懇願
夜会の事後処理を終え、アーサーが家路についたのは、夜明け前だった。まだ周囲は薄暗いのに、街の人たちはすでに起きだして、各々の仕事に取りかかっている。アーサーはぼんやりと何も考えないまま、ただ歩いていた。途中、抜け殻のように歩くアーサーにぶつかった人が迷惑そうな顔をしていたので、機械的に頭を下げて謝った。と、人気のない場所に一台の馬車が停まっていた。まるでエステルと最後に言葉を交わした夜のようだと思った。馬車の横を通りすぎようとすると、突然扉が開いて、中に引きずり込まれた。とっさに抵抗しようとすると、見知った声で「大人しくしろ」と言われ、黙った。馬車の扉が閉まると、アーサーは解放された。車内を照らすランタンの灯のおかげで、周囲が見て取れた。
「シェーンベルグ公爵……」
いかつい顔をしたしかめ面の公爵と盛装のままのアマーリエの姿が座席にあった。
「この人が乱暴な真似をしてごめんなさいね」
アマーリエが頭を下げたので、アーサーは首を振った。
「いえ。……それより一体何事ですか?」
するとなぜかシェーンベルグ公爵が責めるようにアマーリエを睨んだ。
「ほら、やっぱり違うではないか。お前の見当違いだ。お前の言う通りなら、あんな姿の娘を見た後に、こんなに冷静でいられるはずがない」
「あんたに恋する者の繊細な感情なんてわかりっこないよ。まったく……」
「いいや。やはりこんな小僧を頼るのではなく、わしがエステルをなんとかする!」
アーサーはわけがわからなかった。
「あの、どういうことですか?」
アマーリエは、アーサーに席にすわるように促すと肩を落とした。
「あの子は、やっぱりわたしの娘だよ。辛い時ほどきれいに笑う」
先ほどの国王とアマーリエ、そしてエステルのやり取りを思い出し、アーサーの胸は痛んだ。アーサーも気づいていた。――あれがエステルの本心ではないことを。短いながらもアーサーはエステルの本質を見抜いていた。以前、ヴォルフがバルサット国との間に問題が発生していると言っていた。おそらくその解決のために婚約を受け入れたのだろう。それにアーサーを巻き込めば、アーサー自身にも危害が及ぶかもしれない。だから、笑ってやり過ごしていたのだ。そんなことは言われるまでもなくわかっていた。
「アーサー様はあの子を好いてくれているんだろう?」
「え?」
面食らうアーサーを見て、公爵が舌打ちする。
「ほれ、見たことか。お前の勘違いだ」
「だから、あなたは黙っていてって言ったでしょう?」
アマーリエはアーサーに向き直った。
「あの子の気持ちも当然わかっているんだよね?」
アーサーが黙っていると、アマーリエが真剣な目で言った。
「あの子はアーサー様のことが好きなんだよ!」
アーサーは大きく瞳を瞠った。心臓が大きく脈打つ。
「……でも、ぼくたちはただ利害関係だけで、婚約していたのであって……」
しどろもどろに言うと、アマーリエがアーサーの手を握った。
「母親のわたしが言うんだから間違いないよ!」
アマーリエは怒っているようだった。母親にここまで言わせても自分の気持ちに答えを出さないアーサーにイライラしているのだ。正直、アーサーには好きという感情がよくわからなかった。一度はエステルに恋文を送ってしまったが、それがきっかけで望まぬ婚約をするはめになり、あとから取り返しのつかないことをしたと悔やんだほどだ。以来、ますます恋というものがわからなくなった。だが、これまでずっとエステルに振り回される日々が続いたが、不思議と嫌だとは思わなかった。時がたつにつれ、彼女の隣にいることは自然になっていった。けれど、その気持ちが恋かと問われれば、やはり答えを出すことはできなかった。
「アーサー様、あの子を連れて逃げて」
まさかの提案にアーサーが驚いているとシェーンベルグ公爵が怒鳴った。
「馬鹿なことを言うな! エステルはわしが守る」
「あんたが頼りないから、こんなことになったんでしょうが!」
うっと言葉に詰まるとシェーンベルグ公爵はうなだれた。
「アーサー様、お願いします」
アマーリエに深々と頭を下げられると恐縮してしまう。
「どうか頭を上げてください」
「じゃあ、願いを聞いてくれるんだね?」
「……すみません。今のぼくにはそんな資格はありません」
今、エステルを連れて逃げたら、縁をきったとはいえ、実家にも類が及ぶだろう。騎士団にも迷惑をかける。だから、その申し出を受けるわけにはいかなかった。
アーサーは無言で馬車を降りた。アマーリエの悲しげな表情を直視することができなかった。




