ戻った。相沢が一口も飲まなかったお茶は、ほとんど冷めていなかった。
「感じの悪い人じゃなかったですけど」
カップを持ち上げながら、杉本が言う。
黒崎は返事をしない。
「なんだか……最初から答えを知ってる人みたいでした」
黒崎はようやく顔を上げた。
「そういう奴はいる」
「話がうまい人、ですか」
「いや」
黒崎は相沢の名刺を見た。
「話の形だけ先に作ってくる奴だ」
杉本は少し黙ったあと、ふと訊いた。
「本当に来るんでしょうか、奥さん」
黒崎は名刺を机の上に置いた。
会社名も肩書も、どこにもおかしなところはない。だが、人間は名刺より先に、場の空気へ自分を刷り込む。
「来るな……奥さんは」
黒崎が低く言うと、杉本が顔を上げた。
黒崎は首を横に振った。
「いや」
そして、はっきりと言った。
「来る。あの男が、来させる」
窓の外では、夕方に向けて空の色が少しずつ鈍くなり始めていた。




