第10章 別離③
「辛いことを言ってごめんな。俺も、ここまでしないと翔大を守ることが出来ないんだ。ごめんな。俺が守るからな……」
音環の腕に、温かいものが浸み込んでいた。そしてそれは、すぐに冷たくなっていく。音環は、翔大の心が空虚になりつつあると感じていた。
そっと抱き上げると、優しく優しく、翔大の頭を背中をなで続けた。
「音環……反対しないから、教えて。何でスマホを置いていくの?」
鼻を赤くした門亜が聞いてきた。その目は明らかに「分からない」と言っていた。音環は翔大を抱きかかえながらとつとつと言った。
「相続放棄……翔大にさせたいんだ」
「えっ」
もう?相続の話?門亜はそう言いたそうな顔をした。
「失礼な言い方だが……リサさんの遺産……俺は負の遺産のほうが多いと思っている」
音環の目は、どこか宙を見ていた。何かを考えている時に見る目だ、と門亜は思った。そしてその時は決して誰も見ない。
門亜は音環が遠くに感じていた。
「マスターも言ってただろう。リサさんのものは持ち出さないように、って。恐らく、負の遺産が多い、そんなに多くなくても……な」
ふう。音環は軽く息を吐くと、ソファーに座りなおした。
「俺が対象にしているのは、個人経営の企業の融資だが……たまに、融資回収完了前に経営者が亡くなる時がある。しかも、亡くなったことで事業継続が難しい場合だ。
そういう時は、亡くなったと同時に金になりそうなものを処分することがある。だからこちらも把握しておいて、放棄を認めないよう申し立てをすることがある」
音環は続けた。
「仮にリサさんに貯金があっても、アパートを引き払えば消えるくらいだろう。そしてそれ以上に何かローンとかあったら?
相続の放棄のタイムリミットは3か月だ。未成年後見人を立てて、財産の把握をして……役所もそんなに暇じゃない。放棄が出来なくなったら、翔大はこの年で借金を背負い、自己破産をすることになる」
とつとつと語る音環の言葉は重かった。
「スマホを返したくらいで守れるかは分からないが……出来ることはやっておきたい。
リサさんが亡くなってから、1回も足を踏み入れていない。そう言うために、早いうちにスマホと鍵を一緒にドアポストから入れておきたいんだ」
音環はそう言うと、抱きかかえていた翔大をぎゅっと抱きしめた。
「とりあえず……行こう。残酷なようだけど、社会に出た時にゼロどころかマイナスのスタートのほうが残酷だ。スマホも電源を切っておこう。翔大。こんな形でしか守れなくってごめんな」
音環はそう言うと、翔大を抱えたまま立ち上がった。財布にmicroSDを入れると、勝手口へと向かった。
玲央が続くと、音環の言葉に、考え事をしていた門亜は慌てて後を追った。
車内は静まり返っていた。エンジンの回転数が上がったり下がったりする音だけが響いていた。時折、玲央が横の翔大を気遣うように向いていたが、翔大はうつむいたままだった。門亜は音環の言葉を反芻していた。
『先に処分したものを把握しておいて……放棄を認めないよう申し立てをする……』
その言葉を口にした時の音環は、まるで機械のようだった。自分の行動を自分で冷静に見るように。
もし、ここで何か言ってしまったら、音環はまた1人でどこかに行ってしまうのだろう。ボクと玲央の生活は守ったまま。どこか遠くで守りながら1人で生きていこうとするんだ。
門亜は、音環が弘前に移動する前の音環の様子に似ている、と思った。あの時はすべっタローがいきなり消えた時だ。なんだっけ……。
『誰かを傷つけそうだ。だから、一人にしてほしい』だ。
門亜は音環のジャケットの裾を掴んだ。音環は門亜の行動に気づいたようだった。門亜は言った。
「音環。今日、無事に家に帰ったら、も少しお話しよ」
ふう。門亜の耳に音環のため息が届いた。
しばらく走ると、道路のわきにセブンイレブンの看板が見えた。音環はウィンカーを出すと、駐車場に滑らすように車を入れた。
「何か……飲みたいものとか、ある?玲央たちのトイレとか」
「あ、じゃボク2人をトイレに連れて行くよ。温かいもの、お願いしていい?」
ああ、と言うと音環は先に店内に入った。門亜は二人を車から降ろすと
「先に行っておこうね」
と言い、店内に入った。
門亜は音環がコピー機の前に立っているのを見た。何を印刷しているのかが気になったが、音環に任せることにした。
ボクはいつも今の時間を生きていて、音環は先を見ながら少し先を生きている。
門亜は、改めて音環との間に見えない壁があるのを感じていた。
2人をトイレに行かせて車に戻ると、音環はすでに車の中にいた。パチ、パチと印刷したものをホチキスで留めていた。
「待たせちゃってごめんね」
音環はいや……と言うと、後部座席に座った翔大に印刷したものを渡した。
「ラインのデータ。ママとのやり取りを印刷したものだ。パソコンにも同じものがあるが……すぐ見えるほうがいいだろう?」
翔大は音環から受け取った。そして、印刷されたものを見た時、目を丸くした。
いつも使っているママのスタンプ。おやすみなさいの文字。見慣れない大きさだけど、目の前にある。
「ママ……」
声にならない声が車内に響いたような気がした。
翔大の目から涙がこぼれだした。そして、濡れた指でゆっくりと、一枚一枚ページをめくった。
――翔大が住んでいたアパートに到着した。部屋にはまだ誰も来ていないようだった。アパートの駐車場は音環の車以外、1台も止まっていなかった。
「門亜、動画を撮ってくれるか」
2階の翔大が住んでいた部屋の前に立つと、音環は言った。そして音環はスマホと鍵をジッパーバッグに一緒に入れると、翔大と一緒にドアポストの入り口に入れた。
ゴトン。
滑り落ちたスマホはポストの底に着くと、鈍く、重い音が響かせた。
玲央は耳を押さえた。門亜は目をそむけた。まるで、誰かを送り出したような音だった。
「ママ!」
翔大はドアポストに手を伸ばしたが、音環がそれを阻んだ。そっと翔大を抱きしめた。
「我慢……我慢してくれ。翔大……お願いだ……」
音環の腕の中で翔大は泣きじゃくっていた。それは音環を責めるのではなく……引き裂かれた悲しさ、辛さを訴えているようだった。
第10章 別離③です。このエピソードで第10章は終わりになります。
翔大の住んでいたアパートに向かう車中、音環は怒ったように見えますが、次の章ではっきりとは言いませんが「音環の弱さ」だと言います。
まだまだシリアスな話が続きますが、第11章の最後で音環の願望が分かります。
読んでくださりありがとうございます。




