第16章 閑話休題 再会③ミドルネーム
パンの焼ける香りが鼻をくすぐった。淡く漂う、優しい薫りに、音環は慰められるような気がした。
「門亜のこと、勝手にこうかなって先回りして動いたら怒られたんだ。だから、これからは何でも話すようにしてる」
音環は恥ずかしそうに言った。店に入ってきた時の、音環に戻ったようだった。
キッチンのほうで、コン、と何かをたたいて取り出すような音がした。
「ホームベーカリーでパンを焼く喫茶店、初めて見たよ」
大河は言った。
「……確かにね。ただ、無駄がなくて俺は好きだな……ボリュームあってしかもおいしいし」
音環の言葉に、大河はふと疑問に思った。
「空河はよくこの店を見つけなかったな」
あいつの美味しいものレーダーはすべっタローに次いで感度が高いんだが、とつぶやいた。音環はその言葉を逃さなかった。
「食べてみるとわかるんだけど……おいしいんだ。本当に。で、ボリュームもあるしリーズナブルだから毎日でもこれちゃう……今日の別腹は明日の脇腹、それくらい良く育っちゃうんだ。俺だって、商談の時にしか来ないよ」
多分、生存本能が作用したんじゃない?音環は言った。
キッチンが忙しくなった。レタスをちぎる音、包丁がまな板に当たる音が大河の耳にも届いてきた。
コーヒーもお任せならサンドイッチもお任せ。だから毎日来ても飽きない。……サイズアップして後悔するまではね。
キッチンの音を聞きながら、音環は歌うように大河に説明した。
ホームベーカリーを使うあたり、ちょっとこだわった喫茶店なのだろうけど、そこまで変わっていないだろう……。大河はいささか、音環の説明がオーバーに聞こえた。
まあ、サンドイッチだ。馬鹿みたいな挟み方をしなければ、そんなに驚くほどではないだろう。大河はウェイターが運んでくるのを見んがら思った。そして……目の前に置かれたものを見て大河は目を丸くした。
これは……サンドイッチと言うよりケバブサンドだろう!
斜めに切った、4つ切りの厚さのパンにさらに切れ目が入って、ぎっちりとレタスと卵が入っている。そしてもう一つはレタスと薄切りのトマトがこれでもかと言うくらい入っていた。
……もはや、パンは器で、具材を納めておくだけの存在にしか過ぎない。しかも、ホームベーカリーのパンは……市販のパンより密度が濃い。
「あははは!大河の目を丸くするところ、久しぶりに見たよ!」
音環は笑いだした。
「いや……確かに、空河、毎日来ていたらとんでもなくサイズアップするかもしれない……」
無事に、きれいに食べられるかな……大河はつぶやいた。
「あっ!パンが焼けてる!マスター、僕にも一つ!」
そう言いながら客が入ってきた。
「俺にも」
うなぎ屋かよ……大河は心の中で突っ込みを入れた。そっと、声のする方向を見ると、なるほど。ズボンの上にお腹の肉が乗っている。
前を向くと音環がにやにやしていた。あきらめて早く食え、そう言っているようだった。大河は両手でサンドイッチを持つと、ガブリ、と端にかじりついた。
小麦の香りが鼻腔をくすぐった。そして、ふんわりとしながらズシリ、とした食感が、口の中を覆った。水が必要か……?大河はサンドイッチを置いて水に手を伸ばそうとした。
すると、一緒に入ったレタスがパンを溶かして喉の奥に落ちて行った。魅かれるようにもう一口。そしてもう一口。
……手が汚れる前に、一つ平らげてしまった。
えっ。
大河はただ驚いていた。
でもな……この量は……無事食べきれるだろうか……。大河は二つ目のサンドイッチを前に考えていた。トマトがみずみずしく、大河を誘っている。
「大河、早く食べないとパンが水を吸って大変なことになるよ」
音環の前にある皿からは、すでに野菜サンドが消えていた。そして、玉子サンドに入ろうとしている。こいつの体のいったいどこに、この量が入る部分があるのだろう?
