最後のキス
「アーサー君、すまない」
その日、王宮に出勤すると、ヴォルフに謝罪を受けたのでアーサーは驚いた。
「……何事ですか?」
すでに人払いしてあったので、アーサーは怪訝そうに尋ねた。するとヴォルフは驚くべきことを言った。
「父の命令でわたしとエステルの婚約が決まった」
「!」
思わず瞠目した。
「え、なぜ、どうして……?」
考える前に心臓がぎゅっと引き絞られるような痛みを感じた。
「バルサット王の意向らしい。大使がエステルの母親に関するすべてを王に話してしまったようだ。ちょうど我が国とバルサット国にいざこざが発生していたから、この縁談をまとめて穏便にことを済ませたいらしい。まあ、アーサー君にとっては渡りに船の出来事なのかな? 意にそわない婚約だったんだろう?」
少しだけ茶化すように言われたけど、笑えなかった。どうして自分がそう感じたのかはわからないまま、呆然となった。
ヴォルフはほろ苦く笑った。
「……わたしも父の命令には逆らえないんだ。だけどね、婚約者がエステルに決まって少しほっとしてるんだ。異性の中では一番大切で心許せる相手ではあるからね」
心からの本音を聞かされ、アーサーははっと我に返ると、急いで騎士の礼を取った。
「……ご婚約、おめでとうございます」
するとなぜかヴォルフが苦虫をかみ潰したような苦しげな、それでいてどこか哀しそうな顔になった。
「それを聞いたらエステルが泣くよ」
アーサーは何も言えなかった。
***
時間がたてばたつほど、アーサーのショックは大きくなっていった。幾度冷静になろうとしても、胸の中のもやもやは消えなかった。自分はいったい何を思い悩んでいるのだろうか。エステルは、美貌、気品、知性、教養とどれを取っても王太子妃に相応しい素質を兼ね備えている女性だ。むしろこの婚約は彼女にとっては喜ばしいことではないか。本来いるべき立場に戻るようなものなのだから。そう、これはおめでたいことなのだ。いつまでも継ぐべき爵位すら失った男の婚約者でいてなんになる。それにヴォルフなら必ずエステルを幸せにしてくれるはず。――そう自分に何度も言い聞かせ続けた。
仕事を終え、王宮から家までの道を歩いていると、夜の雑踏を抜けたその先に、一台の馬車が停まっていた。質素なその馬車は建物の影に隠れるようにして停車していた。不審に思いながら通り過ぎようとすると、馬車の扉が開いて、簡素なドレスを身にまとった令嬢が姿を見せた。
「……エステル」
雨に打たれた花のような姿にアーサーははっと胸をつかれた。そこにいつもの大輪の薔薇を思わせる笑顔はなかった。
「アーサー様、お疲れのところ申し訳ありません。こんなところで待ち伏せなんてご迷惑ですわよね……」
アーサーは急いで言った。
「あなたはもうこんなところに来ていい立場ではないはずです。誰かに見つからないうちに早く帰ったほうがいい」
エステルが眉を下げた。
「……ヴォルフとの婚約の話、もうご存じなのですね」
アーサーは言葉にまごついた。
不意打ちをくらって、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
「婚約、おめでとうございます」
やっと出た言葉がそれだった。たちまちエステルの顔が歪む。
「本気で、そう思っていらっしゃるのですか?」
「少なくとも今のぼくと一緒にいるよりは幸せになれるはずです。それに王太子妃なんて、あなたに相応しい立場ではありませんか」
エステルが自虐的に笑った。
「そうですわよね。わたくしとの婚約はアーサー様にとっては不本意だったのですから、むしろこうなってよかったのかもしれませんわね」
エステルは、持っていた手提げから封書を取り出した。
「これは、シェーンベルグ公爵家とジーニアス侯爵家が交わした婚約に関わる誓約書です。アーサー様にお返しします。破くなり燃やすなりお好きになさってください」
「わかりました」
アーサーが受け取ると、エステルが口を開いた。
「アーサー様、あの約束を覚えていますか?」
「え?」
何のことだと言わんばかりに目を丸くするアーサーを見て、エステルは諦めのため息をついた。
「なんでもありません。忘れてください。……アーサー様、最後のお願いです。少しの間だけ、目を閉じてください」
「なぜ?」
「お願いします」
切実な表情で懇願され、アーサーは言われた通りに目を閉じた。
……唇に温かく柔らかなものが触れた。それは一瞬で離れていった。驚いたアーサーが目を開くと、瞳に涙をためたエステルと視線が合った。エステルが視線を陰らせるとその頬を涙が伝い落ちていった。
「さようなら。アーサー様」
涙声でそう言うと、エステルは振り返ることなく、馬車に乗り込み、未練を断ち切るように去って行った。
呆然としていたアーサーは、我に返ると、今さらのように唇を手で押さえた。その耳にエステルの約束の言葉が甦る。
『……もし、わたくしたちが一緒になれない事態になったら、わたくしを連れて逃げてくださいますか?』
今の自分にそんな真似、できるはずもなかった。




