第17章 夜はようやく終わって
エレオノールは机の向こうの椅子に腰を下ろした。
ノートはまだ机の上にある。
彼女はそれを開かなかった。
ただ、軽く指を添えていた。
「先に、結論からお話しします」
静かな声だった。
「あの子は人を殺すつもりはありませんでした」
アルスは顔を上げた。
「……え?」
「正確に言えば──」
エレオノールは少し言葉を選んだ。
「殺すつもりはなかった、と本人は信じていた、ということです」
意味がすぐには分からなかった。
エレオノールはノートに視線を落とす。
「彼が興味を持っていたのは臨界演術の発現でした」
「……発現」
アルスは聞き返した。
「ええ」
エレオノールは頷いた。
「臨界演術がどのようにして人に宿るのか。
どんな条件が揃ったときに発現するのか。
彼はそれを知りたがっていました」
──発現。
学園に張り巡らされた臨界演術ではなく、人に新たに宿る臨界演術の話。
それは確かに、未だ解き明かされていない領域だった。
「彼はこう仮説を立てていました」
エレオノールは静かに言った。
「臨界演術の発現には──精神状態や感情が関わっているのではないか」
アルスは眉をひそめた。
「精神状態と感情……」
「ええ」
「演術全般に言えることですが精神は演術と密接に関わります。
ならば、臨界演術の発現の引き金にも強い感情が絡んでいるのではないか」
「彼の仮説そのものは研究者の中にもある考えです」
エレオノールはゆっくりと続けた。
「ですが──彼はここから先で間違えました」
声にわずかな重さが乗った。
「最も感情が高まる瞬間はどこか。
彼はそれを死の際だと結論づけたのです」
アルスの息が止まった。
「死を覚悟した瞬間にこそ、臨界演術は発現するのではないか。ならば、その瞬間を人為的に作り出せばいい」
エレオノールはノートに視線を落とす。
「それが彼の実験でした」
「……でも」
アルスは声を絞り出した。
「死なせたら、意味がないんじゃ……」
「ええ」
エレオノールは頷いた。
「ですから、彼は学園の臨界演術を利用しました」
アルスの目が見開かれる。
「学園に張り巡らされた臨界演術が致命傷を防ぐ。
だから、追い詰めても相手は死なない。死の直前で止まる。その『止まる瞬間』に──新たな臨界演術が発現するのではないか。それが彼の仮説でした」
エレオノールは少しだけ目を伏せた。
「ノートにはこう書かれていました」
声がわずかに低くなる。
「『学園の臨界演術がなければ、この実験は出来なかった』」
アルスは息を呑んだ。
「彼の中にも線引きはありました」
エレオノールは静かに言った。
「人を殺してはいけない。その当たり前のことを彼は確かに分かっていました。
だから、学園の臨界演術がある場所でしか、実験はできなかった。
逆に言えば──学園の臨界演術があるからこそ、彼は実験ができたのです」
「彼にとって、学園の臨界演術は実験の安全装置」
アルスは唇を噛んだ。
「彼が用いたのは微弱な電流でした。
杖の先端からほんの少しだけ。
普段なら何も問題ない程度の、ごく小さなもの」
エレオノールは続けた。
「精神的に追い詰めた相手に最後の一押しをかける。学園の臨界演術がそれを止める。その瞬間に、新たな臨界演術が相手の中に芽生える──」
「彼の見立てではそういう手順でした」
エレオノールは初めてノートを軽く開いた。
中を読み上げるのではなく、ただ視線を落とすだけだった。
「しかし学園の臨界演術が作動しなかった」
部屋の中が静かになった。
アルスは机の上のノートを見つめていた。
何も書かれていないはずなのに、何かが書かれている気がした。
「……どうして」
声がかすれた。
「どうして、作動しなかったんですか」
エレオノールは少しだけ目を伏せた。
「いくつか、可能性があります。学園の臨界演術は自死などは弾きますが病気などには作用しません。なので脈や呼吸への影響と攻撃の──境界が曖昧なのです」
アルスはぎゅっと拳を握った。
エレオノールの声は静かだった。
