本当の後継者2
翌日の昼前、急用ができたと父に断りを入れ、仕事を抜け出すと、アーサーは姉たちと一緒に馬車に乗った。アドルフがマシューのために購入した邸に着くまで、車内はしんと静まり返っていた。いつもかしましい姉たちを見慣れているので、居心地が悪かった。
アーサーが目的の邸に足を運んだのはこれが二度目だった。父に懇願されてこの邸を探したのは他ならぬアーサーだった。邸の値段から間取りまですべて把握していた。アーサーが来たと知り、王都に知り合いのいないマシューは、比較的自分に好意的な訪問者になんの警戒心も見せなかったが、その背後に立った華やかなドレス姿の令嬢を見た瞬間、戸惑った様子を見せた。雇ったばかりのメイドに客間に案内させると、姉たちは侯爵家とは比較にならないほどこじんまりとした部屋の椅子に腰を落ち着けた。席がなかったので、アーサーは立ったまま、その様子を内心はらはらしながら見守った。おろおろしながら一人がけの椅子にちょこんと腰かけたマシューを前にしてファビエンヌが言った。
「初めまして、マシュー。――わたしたちはあなたの姉です」
「わたしは妹よ」
「突然、押しかけてごめんなさいね」
アーサーはわが耳を疑った。今、ごめんなさいと言わなかっただろうか。それだけではない。三人ともアーサーには一度も向けられたことのない優しい眼差しをマシューに向けている。しゃちほこばるマシューを見て、ファビエンヌは笑った。
「そんなに緊張しないで。母親は違えど、あなたはわたしたちの兄なんですから」
「! そ、そんな、恐れ多いことです!」
「今までさぞかし苦労してきたのでしょうね。弟からあなたの話を聞いたときは胸が痛みました」
アーサーは度肝を抜かれた。この姉に他人のために痛める心があったことに驚いていた。
「教えてちょうだい。あなたは今までどんな暮らしをしてきたのかを」
慈愛に満ちたファビエンヌの言葉に少しだけ緊張をほぐした様子のマシューが語り始めた。
「……何しろ母一人、子一人の家だったものですから、正直、苦労しなかったといえば嘘になります。両親がそろった家庭が羨ましかったです。でも、母は一生懸命ぼくを育ててくれたので、不満は言えませんでした。母は美人だったので、再婚の話は幾度もあったのですが、ずっと断っていました。……たぶん、侯爵様のことが忘れられなかったのだと思います」
「そう。一途な女性だったのね。たしか、あなたが十歳のときにお母様は亡くなったとか。それからはどうしていたの?」
「幸い、近所の木工細工師をしていた親方が弟子になることを条件に俺を引き取ってくれたので、俺は恵まれていました。他の弟子たちと切磋琢磨しながら成長しました。その日の食事にも困る生活をしている人に比べたら、俺の苦労なんて取るに足りないと思います」
「その考え方、偉いわ」
シェリーが感極まった様子でハンカチを目頭に当てている。
―——姉さんたちは、いったい何が目的なんだ?
姉たちの不審な言動に逆に不安がわいた。てっきりマシューを追い出すために来たのだと思っていたのに、生き別れの家族の感動的な再会の場面が繰り広げられている。彼女たちの性格上、マシューを受け入れるなんてありえないことなのに。
「だけど、この間の火事で住んでいた家が焼け落ちて、利き腕も怪我をしてしまって、途方に暮れていたんです。そんなときに公爵様に助けていただいて、本当に感謝しています」
「お母様の人生を踏みにじったに等しいお父様を恨む気持ちはないの?」
「……正直、父親がいないことが当たり前だったし、母は自分の人生を後悔するような人ではありませんでしたから、俺もとくに恨むとかいう気持ちはありません」
「……そう」
ファビエンヌは、ひっしとマシューの手を握った。
「ねえ、マシュー、あなた侯爵家に来ない?」
「え?」
「せっかく家族に会えたんだから、そうしましょう。いいえ、わたしたちがそうしたいの」
モーリオンとシェリーもこの発言を後押しするように頷いた。
「いや、でも、俺は……」
「ねえ、アーサー、構わないでしょう?」
ファビエンヌの視線がアーサーに向いている。アーサーは混乱しながら訊いた。
「姉上たちは本気でそんなことを言ってるんですか?」
「当たり前じゃない。冗談で一緒に暮らそうだなんて、普通、言わないでしょう? ……まさか、あんたは嫌なの?」
「……いえ、そういうわけでは……」
ただ、信じられない気持ちでいっぱいだった。ファビエンヌは力強く、マシューの手を握った。
「今日、帰ったらお父様を説得するわ。そうしたら、荷物をまとめてすぐにうちに来てちょうだい。ね、いいでしょう?」
「は、はあ……」
マシューは最後まで困惑していたが、最後には姉たちに押し切られる形で頷いたのだった。
