第19章 前夜
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翌日。
午前の講義は退屈な部類だった。
演術史の教師がいつも通りの抑揚で年代を読み上げていく。
アルスはノートに目を落としながら、半分は別のことを考えていた。
隣の席でニーナが頬杖をついていた。
板書を写してはいるが手の動きは緩い。
おそらく、予習してきたのだろう。
教師の声が一段、低くなった。
少し机に伏せている生徒もいる。
アルスは小さく息を吸って、横にちょっとだけ顔を寄せた。
「ねえ」
ニーナが顔だけ動かす。目は黒板に向いている。
「なに?」
声を潜めている。
「……ニーナはこのあとどうするの」
ニーナの手が止まった。
ペン先がノートの上でわずかに迷う。
「このあとって?」
「学園、出るの? 残るの?」
ニーナはちょっと間を置いてから、ふっと笑った。
「残るに決まってるじゃない」
ニーナはペンを置いて、頬杖の角度を変えた。
「目的はノウス…あ、演術ね。それを学ぶことだもん」
ニーナの旅の理由はずっとそれだった。
最初に出会った時から、彼女ははっきり言っていた。
演術を極めたくて旅をしていると。
学園は彼女にとって絶好の学び場だ。
ここから先、ここで深めるのは当たり前だ。
驚きはなかった。
ただ、はっきり聞いてみると思っていたより少しだけ静かに胸に届いた。
「そうだよね」
ニーナは少し笑った。
それから、ペンを取り直した。
「アルスは?」
「学園長から次の目的地を勧められたよ。ミランヴェルって国だって」
「ふうん」
「建国の祭りがあるから参加できるようにしてくれるらしい」
「楽しそうね」
ニーナの言い方は本当に楽しそうだった。
教師がこちらを見た気がした。
二人は同時にノートに視線を戻した。
──────────
その日の昼。
食堂はいつも通りに賑わっていた。
例の豆中心の献立はまだ続いていた。
ユンが向かい合わせの席で皿の上の豆を黙々と片付けていた。
「これ、何日続くんだろうね」
「先週からだから、もう十日くらい?」
「干し豆の収穫が良かったらしいよ」
リアナが横の席で笑っている。
ニーナはスープに浸したパンを噛みながら、何でもない顔で食べていた。
(……普通だな)
アルスは思った。
ニーナが残ると聞いた直後だというのに、何も変わっていない。
でも、それでよかった。
変わるのはたぶん、もう少し先のことだった。
──────────
午後の講義のあと。
中庭の噴水のそばでリアナがアルスを見つけて手を振った。
「アルス、これ見て!」
リアナが広げてみせたノートのページの隅に彼女が描いたらしい小さなリアナの絵がある。
「講義中、暇だったから描いたんだ!」
(講義中なのだから暇なんてことはないと思うけど。)
「上手いね!でも講義中のニーナはこんなに笑顔じゃないよ。もっと…こうだよ!」
アルスは眉を寄せて難しい顔をした。
「あはは!」
リアナは目を丸くして、それからくしゃっと笑った。
その笑い方は初めて廊下で会った頃と比べると、ずっと明るかった。
リアナはノートを抱えて、寮の方へ走っていった。
アルスは少しの間、その背中を見送っていた。
数日がそんな風に過ぎていった。
講義。
食堂。
中庭。
特別なことは何もない。
リアナはいつも通りに笑い、ユンはいつも通りに本を読み、ニーナはいつも通りに講義に出ていた。
アルスは出発の支度が少しずつ進んでいた。
服を畳む。
本を選ぶ。
小さな荷物袋を広げて、また閉じる。
毎日、ほんの少しずつ。
──────────
そして、その夜。
長期休暇の前夜が来た。
学園は休暇に入る。
生徒のは故郷に戻ったり、寮に残ったり…。
教師たちも何人かは出ていく。
そして、アルスもこの学園を出る。
寮の自分の部屋。
荷物はすでに、扉の脇にまとめてあった。
机の上には何も残っていない。
アルスはベッドに腰を下ろし、それからゆっくり仰向けになった。
天井の木目がいつもと同じだった。
カーテンの隙間から、月の光が細く差し込んでいる。
(……明日)
明日、ここを出る。
学園長から書面を受け取って、門を出て、〈ミランヴェル〉に向かう。
門の外でヴァルドとジークさんが待っているはずだ。
(久しぶりだな、あの二人)
ヴァルドの低い声とジークさんの軽い笑い声を思い出した。
会いたい、と思う。
少し前まで毎日一緒にいたのに、不思議だった。
それから、ニーナの顔を思い出した。
(別れか)
ニーナはここで演術を深める。
ユンも、リアナもここで学ぶ。
僕は進む。
それぞれの「これから」がそれぞれの場所にある。
(……でも、また会いたいな)
そう、ストンと胸に落ちた。
寂しい、というのとは少し違った。
旅の途中の街でまた寄れるかもしれないし、ニーナがいつか学園を出たら、どこかですれ違うかもしれない。
ユンの落ち着いた声やリアナの明るい声をまた聞きたい。
そういう話をまた三人とできる日があればいい。
(うん、絶対また会おう)
そう決めると、少しだけ気持ちが軽くなった。
天井の木目を見ながら、アルスは目を閉じた。
明日のことを考えようとして、思い浮かんだのはなぜか中庭の噴水の音だった。
ぱしゃ、ぱしゃ、と、規則的な音。
あの音をまた聞きに来たいな、とアルスは思った。
そのときにはニーナもユンもリアナもまだここにいるかもしれないし、いないかもしれない。
それでも、来たいと思った。
(……寝よう)
寝返りを打って、目を閉じる。
カーテンの隙間の月明かりが頬に少しだけ触れていた。
明日には学園を出る。
その前の、最後の夜だった。




