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嫉妬

 それから一週間後、アーサーはリトンの街の領主の館の一室にいた。

 下町の家でアーサーが目覚めたあと、夜遅くにジーニアス侯爵家の兵士が迎えに来たのだ。まだ安静を言い渡されている身なので、その姿は寝台の上にあったが、日常生活に支障がない程度には動けるようになっていた。もちろんその陰にエステルの献身的な看護があったのは言うまでもない。

 リトンの街もアドルフの尽力とシェーンベルグ公爵の力添えで、順調に再生しつつあった。そんなある日の昼下がり、アーサーの部屋をアドルフが訪れた。


「アーサー、具合はどうだね?」

「だいぶいいです。ご心配をおかけしました」


 ちょうどエステルはアーサーの昼餐の準備のため、不在だった。


「いやいや気にすることはない。――街でも評判になっているよ。次期侯爵は男気のある立派な跡取りだと。わたしも鼻が高いよ」

「……そうですか」


 アーサーは内心複雑な気分になった。

 自分は当然のことをしただけで、特別なことをしたという意識はなかったからだ。誰だって目の前で困っている人がいたら放っておけないだろうに。おそらく人々は街を活気づけてくれる英雄を欲しているのだろうとアーサーは思った。そこにたままた善行を成した次期侯爵家の跡取りという存在が現れたので、話題になっているにすぎないのだと、冷静に考えていた。


 ふと部屋の中央に立っていたアドフルの目が窓際のサイドテーブルに向いた。釣られてアーサーも視線をやると、アドルフの視線の先には、中央で大ぶりの翡翠が輝く金の装飾が施された短剣が置かれていた。アドルフは信じられないものを見たように、サイドテーブルまで走り、短剣を手に取った。


「……父上、それがどうかしましたか?」

「お前、これをいったいどこで手に入れたんだ?」

「ああ、実は……」


 アーサーは街を探索している最中に、揉めている商人と見知らぬ男に出会ったことをアドルフに打ち明けた。


「男はその短剣を母親の形見だと言っていました。どうしても取り返したくて盗んだのだと」


 アドルフは真顔でアーサーを見た。


「その男はどんな顔をしていた?」

「……さあ、あまり細かくは覚えていませんが、二十歳くらいの男に見えましたが」

「覚えているのはそれだけか?」

「はい」

「……そうか」


 アドルフは落胆したように肩を落とした。


「この短剣、少し借りていいか?」

「それは構いませんが」

「すまない」


 それだけ言うとアドルフは、部屋から出て行った。

 いつになくうろたえた様子の父を不審に思ったが、入れ違いに昼餐の準備を終えたエステルが戻ってきたので、いつの間にか忘れてしまった。

 

 それから三日後、アーサーは寝台の上で一人で本を読みながら過ごしていた。

 そろそろ部屋にこもるのも飽きてきたが、まだ安静を言い渡されている身なので、無茶はできない。無理をしたら本当の母親のように口うるさくなったエステルに叱られてしまう。

 それでもこう毎日部屋にこもり切りでは息苦しさを感じてしまう。

 アーサーは外の空気を吸うためにベッドから起き上がった。

 ベランダに続く扉を開けようとしたとき、ガラス越しに、塀の外からこちらを見上げる女性と目が合った。華奢で儚げな風貌をした美しい女性だった。見覚えのない顔に戸惑っていると、アーサーを見つけた女性は、ぱっと顔色を明るくした。


「……誰だろう」


 首を傾げていると、女性のそばに立っていた男の子がアーサーを見て、笑顔で手を振った。男の子の顔にはさすがに見覚えがあった。火事のときアーサーが助けた少年だった。扉を開くと男の子が大きな声で叫んだ。


「おじちゃん!」

「お、おじちゃん……?」


 おそらくアーサーのことを呼んでいるのだろうが、まだ十八歳なのに、おじちゃん呼ばわりされ、アーサーは軽くダメージを負った。しかし、元気そうな男の子を見ていると心が和んだ。男の子は何かを母親に注意されると「お兄ちゃん」とアーサーのことを呼び直した。


