バリカン
頭髪というものは人間特有のもので、頭部にだけ濃く生える体毛を意味する。
無数にあるそれぞれの毛根から伸び続けるキューティクルを表層とする糸状の細胞が、祖先たちの間では長い間、伸ばし放題か束ねられるだけだった。そんな頭髪が整髪されるようになった習慣化は、文明の転換期とちょうど重なる。各文明圏においてそれぞれの年代ごとに紙や布類を裁断する用途に発明されたと思われるハサミは、頭髪を整えながら刈る事にも適していたからだ。
整髪の文化があれば必ずそこには理髪店も営まれていく。髪を梳くのは慣れた理髪師の技術でもあり、流行の髪型に散髪してもらう社交の準備の場にもなった。
古くからハサミが使われる一方、19世紀にニコラ・ビズミックによって考案された手動式のバリカンは様々に改良されながら、世界中に手軽な散髪の流行をもたらした。20世紀に入ってヘンリー・リーランドにより電動式のバリカンが発明され、やがてバリカンとは電動式である場合が一般的になっていった。
各国でこの理髪器具の呼び方は異なるが、フランスの理髪器具メーカーの創業者ジュール・バリカンに因んだ社名から日本では「バリカン」の名前が定着している。
自分の家に、髪の毛を梳くのが上手い嫁がいるというのはとてもいいものだ。
俺は昔から散髪に無頓着で、安い家庭用バリカンで済ませていた。 平凡な髪形で満足だし、こまめに気にする性格でもない。
だけどそれもトゥルミナが来てからは、散髪をすっかり彼女に委ねる生活になった。
「ダーリン、髪が伸びたと思うわ。今日はバリカンの日にしましょ。」
「そうだね、そろそろ切ってもらおうかな。」
トゥルミナはバリカンを器用に扱って俺の髪を梳いてくれる。ただ散髪にはどうしても刈った髪の大変な掃除が伴うため、髭剃りのようには日課にならない所がある。だから10日に1度くらいの、時間が空いた日にはこうしてトゥルミナがバリカンを手に取るんだ。
理容師さんが爽やかに世間話をしながら髪を梳いてくれるのと同じように、トゥルミナにとっても散発はお喋りが捗る時間だ。そして世間には髪の毛のお手入れについての広告がとても多い。
「ダーリン、Q社の染色剤入り整髪ジェルが3色同時なら半額ですって。」
「そういうの流行ってるんだ、知らなかったな。」
「ダーリン、モバイルバッテリーと一体化したモバイル三面鏡がD社から新発売されているわ。」
「ふうん、畳めるのは便利そうだね。」
「ダーリン、N社のスポットパーマ機が今なら4割引きみたいよ。」
「スポットで掛けられるなんて面白いな。」
「ダーリン、たまには気分を変えてR社の長髪ウィッグはいかが?」
「別人になれて楽しそうだ。」
髪を弄られながらそんな相槌をする俺だって気持ちが良いし、トゥルミナはそういうのを満足そうに髪を梳いてくれる。
いつか発毛剤の宣伝も混ざってくるのかな……などと不安が無いわけでもないけど。まだ言われないという安心の確認にもなっている。ユーザーのプライバシー情報に合わせた広告って便利だよね。
俺は髪型にはこだわらないほうだから、理髪店に通ってた頃はバリカンでも梳きバサミでも理容師さんに任せてどっちでも良かった。でも、こんないい時間が過ごせるなら、あの優しさの極致の時間も味わいたくなってくる。
「今日のお喋りにはなかったけどさ、梳きバサミというのを購入したいな。」
「はい、ご注文ですね。ねえダーリン、お支払いはどうするのが良いかしら、Bカード? Dペイ? Hポイント? Kキャッシュ?」
楽しみにしていた半月後の初・梳きバサミの日。
届いていて開封されて使用された商品は押し入れに仕舞われて、それは急遽バリカンの日に変わった。 五分刈りなんて小学生の時以来だな。




