初めてのときめき
下町の入り組んだ道をエステルは案内された。幸いと言うべきか、このあたりは火の手は及ばなかったようだった。たどりついた小さな家の寝台の上には、夜明け前の空のような髪色を持つ男性が寝かされていた。
「! アーサー様!」
男性は間違いなくアーサーだった。しかし、頭や腕、足には包帯が巻かれていて、痛々しい姿をしていた。よく見ると髪には血の塊がこびりついていて、エステルはぞっとした。
「……息子を助けてくださったんです」
女性は落ち着いた様子で語りだした。火事の延焼を防ぐために、住んでいた建物が取り壊されそうになったことを。アーサーは取り残された子供を助けるために建物の中に飛び込んだという。そして、倒壊する建物に巻き込まれ、怪我を負ったのだそうだ。
他人のために自分の命を危険にさらすなんて、いかにもアーサーらしいと思った。
エステルに命じられた供の兵士が、医者を連れて戻ってきた。アーサーを診察した医者は、命に別状はないがしばらく安静にするようにと言い残して去って行った。エステルはほっと安堵した。
中年の女は、アーサーがジーニアス侯爵家の令息でエステルが婚約者であることを聞かされ、仰天していた。しかし、若い女性のほうは、そんなことだろうと思っていたと言わんばかりに、微笑んでいる。その可憐な笑みを見て、エステルはむっとした。人が心配しているときにあんな美人に看病されていたのだと思うと腹が立ってしょうがなかった。狭い部屋に二人きりになると、エステルはじっとアーサーの寝顔を見つめた。日は完全に暮れ、室内は燭台の灯に照らされていた。
――本当にきれいな顔。
初めて出会ったときからそう思っていた。
きっとこれまでも多くの女性を虜にしてきたことだろう。
しかし、エステルが好きなのは、彼の翡翠の瞳が表情豊かにくるくる動くところや、くしゃりと笑った顔、そしてエステルを守るために剣を構える大きな手だった。
――ああ、そうなんだわ。わたくしはアーサー様のことが好きなのね。
自覚した途端、胸がきゅんと切なくなった。
恐る恐るアーサーの前髪をなでると、さらさらと指の間を滑っていった。エステルは手巾を濡らしてアーサーの髪にこびりついた血を拭った。
「アーサー様、あなたはいつかわたくしを好きになってくれますか?」
大きな手を握り、エステルがそう小さく囁いたときだった。アーサーが苦しげにうめいた。額を汗が流れ落ちている。彼の唇は、かさかさに乾いていた。エステルは、テーブルの上に置いてあった吸い飲みをアーサーの口に含ませると、そっと水を流し込んだ。アーサーの喉が鳴り、水を飲み込む気配がした。ほっとしていると、アーサーの瞳がかすかに開いた。彼はゆっくりと瞳を開き、瞬きを繰り返すと、あっと驚いた顔になった。
「……エステル?」
アーサーの瞳が貧しい部屋の中を探った。
「ここは……?」
「アーサー様が助けた親子が住んでいる家ですよ」
そこで、アーサーは何かに気づいたように目を瞠った。
「あの子供は?」
「無事です。怪我ひとつ負っていないそうです」
安堵した様子で、アーサーは胸をなでおろしている。エステルはため息をついた。
「アーサー様は馬鹿です。仮にも次期侯爵家当主なのに、わざわざ自分から危険に飛び込むなんて」
「……危ない目に遭う前に逃げるつもりだったんですよ」
「倒壊しかけた建物に飛び込むだけでも、充分危険です」
正論を言われ、アーサーはきまり悪そうな顔をしている。
「これからはもっと自分の立場をわきまえて行動してください。そうでないと仕える者が迷惑します」
エステルが説教すると、アーサーが苦笑した。
「あなたは母親のように口うるさい」
「まあぁ! わたくしはあなたの母親ではありません!」
恋する相手に母親呼ばわりされ、エステルは言い知れぬ屈辱を感じた。――類まれな美貌の持ち主。社交界でそう言われてきたが、今のアーサーの前では自信を無くしそうになる。二人の力関係は、最初と違って、完全に逆転していることをアーサーは知らない。
こうしてエステル・フォン・シェーンベルグの前途多難な恋が幕を開けた。




