エステルの憂鬱
「……テル。エステル、聞いてる?」
「え?」
エステルははっと顔を上げた。ヴォルフが心配そうにエステルを見ている。
「ぼうっとしていたようだけど、君らしくないね。疲れた?」
「いいえ、そんなことは」
今はヴォルフの部屋で婚約式の打ち合わせの最中だった。こんなときに心ここにあらずの様子を見せるなんて、とんでもない失態だ。こんなことが知られたら、この結婚に懸念を抱いている父と母を心配させてしまう。エステルは思わず、視線を周囲に走らせてしまった。護衛の騎士の中にアーサーがいないことを知り、ほっと胸をなでおろした。
「実は、薫風祭に合わせてバルサットの国王が明日我が国を訪問される予定なんだ。一目、君に会いたいらしいよ」
「まあ、それは楽しみですわ」
エステルは気持ちを切り替えて微笑した。
部屋の扉が叩かれる音がした。
もしかしたらアーサーかもしれないとエステルは緊張した。しかし、入ってきたのは王宮に仕える官吏だった。
「王太子殿下、国王陛下がお呼びです」
「わかった。すぐに行く」
官吏が退出したあと、ヴォルフは申し訳なさそうにエステルに言った。
「薫風祭の打ち合わせがあるから少し遅くなると思う。それまで好きに過ごしていてくれ」
「わかりました」
ヴォルフがいなくなると、エステルは暇を持て余してしまった。侍女にお茶を淹れてもらって、焼きたてのスコーンを食べ終わっても、ヴォルフは戻ってこなかったので、王宮の庭に散歩に出ることにした。日差しが強いので、日傘をさして歩いていると、青々とした木々が午後の風に揺れているのが見えた。花壇に植えられた四季咲きの薔薇もきれいに咲いている。花々をぼんやりと眺めていると、庭に面した回廊から声が聞こえてきた。
「本当なのか、その話」
「本当だってば。俺たちは見たんだよ。ドレイクがアーサーに打ち負かされたところを」
アーサーの名前を聞いてどきりとした。どうやら休憩中の騎士たちが立ち話をしているようだ。アーサーなんてありふれた名前なので、エステルの知るアーサーのことではないかもしれない。しかし、エステルはいつの間にか、彼らの話に聞き耳を立てていた。
「その上、ザリヴァンもやられたんだぞ。あのアーサーにだぞ⁉」
「相手は新参者だと侮っていたのだろう」
「いいや。あの腕前、すごかった。ザクセン公を打ち負かしたという話もデタラメではないなと思ったよ」
緊張した空気がその場を流れる。
やはり彼らが話題にしているのは、自分の知っているアーサーのことなのだとエステルは確信を持った。
「……あいつ、本当に剣闘に出るつもりなのか……?」
「だから、今日から仕事を免除されてるんだよ。薫風祭も間近だからな。きっと剣闘に勝って爵位を取り戻したいんだろうな」
「女じゃないのか?」
誰かがひそひそと言うと、「相手は王太子殿下の婚約者だぞ! めったなことを言うな!」と上司らしき騎士に叱責されている。
エステルは静かにその場から立ち去った。
彼らの言葉がエステルの心の傷をえぐった。
アーサーが剣闘に出るという話も驚きだが、もし仮にその話が本当だとしても、エステルのためだなんて万が一にもありえないことだ。
――アーサー様はわたくしのことなんかなんとも思っていないのだから……。
アーサーのことを思い出すといまだに胸が痛む。
早く忘れてしまいたいと、心から思うのに、その声も顔もいまだに頭に焼き付いている。
「エステル様、王太子殿下がお戻りです」
侍女の一人がエステルを捜しに来た。
「わかりました」
エステルは陰鬱とした気持ちを振り払うようにして、王宮内に戻った。




