エピローグ
話し合いが終わってから、三週間ほどが過ぎていた。
季節はまだ大きくは動いていない。それでも、同じ道を歩いた時の風の匂いが少しだけ変わることがある。昼間の光がわずかにやわらかくなり、日が落ちるのもほんの少し遅くなる。人の気持ちだけが取り残されているようで、時間はちゃんと進んでいるのだと分かる、そういう時期だった。
真由美は駅前の小さな喫茶店の前で一度足を止め、ガラス越しに店内を見た。
平日の昼下がりで、客は多くない。窓際の席に、ひとりの女が先に座っていた。
黒のカーディガンに、控えめな色のブラウス。派手な化粧はしていない。髪は肩のあたりで切り揃えられていたが、何度か指を通した跡のような乱れが残っている。以前、水瀬が見た横顔よりも、今は少しだけ輪郭が薄く見えた。緊張が抜けたのではない。張りつめていた糸が一度切れた後の顔だった。
真由美は扉を開け、中へ入った。
女はすぐに立ち上がった。
立ち上がる時の動作が、修一の前にいた時と同じだった。音を立てないように、相手を待たせないように、無意識に身体が先回りしてしまう立ち方。そういう癖は、すぐには消えない。
「すみません。お待たせしました」
真由美が言うと、女は首を横に振った。
「いえ……私の方が早く着いただけです」
声は細いが、怯えてはいなかった。
真由美は、そのことに少しだけ救われる気がした。
二人は向かい合って座った。
店員が水を置き、注文を聞いていく。真由美はブレンドを頼み、女は少し迷ってから紅茶を頼んだ。そういう、どうでもいいような間の取り方が、妙に人間らしく感じられた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
修一の名前を先に出せば、会話はきっと楽になる。
だが真由美は、それを選ばなかった。
あの男の名を中心にして話し始めること自体が、もう嫌だった。
先に口を開いたのは女の方だった。
「……真由美さん」
その呼び方にはまだ硬さがあった。
「本当に、ありがとうございました」
女はそう言って、深く頭を下げた。
真由美は、すぐには返事をしなかった。
あの日、城戸の事務所で全てが崩れたあとも、この女のことは頭の片隅に残っていた。
修一が隠していた相手。
自分から何もかも奪っていった“向こう側の女”であるはずの人。
なのに、調べが進むほどに見えてきたのは、勝ち取った恋人の顔ではなかった。
囲われ、黙らされ、都合よく未来だけを見せられていた人間の顔だった。
真由美はようやく、小さく首を振った。
「いいのよ」
「あなたも、あの人のせいで、子供が産めない体にされたりとか、恨んでいたもの」
女の肩が震えた。
「……私、ずっと、言えませんでした」
真由美は何も挟まない。
「誰にも」
女は視線を上げないまま続ける。
「最初は、ちゃんと一緒になるつもりだって言われてたんです。奥さんとはもう終わってるようなものだって。少し待ってほしいって」
その“少し”が、どれだけ長い時間だったのかは聞かなくても分かった。
「病院に行った時も、私が悪かったみたいに言われました」
女の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「お前がもっと気をつければよかったとか。大げさにするなとか。これからちゃんとするからって」
真由美はただ聞いていた。
責めたい気持ちがまったくないわけではない。
けれど今、目の前で過去を絞り出している顔を見ていると、敵と呼ぶにはあまりにも同じ傷の匂いがした。
女はようやく顔を上げた。
涙はこぼれていなかったが、目の縁は赤くなっていた。
「でも、真由美さんがあの日、私のことを……ただの相手じゃなくて、巻き込まれた人だって言ってくれて」
そこで声が切れる。
真由美は静かに待つ。
「それで、やっと分かったんです」
「何が?」
真由美が初めて問いかけると、女は少しだけ笑った。
笑ったように見えただけかもしれない。だが、その表情は修一の前で浮かべていたものとは違った。
「私、あの人に選ばれてたんじゃなかったんだって」
その言葉に、真由美は返事をしなかった。
簡単にうなずける種類の言葉ではない。
でも否定もできなかった。
選ばれていたのではない。
使われていた。
必要な位置に置かれていただけだ。
真由美も、美羽も、この女も。
女は膝の上の手を少しほどいた。
「これから私も、ちゃんと生きていきます」
その言い方が、真由美には強く残った。
やり直す、でも、頑張る、でもない。
ちゃんと生きていく。
女がそう口にできるまでに、どれだけ長い時間がかかったのか。
真由美には、少しだけ分かる気がした。
封筒を持ってくるまでに、何度も迷った。
渡す必要などないと思った日もある。
自分こそ奪われた側だと、そう思う気持ちも消えてはいない。
この女を見れば、あの日々を思い出して苦しくなることだってある。
それでも、あの男に壊されたものを、あの男の形のまま残しておきたくなかった。
自分だけが助かった顔をして終わるのも、違う気がした。
真由美はそこで、持ってきた封筒をバッグから取り出した。
白い無地の封筒だった。
厚みはあるが、かさばるほどではない。
それをテーブルの上へ、静かに置く。
女が目を見開いた。
「真由美さん……?」
「これ」
真由美は言った。
「あの人からもらった慰謝料の一部よ。これで、やり直してね」
女はすぐには手を伸ばさなかった。
「そんな……」
「いいの」
真由美は遮った。
「これは、あなたの分でもあるから」
女の目に、ようやく涙が溜まった。
「私、受け取る資格なんて……」
「資格なんていらない」
真由美は言った。
「もう、あの人のせいで止まらないで」
その一言は、自分自身に言っているようでもあった。
真由美は赦したわけではなかった。
忘れたわけでもない。
裏切られたことも、削られた時間も、自分がおかしいのではないかと疑わされた苦しさも、消えるはずがない。
それでも、ここで目の前の女まで“加害者の側”に押し込めて終わらせたくはなかった。
相沢修一という男に壊されかけた人生を、これ以上ひとつも放っておきたくなかった。
女は震える指で封筒に触れ、やがて両手でそっと持ち上げた。
「……ありがとうございます」
今度の声は、最初よりもずっと小さかった。
それでも、言葉の中に自分の意思があった。
真由美は、ようやく紅茶に手を伸ばした女の指先を見た。
まだぎこちない。
でも、そのぎこちなさの中に、今日ここへ来ると決めた人間の芯がある。
修一が本当の未来を描いていた女性は、静かに真由美に頭を下げた。
その姿を見て、真由美はふと思った。
あの男が最後まで欲しかったのは、従順に配置される女たちだったのだろう。
疑う妻は壊して、若い協力者はだまして、本命の女は囲って、都合のいい未来を作る。
そうやって、自分にとって使いやすい形だけを残したかった。
けれど、最後に残ったのはそれではなかった。
誰かを踏みにじらなくても生きていける、静かな強さだけが、机の上にも、喫茶店の窓際にも、最後まで残った。




