2. 昼は礼法、夜は断罪
「扇は、口もとを隠す道具ではありませんのよ」
指南先の伯爵家、南向きの稽古部屋。娘たちの扇が、ぱちりぱちりと不揃いに鳴る。窓から春の光が斜めに差して、埃がきらきらと泳ぐ。稽古部屋の匂いは、白粉と、若い緊張。
「目もとを作る道具ですの。開くのは三寸、傾けるのは小指から。……そう。お上手ですわ」
昼の私は、礼法指南の「先生」である。会釈の深さ、裾の払い方、扇の角度。貴婦人の所作という所作を型で教えて、束脩をいただく。まっとうな商いだ。
ついでに言えば――貴婦人の所作を型で知り尽くした者だけが、その崩し方も演じられる。悪女の艶は、礼法の裏返しでできているのだ。娘たちには、一生知られなくてよいことである。
◇
店に戻ると、テオドラが黒いリボンの見本を売り台に出していた。
黒リボンの帽子の註文。それが、うちの裏口の合図である。今日のお客はエッシェン伯爵夫人――と、目の下に隈をこしらえた令嬢がひとり。
奥の間で伺った事情は、こうである。令嬢のリーゼルさまは、この春、王立天文台の〈星読みの写し手〉に召された。北塔に登って星図を写す役で、古い定めにより、嫁いだ女は登れない。一方で、子爵家との縁談は調いかけている。「星を選びました」と言えば家門は笑われ、先方の令息の面子も潰れる。
「星は、逃げませんの」
リーゼルさまは、隈の下から真顔で言う。
「ですから、わたくしが登りますのよ。……いけませんこと?」
「結構ですわ。では、悪者はわたくしが承ります」
◇
衣装部屋で、カスパルが鬘の棚を開ける。油と糊と古い絹の匂いのする、うちでいちばん正直な部屋である。
「誘惑型なら赤毛ですや。流れの楽師くずれってことにしやしょう。指が語りますんで」
「では爪を短く。弦だこの痕も、描いてくださいな」
今度の悪女は「ヨランタ」。楽師くずれの流れ者で、子爵令息の心を惑わせた女、という筋書きに決まった。退場の口を下見し、幕の晩のうちに王都から消える手筈を組む。辻馬車を二度乗り継ぎ、宿帳には名を残さない。同じ顔で二度、同じ客の前には立たない――掟の、三つ目である。
◇
エッシェン伯爵家の音楽夜会は、燭台の数まで品が良かった。
楽の止まる合図で当主が進み出て、「皆さまに、お詫びとご報告がございます」と切り出す。ヨランタの罪状が読まれ、私は満座の軽蔑を静かに浴びる。ここまでは、台本どおり。
狂ったのは、被害者席だった。
リーゼルさまが、泣き出したのである。台本では気丈に俯くだけの場面で、肩を震わせ、本気の涙をこぼして。……分かる。婚約者を悪女に取られた娘の顔で泣きながら、あの方はいま、星を選んだ自分の嘘に泣いている。
嘘に泣く娘の顔というものは、見ていて胸の古いところが軋む。覚えのある軋み方である。由来は――今夜は、思い出さないことにする。
放っておけば満座の同情が湿り、幕が緩む。湿った幕は、双方咎なしまで運べない。
「あら、まあ」
私は扇を三寸だけ開き、小指から傾ける。
「泣くほどの殿方でして? まったく、良い気なものですこと」
悪態は、悪女にだけ許された励ましである。リーゼルさまが顔を上げ、涙の途中で、ふ、と笑いかけ――慌てて怒った顔を作り直した。それでよろしい。あとは当主の宣言が、双方咎なしまで運んでくれる。
◇
裏口の夜気が、汗の浮いた首筋に冷たい。
そして案の定、そこに観客が立っている。
「先週の方と、目が同じでした」
「人違いですわ」
「では、人違いのまま。――見事な幕でした」
小さな拍手が一度。それから彼は、少し考える顔になった。
「ひとつ、伺いたいことが」
「……内容によりますわ」
「いえ、やめておきます。お名前は、伺いません。楽しみが減りますので」
問いの取り消しのくせに、宣言のように響く。名を聞かれずに済んだ――先に立ったのは、その安堵である。そして安堵した自分に、遅れて少し驚く。返す言葉を探すうちに、靴音は角の向こうへ消えていた。
◇
王都の茶会で、このごろ持ちきりの話がふたつある。ひとつ。近ごろの断罪の場には、同じ悪女が出るらしい。顔かたちは毎度違うのに、居合わせた誰もが「同じ女だ」と言い張るのだから、怪談じみている。ふたつ。あの出不精で知られたシュタインフェルス公爵さまが、招待という招待にお出ましになるらしい。破談の傷心はどこへやら、これはいよいよ花嫁探しでは――と、扇の内側は今日も忙しい。
◇
翌朝の店に、黒リボンの註文がひとつ。
添えられた口上書きを読み上げて、テオドラが眉を寄せた。
「……『悪者にしたい相手がいる』とさ」
黒リボンは、悪者をお貸しする合図である。悪者にしたい相手がいる、では――話が、逆さまだ。
店の窓から差す朝の光が、黒いリボンの艶を、嫌に綺麗に見せていた。




