第2章 梅雨雷④
門亜は湯呑の中のティーバッグがゆっくり緑色に染めていくのを見ながら、ぼんやり考えていた。
……この、帽子をかぶってリュックを背負った男の子は誰の子どもだ?知り合いなら伯母に預けるはずだ。
そして、頭の中で静かに計算を始めた。“彼”が生まれるであろう少し前に出会った人、出来事。……思い当たる節がない。
ティーバッグの湯を切ってごみ箱に捨てると、コップに氷を入れてジュースを注いだ。
「お待たせしました」
門亜は伯父と男の子の前に、静かに飲み物を置いた。そして、門亜はテーブルをはさんで向かいのソファーに座った。
伯父が口を開いた。
「この子は玲央と言うんだ。8歳……小学校3年になる」
玲央、と呼ばれた男の子は門亜が運んだジュースに手を付けず、下を向いていた。帽子の影で顔がよく見えなかった。
しばらく沈黙が続いた。ジュースが入ったコップに水滴がつき、流れ落ちてテーブルに輪を作っていった。
……しまった。コースターを敷けばよかったな、などと考えていると、コホンと小さくのどを鳴らすような咳払いが聞こえた。
そして、伯父は一息呼吸を入れると、静かに門亜に告げた。
「門亜。桜花……かりんが亡くなった」
シン……。今まで聞こえていたざわざわとした街の音が一瞬にして消えた。そして、ドクン、と大きく鳴った心臓の音だけが門亜の中で聞こえていた。冷えた空気がジワリと体を冷やしていった。
まさか?今になって?門亜は伯父の顔をじっと見た。伯父は門亜の様子に、慌てて伝えた。
「昨年の秋から始まったはやり病だ。霊安室で桜花に会ったが……病気でやつれてはいたが穏やかな顔だった」
門亜の脳裏に、淡いイエローグリーンのワンピースを着た、かりんの姿を浮かんでいた。亡くなった、の言葉にその思い出も、手を伸ばせば消えてしまいそうだった。
そして一つの疑問がわいた。玲央は……かりんの子なのか?時期が合わない。
伯父は続けた。
「この子は桜花が引き取って育てていたそうだ。母親は別にいて、すでに亡くなっている。桜花とは勤務先で親しくなったそうだ」
一息ついた伯父は、冷めたお茶をグイっと一気に飲み干すと、ポツリ、と言った。
「この子の母親が亡くなった時、玲央を守れるのは桜花だけだったそうだ」
伯父の言葉に門亜が視線を玲央に移すと、玲央はうつむいたまま肩を縮めていた。小さい体がますます小さく見えた。
「どうぞ……飲んで」
どう声をかけていいのか、門亜は分からなかった。2回も母親と別れた悲しみと心細さは、寂しい、悲しいでは表現できないだろう。彼の悲しみに目を向けないで、かりんのことばかり考えていたボクは馬鹿だ……。
門亜は喉の奥で何かが貼り付いたようだった。
その時、もう一杯お茶をもらえるか、と伯父は言った。門亜は静かに立ち上がると、湯呑を受け取ってお茶を入れに給湯室へと向かった。
後ろでは、伯父は玲央に何か声をかけているようだった。
お茶を入れて戻ってくると、玲央の姿が見えなかった。目で玲央を探す門亜に、伯父は
「俺の机で携帯ゲームをさせている」
と言った。そして、門亜から湯呑を受け取り、口をつけると
「熱いな」
とつぶやいた。
伯父は顔の前で手を組み、何か考えているようだった。やがて、何か決心したかのように体を少し起こすと
「門亜、玲央を育てないか?」
唐突に門亜に向かって言った。その言葉に門亜はお茶を飲もうとした手を止めた。
今、なんて?
じっと、伯父を見つめる門亜の目を射るように、伯父は門亜の目を見て言った。
「俺が育ててもいいが、桜花を守ったお前が育てたほうがいいだろう」
そう言うと、伯父は軽く息を吐いた。
「桜花の身の回りのことは、万が一のことがあった時、俺が引き受けることになっている。警察をやめてもな……」
門亜は、奔流のように押し寄せる情報を整理するのに手いっぱいだった。門亜の日常に「桜花」が、かりんが戻ってきた。止まっていたはずの時間が疼き出し心臓が殴られたような衝撃が続いた。
……かりんの死。それはあまりにも無機質で、文字情報のようにするりと門亜の中に入り込んできた。
伯父さんがなかなか帰ってこれなかったのは、事後処理にそれだけ時間がかかったからだ。膨大な処理の量があったことにあらためて自分の願いが法外なものだったかを思い知らされた。
……そして、今。伯父は玲央を育てるようボクに言っている。
顔がこわばったままの門亜に伯父は言った。
「桜花が亡くなった以上、玲央は俺が面倒を見ることになる。もちろん、養護施設に入れることは考えていない。ただな。子どもは衣食住を与えていれば育つというものではないんだ」
子育てをしたことがない、ボクができるのだろうか……。門亜は伯父の真意を測りかねた。
「桜花の忘れ形見だ。門亜。お前が育てたほうがいい」
伯父はそう言うと、少し冷めたお茶を一度に飲み干した。
――くしゅん、と少し離れたところで、くしゃみが聞こえた。玲央のくしゃみだった。
「子どもの……一人の子どもの人生を背負うなんて……責任が持てません……」
門亜は声を絞り出すようにして言った。
育てるなら、子育て経験のある伯父夫婦のほうが適任だろう。かかわり方も、どうすればよい人生を送れるかも知っている。
門亜は、うつむいた。
逃げたいわけじゃなかった。警察官時代に、不適当な育てられ方をして道を誤った子どもを何人も見て来た。自分が、正しい子育てをしている姿を思い浮かべられなかった。
「責任か……門亜。お前は桜花を送った時に、いろんな責任を背負い込んでいるんだぞ」
伯父は言葉を選びながら言った。
「桜花が出会う人、そこで起きる出来事。あの時に責任を取ることが始まったんだ」
ぎゅっと門亜は胸が締め付けられるようだった。そして何故か
『責任って言うけど、無事に終わってから言うもんじゃねえんだ!』
と門亜に叱責をした、暴対の刑事の言葉が思い出された。
「ボクが育てて……玲央くんは幸せになるのでしょうか……」
門亜はうつむきながら言った。伯父は少し声を和らげて言った。
「いきなり2人で過ごす、と言うことはない。俺たちもできるだけサポートする。普通ならこんな形で家族は始まらない。だが……これも縁じゃないか?」
縁……大河は琥太郎との出会いを縁だと言った。もちろん、大河たちのは求めてつながった縁で、ボクの場合は飛び込んできた縁だけど……。
縁とはこういうものなのか?門亜は顔を上げて伯父を見た。
伯父はゆっくりとうなずいた。
「伯父さん、お世話になります。どうすればいいのか全然わからないけど……玲央くんを育てます。なので助けてください」
門亜は深々と頭を下げた。
読んでくださりありがとうございます。
第2章はこのエピソードで終わりです。
7年前、桜花を送り出す時に伯父は門亜に
「いろんなものを失った中で生まれたんだ。桜花は。だから、大丈夫だと信じてやれ」
と言いました。
僅かな時間でしたが、玲央を守るために最後は門亜に託したのだと思います。