「大丈夫だよ。サンドイッチは飲み物だからさ」
音環の言葉に、カウンターの客が何となくうなずく様子が見えた。……しっかり聞き耳立ててやがる。
ええい。ままよ、とばかりに野菜サンドにかぶりついた。……確かに、さっきよりも野菜のみずみずしさでパンが一緒に胃に流し込まれていく。
細く切られたハムと玉ねぎのサラダが、アクセントを与えていた。飲み物と言うよりは、物足りなさを与えない……すでに一品料理だ。
俺……明日体重計に乗るのが嫌なんだけど。大河はそう思いながら、気づけば、サンドイッチの勢いに負けて、また一口、また一口と進んでいた。
食べきってしまった……。大河は空になった皿をみて感服した。
そうだ。もう一つ用事があったんだ。大河は2杯目のコーヒーに口をつけると、静かに言った。
「そう言えば、すべっタローと言えば、本名知っているか?」
え、すべっタローじゃないの?音環は当たり前じゃないか、と言う顔を向けてきた。
「卒業アルバムにも『すべっタロー』ってあったし。……もう消えちゃったけど」
何を言い出すんだろう。そんな顔だった。
「俺がいる……玲央と翔大のいる小学校、昨年建て替えしたろ。それで、今、古い校舎の片づけをしていたんだが……開校70周年だったか古い文集が出てきて、見たらすべっタローがいたんだ」
そう言うと、大河はスマホの画像を開いた。いくつかまとめて写った個人写真の中に、すべっタローらしき子どもの写真を見つけた。そしてその下には……。
「そうだ。須部 太郎。どうしてすべっタローになったのかは分からないんだが……」
須部太郎……すべっタロー。話し言葉がそのまま伝わってしまったのだろう。それにしても……。音環は再び笑い出した。
「ひっひど!あいつ、最初、成田だったか苗字つけていたんだよ。卒業アルバムにだって『成田すべっタロー』ってなっていたし。ミドルネームかよ!誰か気づいてよ……先生もひどいな……」
笑いながら音環は心のどこかで安堵した。名前は親からのプレゼントだ。遊びに行った時の、すべっタローの家庭はとても温かかった。それだけに、何で斜め上を行く名前を付けたのだろう……それが疑問だった。
そうではなく、太郎と言う一番目に生まれた喜びを……つけたのだろう、と思うとほっとした。
寂しそうな笑顔は、俺たちとすべっタローの間にひかれていた境界線であって、家庭でのことではない。俺が見た情景そのまんまだったのだろう……。そう思えてきた。
「俺さ、すべっタローの家に何回か遊びに行ったんだよ」
音環は言った。笑いすぎたのか、涙が目の端ににじんでいた。
「凄く温かい家庭でさ……きっとすべっタローの記憶の中の心の情景だったんだろうね。でもさ。必ず冷蔵庫からホットケーキが出てきて、すべっタローの家特製のリンゴジャムが出てくるの。
すべっタロー、ホットケーキに移った漬物のにおいを消すかのごとく山盛りにするんだけどさ……最後に、うぐっ、とか言ってさ。
ホットケーキに漬物の汁がかかっていたって、怒ってさ……でも食べきるんだ。あれ、なんでだろうね」
ホットケーキに漬物の汁が……のくだりで大河は噴き出した。せめて……ラップくらいしたらいいだろうに。
「きっと……そこまでがすべっタローのワンセットなんじゃないか?心の情景の……」
ホットケーキの話は初耳だ……なんだ、だんだんじわじわ来るぞ……。
大河は口を押さえながら笑い出した。そして、改めて存在をかみしめていた。データから消えようが、存在が消えようが……一緒にいた時間は嘘ではないんだ、と。
まるで、ふにゃーと言いながら扉を開けて無造作に座ってくる、隣にいるような体温を感じていた。
読んでくださりありがとうございます。
③ミドルネームです。
すべっタローの名前を決めたときにはすでに「須部 太郎」と言う名前も決めていました。
ニックネームでない限りは、すべっタローとはなかなかつけないだろう、と……。
ただ、話を書いているとキャラクターが勝手に動き出す時があり、まさか「成田」をつけるとは当初設定では思ってもみませんでした。
つくづくコミカルなキャラクターだったんだなと思います。




