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黒崎探偵事務所 Ⅰ -不倫の証拠は、誰のために-  作者: 定年プログラマー


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9/9

エピローグ

 話し合いが終わってから、三週間ほどが過ぎていた。


 季節はまだ大きくは動いていない。それでも、同じ道を歩いた時の風の匂いが少しだけ変わることがある。昼間の光がわずかにやわらかくなり、日が落ちるのもほんの少し遅くなる。人の気持ちだけが取り残されているようで、時間はちゃんと進んでいるのだと分かる、そういう時期だった。


 真由美は駅前の小さな喫茶店の前で一度足を止め、ガラス越しに店内を見た。


 平日の昼下がりで、客は多くない。窓際の席に、ひとりの女が先に座っていた。


 黒のカーディガンに、控えめな色のブラウス。派手な化粧はしていない。髪は肩のあたりで切り揃えられていたが、何度か指を通した跡のような乱れが残っている。以前、水瀬が見た横顔よりも、今は少しだけ輪郭が薄く見えた。緊張が抜けたのではない。張りつめていた糸が一度切れた後の顔だった。


 真由美は扉を開け、中へ入った。


 女はすぐに立ち上がった。

 立ち上がる時の動作が、修一の前にいた時と同じだった。音を立てないように、相手を待たせないように、無意識に身体が先回りしてしまう立ち方。そういう癖は、すぐには消えない。


「すみません。お待たせしました」


 真由美が言うと、女は首を横に振った。


「いえ……私の方が早く着いただけです」


 声は細いが、怯えてはいなかった。

 真由美は、そのことに少しだけ救われる気がした。


 二人は向かい合って座った。

 店員が水を置き、注文を聞いていく。真由美はブレンドを頼み、女は少し迷ってから紅茶を頼んだ。そういう、どうでもいいような間の取り方が、妙に人間らしく感じられた。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 修一の名前を先に出せば、会話はきっと楽になる。

 だが真由美は、それを選ばなかった。

 あの男の名を中心にして話し始めること自体が、もう嫌だった。


 先に口を開いたのは女の方だった。


「……真由美さん」


 その呼び方にはまだ硬さがあった。


「本当に、ありがとうございました」


 女はそう言って、深く頭を下げた。


 真由美は、すぐには返事をしなかった。


 あの日、城戸の事務所で全てが崩れたあとも、この女のことは頭の片隅に残っていた。

 修一が隠していた相手。

 自分から何もかも奪っていった“向こう側の女”であるはずの人。


 なのに、調べが進むほどに見えてきたのは、勝ち取った恋人の顔ではなかった。

 囲われ、黙らされ、都合よく未来だけを見せられていた人間の顔だった。


 真由美はようやく、小さく首を振った。


「いいのよ」


「あなたも、あの人のせいで、子供が産めない体にされたりとか、恨んでいたもの」


 女の肩が震えた。


「……私、ずっと、言えませんでした」


 真由美は何も挟まない。


「誰にも」


 女は視線を上げないまま続ける。


「最初は、ちゃんと一緒になるつもりだって言われてたんです。奥さんとはもう終わってるようなものだって。少し待ってほしいって」


 その“少し”が、どれだけ長い時間だったのかは聞かなくても分かった。


「病院に行った時も、私が悪かったみたいに言われました」


 女の手が、膝の上でぎゅっと握られる。


「お前がもっと気をつければよかったとか。大げさにするなとか。これからちゃんとするからって」


 真由美はただ聞いていた。

 責めたい気持ちがまったくないわけではない。

 けれど今、目の前で過去を絞り出している顔を見ていると、敵と呼ぶにはあまりにも同じ傷の匂いがした。


 女はようやく顔を上げた。

 涙はこぼれていなかったが、目の縁は赤くなっていた。


「でも、真由美さんがあの日、私のことを……ただの相手じゃなくて、巻き込まれた人だって言ってくれて」


 そこで声が切れる。

 真由美は静かに待つ。


「それで、やっと分かったんです」


「何が?」


 真由美が初めて問いかけると、女は少しだけ笑った。

 笑ったように見えただけかもしれない。だが、その表情は修一の前で浮かべていたものとは違った。


「私、あの人に選ばれてたんじゃなかったんだって」


 その言葉に、真由美は返事をしなかった。

 簡単にうなずける種類の言葉ではない。

 でも否定もできなかった。


 選ばれていたのではない。

 使われていた。

 必要な位置に置かれていただけだ。

 真由美も、美羽も、この女も。


 女は膝の上の手を少しほどいた。


「これから私も、ちゃんと生きていきます」


 その言い方が、真由美には強く残った。

 やり直す、でも、頑張る、でもない。

 ちゃんと生きていく。


 女がそう口にできるまでに、どれだけ長い時間がかかったのか。

 真由美には、少しだけ分かる気がした。


 封筒を持ってくるまでに、何度も迷った。


 渡す必要などないと思った日もある。

 自分こそ奪われた側だと、そう思う気持ちも消えてはいない。

 この女を見れば、あの日々を思い出して苦しくなることだってある。


 それでも、あの男に壊されたものを、あの男の形のまま残しておきたくなかった。

 自分だけが助かった顔をして終わるのも、違う気がした。


 真由美はそこで、持ってきた封筒をバッグから取り出した。


 白い無地の封筒だった。

 厚みはあるが、かさばるほどではない。


 それをテーブルの上へ、静かに置く。


 女が目を見開いた。


「真由美さん……?」


「これ」


 真由美は言った。


「あの人からもらった慰謝料の一部よ。これで、やり直してね」


 女はすぐには手を伸ばさなかった。


「そんな……」


「いいの」


 真由美は遮った。


「これは、あなたの分でもあるから」


 女の目に、ようやく涙が溜まった。


「私、受け取る資格なんて……」


「資格なんていらない」


 真由美は言った。


「もう、あの人のせいで止まらないで」


 その一言は、自分自身に言っているようでもあった。


 真由美は赦したわけではなかった。

 忘れたわけでもない。

 裏切られたことも、削られた時間も、自分がおかしいのではないかと疑わされた苦しさも、消えるはずがない。


 それでも、ここで目の前の女まで“加害者の側”に押し込めて終わらせたくはなかった。

 相沢修一という男に壊されかけた人生を、これ以上ひとつも放っておきたくなかった。


 女は震える指で封筒に触れ、やがて両手でそっと持ち上げた。


「……ありがとうございます」


 今度の声は、最初よりもずっと小さかった。

 それでも、言葉の中に自分の意思があった。


 真由美は、ようやく紅茶に手を伸ばした女の指先を見た。

 まだぎこちない。

 でも、そのぎこちなさの中に、今日ここへ来ると決めた人間の芯がある。


 修一が本当の未来を描いていた女性は、静かに真由美に頭を下げた。


 その姿を見て、真由美はふと思った。

 あの男が最後まで欲しかったのは、従順に配置される女たちだったのだろう。

 疑う妻は壊して、若い協力者はだまして、本命の女は囲って、都合のいい未来を作る。

 そうやって、自分にとって使いやすい形だけを残したかった。


 けれど、最後に残ったのはそれではなかった。


 誰かを踏みにじらなくても生きていける、静かな強さだけが、机の上にも、喫茶店の窓際にも、最後まで残った。


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