「学園の臨界演術が完全だと、信じすぎていた」
──────────
「一人目が亡くなった時、彼は混乱したはずです」
エレオノールはノートに指先を添えたまま続けた。
「学園の臨界演術が止めるはずだった。それが止まらず、相手は死んだ」
「ノートにはこう記されていました」
エレオノールは静かに読み上げる調子で言った。
「『偶然かもしれない』『あの子には元から、何か病があったのかもしれない』『臨界演術の問題ではなく、たまたま体が耐えられなかったのではないか』」
アルスは目を閉じた。
(……そうやって)
そうやって、自分を納得させたのだ。
人が一人死んだことから、目を逸らすために。
「彼は二人目に進みました」
エレオノールの声は少し重くなっていた。
「同じ手順で同じように追い詰めて。
学園の臨界演術が止めるはずだ、とまた信じて…そして、二人目も──同じ結果でした」
部屋の中の空気がわずかに張りつめた。
エレオノールはノートをそっと閉じた。
「ここで彼の中の何かが外れたのだと思います」
声が低くなった。
「一人目は偶然と思いたかった。
二人目でそれが偶然ではなかったと、彼は気づかざるをえなかった。学園の臨界演術は彼の思っていたようには働いていない。
自分が殺している。
その事実が目の前にあった」
エレオノールは少し言葉を切った。
「普通の人間ならここで止まります。自首するか。誰かに相談するか。少なくとも、続けることはしない」
「でも、彼は──続けました」
アルスは顔を上げられなかった。
「『人を殺してはいけない』という線がこれ以上保てなくなった。
ならば──臨界演術の発現を見届けることのほうに意義を見出すしかない。そうやって、彼は自分を保ったのだと思います」
「そうして、臨界演術の発現に囚われていきました」
エレオノールの声は淡々としていた。
でも、そこには確かな悲しみがあった。
「もう、最初の彼ではなくなっていました」
アルスは机の上を見つめていた。
ノートの表紙の汚れ。
日に焼けた縁。
誰かがめくった、皺の跡。
(……一人目で立ち止まれなかった)
そのことの怖さがゆっくりと胸に染みていく。
普通の人間なら、一人目で立ち止まる。
偶然だと思い込んででも、続ける勇気はないはずだ。
でも、彼は続けた。
偶然だと、自分に言い聞かせて。
そして、二人目で──偶然ではなかったと知って。
(それでも、止まらなかった)
歪んでいる。
でも、最初から悪意があったわけではない。
怒りでも、恨みでもない。
ただ、知りたかった。
ただ、それを確かめたかった。
──そして、人が死んだ。
──死なせた、と分かった上で続けた。
「……あの子は」
アルスはようやく口を開いた。
「自分が人を殺してるって、最初から思ってたわけじゃ、ないんですよね」
エレオノールは少しの間、答えなかった。
それから、静かに言った。
「ええ。最初は──学園の臨界演術が守るはずだと、本当に信じていたのだと思います」
「だからこそ、人を殺すつもりはなかった、と本人は言うはずです」
「でも、二人目のあとは違います」
エレオノールの声は静かだった。
「自分が殺していると、彼は知ってしまっていた」
「知った上で続けた」
「そこは本人にも、ごまかせないでしょう」
アルスは何も言えなかった。
──────────
「あの子は──」
エレオノールはノートを静かに閉じた。
「学園の規律で然るべき処分を受けます」
「ご家族には連絡が行きました」
「ここから先、彼があなたたちの前に出ることはありません」
その言葉に、アルスは少しだけ息を吐いた。
ほっとしたわけではなかった。
ただ、胸の中で何かが一段、収まった気がした。
──────────
エレオノールは改めてアルスを見た。
「ここからは別の話を」
声が少しだけ柔らかくなった。
「アルス君」
「は、はい」
「あなたは止められたかもしれない、と思っていますね」
アルスの肩が跳ねた。
エレオノールは目を伏せた。
