第8章 ナポリタン③
バスに乗ると、玲央は曇ったガラスに線を引っ張ったり渦巻きを描いたりしたあと、線の隙間から景色を覗いていた。
白い世界。歩くと黒がはねて色が付く世界。
最初の頃は服が汚れるのを玲央は嫌がっていたが、汚れても嬉しそうに洗濯をする門亜を見て、時折泥だまりに軽く飛び込んでは雪に黒の点を付けるのを楽しんだりした。
そうしているうちに2人は門亜の店に着いた。玲央はオーバーコートとパンツを脱ぐと、つけたばかりのファンヒータの前に座った。暖かく噴き出してくる風が、玲央の凍えた指先をゆっくりと融かしてくれるようだった。
レンジの音がして、門亜が玲央の元にやってきた。残念そうな、とっても申し訳ない、そんな顔をしていた。
「ごめんね。玲央くんがハンバーグ食べたいっていうから作ったんだけど……」
門亜は玲央の前にバラバラになったハンバーグを出した。
「なんか上手くいかなくて。バラバラになっちゃったんだけど……食べる?」
玲央は不思議なものを見るようにハンバーグを見た。そして、スプーンですくって口に入れると
「桜花ママのと同じ味……」
とつぶやいた。門亜の顔はぱっと明るくなった。
「ほんと?じゃ、今度はバラバラにならないように頑張るね!」
ぎゅっ。門亜は玲央を抱きしめた。力強く抱きしめる腕は、玲央には少し苦しくて、とても温かかった。
お代わりもあるからね。門亜はそう言うとキッチンへと戻って行った。ガスを付ける音がすると、少しして、醤油と出汁の香りがしてきた。
玲央は不思議な気持ちでハンバーグをスプーンですくって食べていた。
フォークで食べるハンバーグもおいしかったけど、スプーンですくって食べるハンバーグもおいしかった。
玲央はきれいに食べ終わると、流しにお皿を置きに行った。そして、終わらなかった宿題の続きを始めた。
しばらくして、チリン。暖簾を出すために門亜が引き戸を開けた音がした。ほどなくして、入り口の鈴の音がすると人が入ってくる音がした。
「あっ!ハンバーグの匂いがする!門亜ママ、もしかしてピーマン入れてる?」
宿題を終わらせた玲央の耳に、いつも来る女性の声が届いた。……翔大ママだ。
僕のハンバーグ!ぷっと頬をふくらませると、休憩部屋の入り口まで静かに移動した。
「うーん。でも、バラバラになっちゃうんだよね」
続いて門亜の声がした。門亜は、鍋にまだ温かいお湯を入れると、スバゲッティをゆでるためのお湯を沸かし始めた。
……別に、バラバラでもいいのに。僕だけに作ってくれればいいのに。玲央は憤慨した。
「野菜、刻んだ時にキッチンペーパーで水分、ふき取ってる?やってみるといいよ!」
ソースを作っていると、翔大ママの声が響いた。その声に、門亜は試してみようと思った。
少しすると、ん-!かぼちゃの煮物おいしい!と言う翔大ママの声が聞こえて来た。
翔大はいつもの通りナポリタンを食べているようだった。
玲央はほっとすると部屋の奥へ戻って行った。
翌日。門亜は少し早くお店に出て、ハンバーグの種をこねていた。
アドバイスの通り、みじん切りにした野菜の上にキッチンペーパーをのせて、水分を取ってみた。ひき肉は前日よりもっと多く粘るまでこねてみた。
フライパンに油を引いて丸めたハンバーグを乗せる。一回ひっくり返した後、静かに上から押しつけて広げていく。
ふんわりが無くなってしまうのに、なぜそうするのだろう……門亜は不思議に思ったが、玲央から聞き取ったレシピの通りにした。
再度ひっくり返した……その時。崩れずに焼き目が上になった。
「成功だ」
玲央が目を丸くしてハンバーグを見つめる様子が見えるようだった。門亜は知らずに笑顔になっていた。
さあ、迎えに行こう。門亜は焼きあがったハンバーグを皿にうつし、レンジに入れると店のカギを閉め、バス停へと向かった。
――学童から門亜の店についた玲央の目に映ったもの……それは崩れていないハンバーグだった。
玲央は目をキラキラさせて門亜を見ると
「うまく行ったよ」
門亜はピースサインをした。
玲央はフォークで一口分を切り分けると口に運んだ。ちょっと固くてちょっと苦い、そしてとっても甘いハンバーグ。桜花ママの作ってくれたハンバーグと同じ味。
「おいしい……」
パクリ。もう一口。門亜さんはどうして桜花ママと同じ味が出せるのだろう……。そう思った時、玲央はぽろり。涙が出てしまった。
「れ、玲央くん大丈夫?」
玲央はうなずいた。そして門亜に抱き着くと……門亜のかっぽう着で涙を拭いた。
ふっ。門亜は軽く微笑むと玲央の頭をやさしくなでた。
「小さいオムライスも作ったんだよ。食べる?」
玲央はうなずいた。門亜は小さな声で……ささやくように玲央に言った。
「ねえ、このオムライス、翔大くんにも出していいかな?ハンバーグは玲央くんの特別だから、その代わりに……ね」
ハンバーグは出さないから、オムライスを出す……。本当は翔大くんには僕と同じものは出してほしくないんだけど……。
「ハンバーグは出さないでね。絶対だよ」
玲央の言葉に、門亜はうなずいた。
21時を過ぎるころ。音環が店にやってきた。
「ごめん。遅くなって……。2月でこれだから、決算月は思いやられるなぁ。ごめんな」
玲央、帰るよ……すでに眠っている玲央を音環はそっと抱きかかえた。これでお風呂に入れたらしっかり目が覚めちゃうかな……。
「音環、はい。これ……。いつもありがとうね」
門亜はクーラーバッグに詰めた総菜を音環に渡すと、玲央くん、おやすみ、とおでこにキスをした。
「そう言えば、少し先で救急車が止まっていたんだ。何だろう。門亜かと思って一瞬ひやっとしたよ……」
音環が門亜に言った、その時だった。
店の引き戸が開いて、黒服を着た男が入ってきた。傍らに翔大を連れていた。
「マスター?翔大くん?」
マスターと呼ばれた黒服の男は、困ったような顔をしていた。
「門亜さん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
マスターはそう言いながら、音環に気が付くと、
「あ、音環さん。お久しぶりです。こちらに帰ってきたんですか?」
と声をかけた。音環は会釈をした。
「マスター、どうしたの。翔大くん連れて」
門亜は平静を装って言ったが、心の中はざわついていた。
夜間の託児所にいるはずの翔大がマスターに連れられてやってきました。
普通ならもっと不安がるとか泣くとかするのでしょうが、静かなのには理由がありそうです。
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