3. お断りいたしますわ
「つまり、その町医者を悪者に仕立てよ、と」
テオドラの声で、奥の間の空気が三度ぶんは冷えた。
お客はトルナウ伯爵。恰幅の良い方で、手袋を扇子代わりに振りながら、事もなげに言い直す。
「仕立てるも何も、事実であろうよ。平民の医者風情が伯爵家の娘に近づくなど、財産のほかに目当てがあるものかね」
「娘御は、何と仰せです?」
「駆け落ちも辞さぬ、などと。だからこそ目を覚まさせるのだ。満座であの男の正体を暴けば、娘とて諦めよう」
私は膝の上で手を重ねたまま、口を開く。
「お断りいたしますわ」
手袋が、止まった。
「わたくしどもがお着せするのは、誰のものでもない罪だけですの。実のあるお方に偽の罪をお着せするのは、幕ではのうて、ただの罪でございますわ」
「金なら積むぞ」
「積む先を、お間違えですわ。……お帰りは、あちらの戸口から」
伯爵は顔を赤くして帰っていった。テオドラは湯呑みを傾けて、ひとこと。
「ああいうのは、諦めないよ」
◇
果たして、五日後の報せである。
出入りの御者筋によれば、トルナウ伯爵家の夜会に「よそのお仕度」が入った。仕切るのはジルヴェスタなる仲介屋。芝居小屋くずれの台本屋で、近ごろ幕を安売りしているのだという。曰く、台本は三種の使い回し、悪女は日雇い、退場は駆け足。安かろうの幕は、あちこちに薄ら寒い後味を残しているらしい。
安売りは、構わない。だが今度の台本は、実在の医師どのに偽の罪を着せる筋である。着せられた罪は、幕が下りても消えない。あの筋書きが通れば、医師どのは明日から、財産目当ての誑かし者として生きることになる。
「行くのかい」
「幕を汚されるのが、癪ですの」
テオドラは止めない。代わりにカスパルが、大急ぎで衣装箱を開けた。貫禄の年増、灰色の絹、指輪は多めに。悪女「メルテン夫人」の、急ごしらえの誕生である。
他人の幕に、台本なしで立つ。そんな仕事は、修業の初日から数えても一度もない。決行の晩、迎えの馬車の中で、膝の裏が正直に冷えていくのを、灰色の絹ごしにじっと聞いていた。
◇
トルナウ伯爵家の広間では、雇われの悪女が口上を張り上げていた。
「この医者はっ、令嬢のご資産をっ、狙ってっ」
台詞が上滑っている。間が浅い。息継ぎの場所も違う。何より――義憤に沸く客の中で、医師どのが本気で青ざめている。あれは芝居の顔ではない。明日を失う男の、本物の顔である。
「――あら」
私は扇を閉じ、進み出た。
「その筋書き、種はわたくしですわ」
満座が、一斉にこちらを向く。視線の重さは、浴び慣れている。むしろ、懐かしいくらいのものである。雇われの悪女が、台詞の続きを口の中に落とした。
「メルテン夫人と申しますの。医師どのは、わたくしの筋に乗せられただけのお方。資産の絵図も駆け落ちの噂も、種を蒔いたのはこのわたくし。お嬢さまのお心を医師どのへ向けさせ、破談の後の傷心のお家に、取り入る算段でございましたのよ」
嘘の上に、より大きな嘘をかぶせる。満座は、より大きな悪女のほうへ飲まれていく。医師どのの顔の青が、当惑の白へ変わる。白は、生きられる色である。
広間のどこかで、誰かの扇が落ちた。
義憤の行き場を失ったお客たちが、医師どのと私を見比べる。視線の意味が、ゆっくり裏返っていく。娘を誑かした男から――悪女に利用された、気の毒なお人へ。
「そ、そんな筋は、聞いて――」
雇われの悪女が口走り、慌てて自分の口を押さえた。台本にない大敵の登場に、続きの台詞が出てこない。お気の毒さま。あなたの台本は、ここでおしまいである。
トルナウ伯爵はといえば、赤黒い顔で私を睨み、それから客の手前、咳払いをひとつ。
「――で、あるか。医師どのには、その、無礼をいたした」
言質、頂戴いたしましたわ。満座の前の「無礼をいたした」は、もう引っ込みがつかない。
私は雇われの悪女の手首をそっと取り、二人ぶんの退場をまとめて頂くことにした。扉までの十歩、囁くのはひとことだけ。
「お帰りなさいな。今夜はもう、幕ですわ」
◇。
帰りの馬車で、テオドラの小言は短かった。
「乱入は芸じゃない、火消しだよ」
「……ええ」
「誇るんじゃないよ。ああいう晩はね、あんたの幕も一枚、痩せるんだ」
唇を噛む。分かっている。今夜の私は悪女ではなく、ただの盾だった。盾は、拍手をもらう芸ではない。……それでも、医師どのの白くなった顔を思うと、噛んだ唇の奥で、誇りとは別の何かが静かに座り直すのである。
で――裏路地には、性懲りもなく観客が立っていた。
「本日のは、幕ではなく――盾でしたね」
「……お代の取れない演目ですわ」
「ですが、良い盾でした。医師どのの白い顔が、今夜いちばんの見せ場です」
拍手は一度。今夜のそれは、心なしか、手と手の合わさる時間が長い。
◇
翌日の店先に、上等の外套のお客が立った。
「白いリボンの帽子を、ひとつ」
白リボンは、ただの帽子の注文である。カスパルが寸法帳を構え、テオドラが素知らぬ顔で見本を並べ、私は棚の陰で息を潜める。よりにもよって、シュタインフェルス公爵である。帽子箱の並んだ棚の隙間から、上等の外套の背中だけが見える。心の臓の音が、リボンの棚まで届きそうで困る。
「贈り物でございますか」
「ええ。母の代からの馴染みですので、こちらでと決めています。……贈り先は、まだ内緒です」
公爵は帽子をひとつ注文し、世間話をふたつして、私の棚のほうへは一度も目を向けずに帰っていった。一度も目を向けない、という礼儀があるのだと、この日初めて知る。