「昨夜の回廊であなたの顔を見れば分かります」
返す言葉が出なかった。
「先に言っておきます」
エレオノールはまっすぐにアルスを見た。
「あなたが何かを言ったとしても、結果は変わらなかった可能性が高いです」
「……」
「あの子の仮説はもっと前から組み上がっていました。
誰かに何か言われた程度で止まる類いのものではなかった」
「あなたが見たのは彼が誰かを追い詰めていた時間の、ごく一部です」
エレオノールはゆっくりと続けた。
「責任を子どもの肩に乗せたくはありません。
それは教師の役目です」
「私たちがもっと早く気づくべきでした」
その言葉はおそらく、彼女自身に向けても言われていた。
アルスは膝の上で手を握り直した。
「……でも」
声が少し震えた。
「僕、あの時、何かしてれば、って」
口にして、初めて気づいた。
そう思っていたのだ、自分は。
ずっと。
エレオノールは静かに頷いた。
「思って構いません」
「忘れろとは言いません。忘れるべきでもない、と私は思います」
「ですがそれを抱え続けるなら──次に活かしてください」
「次にあなたが誰かを見かけた時に、立ち止まれるように」
「それで十分です」
──────────
部屋の中にしばらく沈黙が流れた。
アルスは机を見つめていた。
エレオノールはそれを急かさなかった。
やがて、彼女は穏やかに言った。
「ところでアルス君」
声が少し柔らかくなった。
「学園を出たあとはこれからどうするおつもりですか」
アルスは顔を上げた。
少し考える。
「……まだ決まっていません」
正直なところだった。
ヴァルドさんと話し合うことになっているけれど、次にどこへ向かうかはまだ何も決めていない。
「そう」
エレオノールは小さく頷いた。
それから、少しだけ目を細めた。
「ならミランヴェルに行くといいでしょう」
「ミランヴェル、ですか?」
「ええ」
エレオノールはゆっくりと言った。
「ちょうど、近々、建国を祝う祭りがあります」
「国を挙げての行事ですから、見るだけでも、得るものがあるはずです」
アルスは少し目を見開いた。
(……祭り)
旅のあいだ、街の小さな祭りには何度か出くわした。
でも、国を挙げてのものとなるとまた違うのだろう。
──────────
「それと──」
エレオノールは机の引き出しから一枚の書面を出した。
封がされている、丁寧な作りのものだった。
「これは感謝のしるしです」
「あの祭りには招待状を持つ者しか入れない場所がいくつかあります。国の大事な区画や、行事の中心となる場」
「あなたたちが行くなら──そこに参加できるようにしておきます」
アルスは目を瞬かせた。
「え、いいんですか? そんな……」
「私から話を通せます」
エレオノールはあっさりと言った。
「学園長の名前はこういう時に使うためにあるのです」
その言い方がどこか軽くて、アルスはまた少し笑ってしまった。
「ありがとうございます」
書面はまだアルスの手には渡されなかった。
机の上に置かれたまま、エレオノールの指がそっと添えられている。
「正式なものは出発の前にお渡しします」
「今日は口約束ということで」
──進む先がある。
そのことが今は何よりありがたかった。
──────────
話が一区切りついたところでエレオノールが姿勢を戻した。
「最後に──」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
「改めて、ありがとう」
「事件のことは本当にあなたたちのおかげで終わりました」
アルスは慌てて手を振った。
「い、いえ、そんな、僕は別に……」
「謙遜はいりません」
エレオノールは静かに言った。
「あなたたちが動かなければ、犠牲はまだ増えていたかもしれません」
エレオノールはそう言って、もう一度、軽く頭を下げた。
アルスは何と返していいか分からなかった。
ただ、座ったまま、小さく頭を下げ返した。
朝の光が机の上のノートの端を照らしていた。
夜はようやく終わっていた。




