第16章 フードの下
エレオノールが頭を上げる。
回廊の灯りはまだ揺れていた。
倒れた影は壁際で動かない。
胸がゆっくり上下しているだけ。
気を失ったままだ。
「……顔を確かめなければなりませんね」
エレオノールは静かに言った。
ニーナが小さく頷く。
ユンも、少しだけ硬い顔のまま頷いた。
アルスは何も言えなかった。
(誰なんだろう)
何度も考えたはずなのに、いざこの瞬間が来ると頭がうまく回らない。
足が動かなかった。
ユンが一歩前に出た。
「…いくよ」
低く、抑えた声だった。
ニーナがちらりとユンを見る。
ユンはそれだけ言って、ゆっくりと影に近づいた。
膝をつき、フードに手をかける。
布の縁を指でつまむ。
一瞬、止まった。
ユンも緊張しているのだ。
それが、アルスにも分かった。
ユンがゆっくりと布を引き下ろした。
灯りの下に、顔が現れる。
少年だった。
見た目は自分たちと同じくらいの歳。
痩せた頬。
気を失っているせいで、口元が少し開いている。
汗で濡れた前髪が額に張りついていた。
ニーナが息を呑んだ。
「……あ」
短い声だった。
ユンの眉がわずかに動く。
「……見たことある」
ニーナが小さく言う。
「食堂で見かけたことがある気がする……」
ユンも頷いた。
「僕もだ。同じ学年じゃないが、回廊ですれ違っている。だが、名前は分からない」
二人の声には戸惑いがあった。
知らない人ではない。
でも、知っている人でもない。
そんな、宙ぶらりんの距離。
その時。
アルスが動かなくなっていた。
ニーナが振り向く。
「アルス?」
返事がない。
アルスは少年の顔をじっと見つめたまま、立ち尽くしていた。
口が半分開いている。
息を止めているわけではない。
ただ、上手に呼吸ができていない。
(……あいつだ)
その確信が頭の奥でゆっくり広がっていた。
寮の裏手の通路。
低い声。
押し殺した笑い。
「まだ、できないのか」
「何回やっても同じだな」
床に座り込んでいた生徒。
震えていた肩。
それを囲んでいた数人のうちの一人。
(……顔、覚えてる)
正面から見たわけじゃない。
横顔をほんの数秒見ただけだった。
それでも、間違いなかった。
胸の奥が冷たくなる。
(あの時の、いじめてた側)
その人間が今、目の前で倒れている。
杖を持って。
ニーナを狙って。
「アルス」
ニーナの声が少し遠くに聞こえた。
「ねえ、大丈夫?」
アルスは唇を動かそうとした。
うまく言葉にならなかった。
「……知ってる」
ようやく出たのは、それだけだった。
ニーナとユンが顔を見合わせる。
エレオノールは何も言わず、ただ三人を見ていた。
そのあとのことをアルスはあまりよく覚えていない。
教師たちが回廊の奥から駆けつけてきた。
少年は運ばれていった。
エレオノールは三人に「今夜はもう休みなさい」とだけ言った。
ニーナとユンに肩を支えられるようにして、アルスは寮へ戻された。
部屋に着いて、扉が閉まったところまでは覚えている。
そのあと、いつ眠ったのかは分からない。
──────────
翌日。
朝の光が窓から斜めに差し込んでいた。
アルスは机の前に座って、しばらくぼんやりしていた。
頭の中はまだ昨夜の灯りの色をしている。
扉が叩かれたのは朝食の少し前だった。
「アルス君」
教師の声だった。
「学園長が呼んでいます」
──────────
学園長室の扉の前に立つのは二度目だった。
最初に来た時より、扉は少しだけ重く見えた。
アルスは小さく息を吐いてから、ノックをした。
「お入りなさい」
中から聞き慣れた声が返ってきた。
部屋の中は朝の光で満ちていた。
机の向こうにエレオノールが立っている。
昨夜と同じ、静かな佇まいだった。
「おはようございます」
エレオノールは穏やかに言った。
「座ってください」
アルスは椅子に腰を下ろす。
膝の上で手を握ったり、開いたりしていた。
エレオノールはそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
「は、はい……」
「ニーナさんとユン君は、後で別に呼びます」
その言葉に、アルスは少し顔を上げた。
「……僕だけ、先?」
エレオノールは頷いた。
「あなたが一番、考え込んでいた顔をしていましたから」
アルスは何も言えなかった。
エレオノールは机の端に一冊のノートを置いた。
少し汚れた、薄いノートだった。
「あの子の部屋から見つかりました」
静かな声だった。
「彼が何を考えていたのか。書かれていることがすべてではないでしょう。
でも──ある程度は読み取れます」
アルスはノートを見つめた。
開く勇気はまだない。
エレオノールはそれ以上、ノートを差し出さなかった。
ただ、机に置いたままにしていた。
そして、静かに言った。
「少し、お話ししましょうか」




