4. 幕でございます
「わしを、間抜けにしてくだされ」
ロートベックの老侯爵ハルトヴィンさまは、奥の間に座るなり、そう仰った。
御年七十三と伺う。杖は樫、背筋はまっすぐ、目だけがときおり、置き所を探すように泳ぐ。膝の上で重ねた手の甲には、歳月の染みと、細い金の指輪がひとつ。ご注文はこうである。性悪の美女に骨抜きにされ、財産をごっそり騙し取られた、哀れで愚かな年寄りの幕を。
お帰りを見送って、テオドラがぽつりと言った。
「……あの家の金は、もう動いてるよ」
「ご存じですの」
「恵み院の炊き出しが、先週から倍になってる」
つまり、こういうことらしい。贈り物は、もう贈られている。当主のご随意で、取り消しは利かない。けれど甥御たちが「ご老体の散財」と騒ぎ、後見を、と言い出す構えなのだという。後見のお沙汰が下りるのは、当人が進んで財を浪したとき、と礼法で決まっている。騙し取られたのなら、ただの被害。被害に遭うのは、賢いお方でも遭う。被害者に、後見は要らない。……そして、恵み院のことも、亡くなられた奥方さまのお名前も、表には出ずに済む。
幕は、金子を動かす手段ではない。もう動いたものを、誰にも争わせない形に包む――大きな風呂敷である。
◇
悪女「アデルヴィーネ」は、四十がらみの美女に仕上がった。
目尻の描き方ひとつ、歩幅の取り方ひとつで、女の見た目の歳は動く。カスパルの選んだ深い葡萄色の絹に、指輪はあえてひとつだけ。籠絡の悪女は、飾りすぎてはいけない。飾るのは、殿方の見た夢のほうである。
ロートベックの広間は暖炉が古く、火の爆ぜる音が、楽の切れ間によく通る。蜜蝋の匂いの中で、楽が止まる。
隠居披露の宴で、私は臆面もなく嗤ってみせた。
「ご披露の席にお招きいただけないのは、寂しゅうございますわねえ。ええ、ええ、頂いたものは、お返しなどいたしませんことよ。まんまと、頂いてまいりましたもの」
満座の義憤が、肌を打つ。心地よい打たれ方である。そして今夜の名優は、私ではない。
「――わしが、愚かであった」
老侯爵さまの声が、広間の隅々へ、ゆっくり落ちていく。
「年甲斐もなく、良い夢を見せてもろうた。夢の代金と思えば……いや、言い訳はすまい。わしが愚かであった。それだけの話じゃ」
甥御たちが、気の毒そうに顔を見合わせる。あの顔から「後見」の二文字が抜け落ちていくのが、遠目にも見えた。依頼人が一番の役者だった夜、というものが、この稼業にはたまにある。
◇
退場の辻で、馬車を待つ間のことである。
見送りと称して付いてこられた老侯爵さまが、杖の頭を撫でながら、誰にともなく仰った。
「……妻はな、寒い年の冬に、恵み院のへ自分の外套を置いてきた人での。帰り道、寒い寒いと笑うんじゃ。わしの外套に、二人でくるまって帰っての。あれとの約束を、やっと果たせた。これで、顔向けができますわい」
礼の言葉は、それだけだった。馬車の戸が閉まり、車輪が石畳を噛む。
楽屋で鬘に手をかけて――手が、止まった。
鏡の中の悪女の目尻に、覚えのない光が溜まっている。おかしい。幕の外は乾いているのが、私の取り柄なのに。喉の奥が、火傷の手前のように熱い。外套。ふたりでくるまった帰り道。四十年かけて果たされる約束というものの、その長さ。……いけない。これは、湿る。悪女の顔のままで泣くのは、職人の恥である。
「お嬢ーっ、一大事ですや! 鬘がひとつ棚から消えて――あっ。あっしの頭の上でしたや」
カスパルの棚卸し騒ぎが、湿気をぜんぶ攫っていく。あの男の間の良さは、たぶんあれで芸である。
◇
夜道の途中から、隣に靴音がひとつ増えた。
「今夜は、感想を申しません」
公爵はそれきり、馬車寄せまで黙って歩いた。問わない。褒めない。覗き込まない。夜気は冷え、道のりは半町ばかり。靴音がふたつ、揃いそうで揃わない。その半歩の間合いが、妙に呼吸に楽で――無言というものが、こんなに歩きやすい晩もある。
――わたくしは幕でございます。お芝居の中身は、皆さまのものですわ。
口の中でだけ、いつもの口上を唱える。幕は中身を持たない。持たないから、どんな中身も包める。今夜のところは、そういうことにしておく。
◇
同じ週、王都の恵み院に、名を伏せた大口の寄進があったという。院長が「せめてお名前を」と食い下がっても、使いの者は首を振るばかり。折しも街では、例の「百面の悪女」の人相書きが三種も出回り始めた。曰く、背の高い北方の女。曰く、小柄な南方の女。曰く、四十がらみの妖艶な美女。全部買って見比べた好事家が、ひとことだけ評したそうだ。――どれも、目だけは良い女だね、と。
◇
翌朝、店の表が妙に賑やかしい。
窓から覗けば、人だかりの真ん中で、売り子が刷り物を振り回している。
「さあさ、出たよ出たよ、『百面の悪女』の最新版だよ!」
「……最新版とは、何ですの?」




