第15章 規律の奥にあるもの
回廊に静寂が落ちた。
灯りの下で学園長は影をまっすぐに見据えていた。
影は杖を握ったまま、震える指先を制御できずにいる。
「……学園長!」
アルスが思わず声を上げた。
その声で影の肩がびくりと跳ねる。
固まっていた体に再び動きが戻った。
──逃げる気だ。
アルスは咄嗟に身構えた。
ユンも壁から離れ、前に出ようとする。
ニーナが息を呑む。
影は身を翻し、回廊の脇道へ走り出そうとした。
その瞬間。
「お待ちなさい」
エレオノールの声が廊下に響いた。
低く、無駄のない声。
怒鳴っているわけではない。
ただ、はっきりと届く声だった。
それでも影は止まらなかった。
足音が回廊に響く。
エレオノールはわずかに目を伏せ、それから静かに口を開いた。
「ご存じですか」
足音がほんの一瞬だけ鈍る。
「学園の長は──ここの臨界演術を無効化することができます」
影の足が止まった。
ニーナの目が見開かれる。
ユンの眉がわずかに動く。
エレオノールは淡々と続ける。
「学園を編んだ三人の演術。
その仕組みに最も近い場所に立つのが学園長です」
声に揺らぎはない。
「あなたの背中の印は私の前では機能しません」
回廊の空気が変わった。
影の肩が大きく上下する。
息が荒い。
迷っている。
(……本当に?)
アルスの背中にも冷たいものが流れた。
そんな話は聞いたことがない。
ユンですら、予想もしていない発言に驚いていた。
それでもエレオノールの声には一切の揺らぎがない。
「賢明な選択を」
影は数秒、立ち尽くしていた。
そして──
地を蹴った。
ニーナが息を呑む。
影は逆方向の回廊へまっすぐ走り出した。
エレオノールの表情は変わらなかった。
ただ、杖を握る右手をわずかに上げる。
それだけだった。
杖の先に、小さな光が灯る。
拳ひとつ分ほどの、白い光。
ふっ、と。
息を吐くように光が放たれた。
軌道はまっすぐ。
速度は見えないほど。
──ドンッ。
鈍い音。
影の体が回廊の壁に叩きつけられた。
そのまま、ずるりと崩れ落ちる。
杖が床を転がる音。
それから──静寂。
「……!!」
ニーナが言葉を失った。
ユンも目を見開いたまま動けない。
アルスは恐る恐る、倒れた影に駆け寄った。
フードをめくる勇気はまだない。
ただ、呼吸を確認する。
「……息、ある」
「死にはしません」
エレオノールは静かに言った。
「臨界演術は正常に作動しています。学園長にそんな権限はないです。気を失っているだけ」
ユンがようやく口を開いた。
「……今のは、なんですか」
その声はいつものユンらしくなかった。
わずかに震えている。
「演術にあんなものは……」
ニーナも続けた。
「ない、はず……」
二人の知識の中に答えはなかった。
講義で習った形のどれにも当てはまらない。
詠唱もない。
発動の予兆も、ほとんどなかった。
エレオノールはふっと微笑んだ。
それは初めて見る種類の笑みだった。
学園長室で見たような、規律の笑みではない。
もう少し、柔らかい。
「これはまだ早いですね」
それだけ言って、彼女は手を下ろした。
「いずれ知る日が来ます。
今はそれで構いません」
説明はない。
押し通すつもりもない。
ただ、そう告げるだけだった。
アルスは口を開きかけて、閉じた。
(……これが学園長なんだ)
規律の人。
そう思っていた。
でも今、回廊に立つ彼女はそれだけではなかった。
──────────
エレオノールはゆっくりと三人の前まで歩いてきた。
足音はやはり静かだった。
「感謝します」
短い言葉だった。
三人はすぐには反応できなかった。
「……え?」
ニーナが戸惑った声を出す。
エレオノールは三人を見渡し、続けた。
「事件のことは教師たちも追っていました」
声にわずかな疲れが滲む。
「ですが、ターゲットを絞ることができなかった」
ユンが顔を上げる。
「不甲斐ないことに」
エレオノールは少し目を伏せた。
「この学園には不安定な子が少なくありません」
その言葉にアルスはリアナの顔を思い出した。
笑顔の奥の、目の動き。
夜あまり寝ていないと、ユンが言っていたこと。
「誰が次に狙われるのか。誰が削られているのか。絞り込むには教師の目だけでは足りなかったのです」
エレオノールはゆっくりと顔を上げた。
「ですが、あなたたち三人が動いていることには気づいていました」
ニーナの肩がわずかに跳ねる。
「気づいていたんですか……」
「中庭で何度も話し込んでいましたね。聞き込みに回っていたことも」
淡々とした口調だった。
責めるわけでも、咎めるわけでもない。
「だから、気にかけていました」
その言葉にアルスは少し息を呑んだ。
(見られてた)
でも、止められもしなかった。
邪魔もされなかった。
「あなたたちが囮を立てたことには最後まで気づけませんでした」
エレオノールは初めて少し申し訳なさそうな顔をした。
「ですから──回廊を見回っていなければ、ここに間に合っていなかった」
そして、もう一度言った。
「本当に、感謝します」
今度ははっきりと頭を下げた。
学園長が生徒に。
ニーナが慌てて手を振る。
「い、いえ、そんな……」
ユンも視線を落とした。
「……自分たちが勝手にやったことです」
アルスは少しだけ笑った。
「捕まえたのは学園長ですし」
エレオノールは顔を上げ、ふっと笑った。
「いいえ」
倒れた影に視線を落とす。
「あなたたちがここまで追い込んでくれたから。
ただ、それだけです」
回廊の灯りがわずかに揺れた。
夜はまだ終わらない。
フードの下の顔はまだ誰にも見えていなかった。