***
「マシューを侯爵家に引き取りたい?」
ファビエンヌに話を切り出され、アドルフはあっけに取られていた。
「お前たち、気でも触れたのか? いつの間にそんな話になった?」
「今日、マシューに会いに行ったの。朴訥でよさそうな人じゃない。それに、せっかく会えた息子と暮せたらお父様だって嬉しいでしょう?」
「それは、そうだが、お前たちは本当にそれでいいのかい?」
「もちろんよ。みんなで話し合って決めたのよ。ね、お父様、みんなでマシューを家族として迎えてあげましょう」
緊張の糸が切れたように、アドルフが泣きそうな顔になる。
「お前たち、本当にそう思ってくれているのか?」
「あたり前じゃない」
「そ、そうか、そうか。わたしはいい娘たちを持ったな……」
アドルフは娘たちに背中を向けて泣き始めた。ファビエンヌがアーサーを見た。
「そういうわけだから、アーサー。明日、マシューを迎えに行ってね。わたしたちは家で歓迎の準備をするから」
「……わかりました」
従僕のように頭を下げながら、また厄介ごとが増えたなとアーサーは思った。
しかし、アーサーの心配をよそに、侯爵家にやってきたマシューは思いのほか家に馴染んでいった。
「マシューお兄様、一緒にカードで遊びましょう」
シェリーは、すぐにマシューに懐いた。
「マシュー、今度、服を仕立てに行きましょう」
モーリオンはマシューの生活に常に気を配った。
また毎日のように婚家から実家に通うファビエンヌは、お昼のお茶をマシューと取りたがった。
「マシューと飲むお茶はほっこりできていいわね」
幸せな家族の姿にアーサーは呆然となり、アドルフは泣いて喜んだ。侯爵家での生活が二週間も続いたころ、マシューは家の中で自然と笑えるようになっていた。魔物の住処は天使の住む家へと変貌を遂げていた。
その夜の晩餐のときだった。
「マシューお兄様って本当に頭がいいわよね。チェスのルールもすぐに覚えて、もうわたしより強いのよ」
「そうね。貴族のマナーも身についてきたし、やっぱり血筋がいいからかしら」
ファビエンヌも嫣然と頷いた。
マシューは照れくさそうにしている。
いつも夕方には帰宅するファビエンヌが珍しく侯爵家に居座っていた。また夫の母と喧嘩でもしたのだろうか。アーサーが居心地の悪い思いをしていると、シェリーが言った。
「マシューお兄様が侯爵家を継げばいいのに」
まさかの発言に、さすがのアドルフも驚いていた。
「シェリーめったなことを言うもんじゃないぞ」
「でも、だって本当の公爵家の長男はマシューお兄様なんでしょう?」
「シェリーの言うことはもっともだわ。アーサーでは役不足だと前から思っていたの」
アーサーは言葉を失った。それでは今までの自分の苦労はいったいなんだったのだというのだろうか。
「ですが、国にはすでに次期侯爵はぼくだと届け出がされているはずです。どうするおつもりですか?」
「あら、特別な事情があれば変更が認められるって聞いたわ」
ファビエンヌが答えた。
「それは、病気とか身体に不具合がある場合です」
「身体の不具合ね。……子供ができない体質だとわかったってことでいいんじゃない?」
さすがのアーサーも怒りにかっと腹の底が熱くなった。
「姉上!」
羞恥に震えるアーサーをファビエンヌが冷たく見た。
「だってあなた、この家が嫌でシェリジアに逃げたのでしょう? この際、侯爵家のことはマシューに任せて、あなたはまたシェリジアに戻りなさいよ。そのほうが、みんな幸せになれるわ」
しかし、アーサーの怒りは収まらなかった。ファビエンヌの言葉に一番混乱していたのはマシューだった。
「そ、そんな。俺には無理です。それに、アーサー様を差し置いて、そんな真似はできません」
「マシューなら大丈夫よ」
モーリオンが太鼓判を押した。
「……母上がそれを認めるでしょうか?」
怒りを押し殺してアーサーが問うとファビエンヌが言った。
「お母様はお父様と離縁するそうよ。だからもうお母様には関係のない話なの。このことを相談したら、好きにしろって手紙が来たわ」
アーサーは絶句した。
どうやら姉たちは本気のようだ。本気でマシューを後継者にして、アーサーをシェリジアに追い払おうとしている。
「お父様、これで異存はないでしょう?」
「しかし……」
「話はまとまったわね」
どこがだと叫びたくなったが、姉たちの意見は一致していた。この家で決定権を持つのは姉たちだ。こうなったらアーサーがいくら文句を言ってもきかないことくらいわかっている。
ファビエンヌはにっこり笑って弟に言った。
「アーサー、明日にでも荷物をまとめてシェリジアに帰りなさい」
いきなりの宣告だったが、翌日、アーサーはろくに荷物をまとめる暇もなく、侯爵邸を追い出された。