「お兄ちゃん、元気になったんだね」

「ああ。君こそ無事で何よりだよ」

「うちの母さん、ずっとお兄ちゃんの心配をしていたんだよ」

「こら! そんなこと言わなくていいの!」


 女性はほんのりと頬を染めながら息子をたしなめた。微笑ましい光景にアーサーは思わず笑った。


「もしよかったら領主館に寄っていきませんか? 看病してもらったお礼もまだでしたし」


 すると女性が焦りだす。


「そんな! お礼を言わなければならないのはわたしのほうです。それに領主様のお邸に上がるなんて恐れ多くて……」

「では、裏門に回ってください。ぼくもすぐに行きますから」


 アーサーは女性の返事を聞く前に、さっとバルコニーから出ると、扉を開けて一階に降りた。裏口に行くと、男の子と女性が待っていた。


「お兄ちゃん!」


 男の子がアーサーに抱きついた。


「こら、ジョゼ、失礼ですよ!」

「そうか、君はジョゼと言うのか」 


 アーサーはジョゼを腕の中に抱き上げた。


「っ」


 打撲を負った身体が痛んで、アーサーは顔をしかめたが、なんとか男の子を取り落とさずにすんだ。


「大丈夫ですか⁉」


 女性は急いで子供を自分の腕に引き取った。


「……平気です」

「……あのときの傷が痛むんですよね? すみません。息子のために……」

「いいえ、気にしないでください。もう日常生活に支障がない程度には動けるんです。それよりあなたこそ、住んでいた家ごと失って、不自由しているのではありませんか?」


 女性は微苦笑した。


「今は母の家にお世話になっていますから、不自由はしていません。ですが、狭い家なので仕事が見つかり次第、出て行くつもりです」


 そういえばとアーサーは思い出す。火事で失業者が増えて困っているとマシューがこぼしていたことを。女性も恐らく火事の影響で職場を失ったのだろう。


「仕事は見つかりそうですか?」


 女性は気丈に笑った。


「大丈夫です。独身時代はずっと商家で住み込みで働いていましたし、夫が亡くなってからも、針子の仕事をして生計を立てていましたから。わたし、こう見えてもなんでもできるんです」


 そう言って胸を張る女性が健気に思えて、アーサーは思いついたことを口にした。


「それなら、王都に来ませんか?」

「え?」

「ぼくの乳母として働いていたティリという名の女性が、王都の外れに住んでいるんです。この間、娘が嫁に行って一人暮らしになるから、使用人を雇いたいと手紙で言っていたんです。あなたさえよければ、そこで、働きませんか?」

「まあ、そんな恐れ多いことです! それに子連れでお世話になるなんて迷惑に決まっています!」

「大丈夫、ティリは世話好きの気のいい女性です。むしろ、子供がいるほうが家が明るくなると喜ぶでしょう。不安なようなら、ぼくもできる限り顔を出しますから」


 女性は瞳を瞠った。


「まあ、……では王都に行けばまた……お会いできるんですか……?」


 女性の声は小さすぎてアーサーにはよく聞き取れなかった。

 ジョゼがその場で飛び跳ねた。


「わーい。王都に行けばまたお兄ちゃんに会えるんだね!」


 ひどく戸惑う女性に、アーサーは言った。


「すぐに決められることではないと思いますから、今すぐ返事をする必要はありません。紹介状は後で届けさせますから、じっくり考えてみてください」

「は、はい」


 アーサーが快活そうに笑うと、女性は頬を染めた。

 そこでアーサーは重要なことに気づいた。


「……すみません。まだあなたのお名前を伺っていませんでした」

「フィアリーと言います。アーサー様」

「では、フィアリー、よく考えてみてください」


 会話を終えて立ち去ろうとすると、フィアリーは手に提げていた籠の中から布巾に包まれた何かを取り出し、アーサーに差し出した。


「これ、たいしたものではないんですけど、助けていただいたお礼です。今日、お会いできたらお渡ししようと思っていたんです」


 アーサーが躊躇っているとジョゼが元気に言った。


「母さんの焼いたクッキー、とっても美味しいんだよ!」


 アーサーは唇を綻ばせた。


「そうか。それならぜひ食べないといけないな」


 ジョゼの頭をなでたアーサーは、女性の手から布巾にくるまれたクッキーを受け取った。そして、ジョゼとフィアリーに別れの挨拶をすると、今度こそ邸の中に戻った。

 部屋に帰るとエステルが待っていた。


「アーサー様、どこに行っていたのですか! 心配したんですよ」


 やれやれとアーサーはため息をついた。


「子供じゃないんだから、大丈夫ですよ」


 エステルはアーサーの手元に視線を向けた。その手にはしっかりと布巾が握られていた。


「それは?」

「ああ、これはこの間の親子からもらったんですよ。助けてもらったお礼だそうです」


 テーブルの上に布巾を広げると、バターの匂いがふんわりと漂った。クッキーを摘まむと、焼きたてのようで、ほのかに温もりが残っていた。口に運ぶとジョゼの言う通りさくさくとしてとても美味しかった。

 そこでアーサーはジト目でこちらを見るエステルの視線に気が付いた。


「どうかしましたか?」

「……それって手作りですよね?」

「それはそうでしょうね」


 でなければ、布巾にくるんだまま渡すはずもない。


「さぞかし美味しいのでしょうね。……美人の焼いたクッキーは」


 エステルの皮肉は、しかし、鈍感なアーサーには通じなかった。


「ええ、美味しいですよ。あなたも食べますか?」

「結構です」


 エステルはあからさまに気分を害していたが、アーサーはわけがわからなかった。エステルはつんと顔を背けると、部屋から出て行った。


***


 一方、部屋を出たエステルは、扉の外で自己嫌悪に陥っていた。


「……わたくしったら何をやっているのかしら」


 エステルはただ単にやきもちを焼いていただけだった。それなのに、一方的に感情をぶつけてアーサーを困らせるなんて最悪としか言いようがない。それでも、下町で出会ったあの女性の美しさは忘れることができなかった。単なる美しさだけならエステルのほうが圧倒的に勝っている。けれど、女性にはエステルを嫉妬させる男心をくすぐる何かが潜んでいた。うまく言えないが、勘のようなものがエステルの中で警鐘を鳴らしている。身分が違うのに馬鹿馬鹿しいと思うが、不安は次第に膨れ上がっていく。

 アーサーには念のためにリトンの街でもう少し静養してもらう予定だったが、早めに切り上げて王都に戻るように促そうとエステルは心に決めた。





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