第14章 辿り着いた先で
夜は静かに更けていった。
寮の灯りがひとつずつ消えていく。
廊下を見回る教師の足音も、もう聞こえない。
ニーナの部屋。
ベッドの上でニーナは目を閉じていた。
呼吸はゆっくり。
規則的。
眠っているふりには慣れていた。
もうこの生活が3日目だからだ。
ただ、今日は少しだけ違う。
心臓の音が自分でもはっきり聞こえる。
ニーナは小さく息を吸う。
机の上にはわざと開いたノート。
床には丸めて捨てた紙。
枕元には杖。
生活感を意識して作ってある。
弱っている。
無防備。
ひとり。
そう見えるように。
──────────
クローゼットの中。
ユンは膝を抱えた状態で身を潜めていた。
服の隙間からわずかに部屋の様子が見える。
扉の方向。
ニーナのベッド。
(……狭い)
体格的にぎりぎりだった。
しまわれていた布が顔に当たる。
膝が痛む。
(長丁場になったらきびしいな)
呼吸を整える。
──────────
ベッドの下。
アルスは床とベッド床板の間で息を殺していた。
埃の匂い。
冷たい木。
頬が床にぴったりついている。
体勢が悪い。
腰が痛い。
首も回せない。
(動いたら音出ちゃう……)
そう思っていると、ニーナがベッドの上で寝返りを打った。
ぎっ、と床板が鳴る。
アルスの目の前までマットレスがに沈んだ。
──────────
時間がゆっくり流れた。
一刻。
二刻。
何も起きない。
クローゼットの中でユンの足が痺れ始めていた。
(今日も来ないか)
ベッドの下でアルスは肩をなんとか動かそうとしていた。
(これ、1回作戦を練り直そう……)
ニーナだけが本当に眠ってしまいそうだった。
──────────
その時。
廊下の奥で、
カツン。
小さな音がした。
ベッドの上でニーナのまつげがわずかに震えた。
(来た!)
呼吸を整え直す。
眠っている呼吸に。
クローゼットの中でユンの目が動く。
(来た)
ベッドの下でアルスも気配を感じた。
(……来たか?)
足音が近づいてくる。
ゆっくり。
迷いなく。
何度も繰り返された動きだった。
──────────
ニーナの部屋の扉の前で影が止まった。
数秒、間がある。
中の気配を探っているのだろう。
ニーナは目を閉じたまま、呼吸を整え続ける。
(ゆっくり……眠ってる人の呼吸……)
ドアノブが静かに回った。
カチリ。
鍵が開けられた。
扉が音もなく開く。
冷えた廊下の空気が、ほんの少しだけ流れ込む。
足音は本当に小さい。
机の横で一度止まる。
何かを取り出している気配。
カチャ、と小さな金属の音。
杖だ。
──────────
クローゼットの中でユンは目だけ動かした。
服の隙間から、影の背中が見える。
細い体。
低めの背丈。
(……生徒か)
──────────
ベッドの下でアルスは床に頬をつけたまま、影の足だけを見ていた。
靴。
ズボンの裾。
ゆっくりとベッドの方へ近づいてくる。
(ニーナの近くまで来たら……)
打ち合わせ通り。
影が枕元に立ったところで両側から挟む。
アルスは唇を噛みしめた。
──────────
影はニーナの枕元に立った。
杖を持ち上げる。
先端の小さな結晶が、薄く光った。
杖の先をニーナの首元に向ける。
その時。
──────────
「動くな」
低い声。
クローゼットの扉が開く。
ユンが踏み出した。
同時に、ベッドの下からアルスが転がり出る。
──ガンッ。
「いっ……!」
アルスはベッドの縁に頭をぶつけた。
涙が滲む。
それでも立ち上がる。
影は完全に挟まれていた。
前にユン、後ろにアルス。
ニーナはベッドの上で目を開けている。
「捕まえた」
ニーナがはっきり言った。
──────────
影は固まっていた。
杖を持ったまま、視線が泳ぐ。
フードの下で、息が荒い。
「逃げ場はないよ」
アルスが頭をさすりながら言う。
「杖、置きなよ」
その時。
影が動いた。
予想と、違う方向に。
ニーナでもアルスでもない。
──ユン。
まっすぐ、ユンに突っ込んだ。
「!」
ユンは身構えたが影の動きは速かった。
迷いがない。
というより。
(必死だ)
ユンがそう感じた瞬間にはもう肩から体当たりされていた。
ガンッ。
ユンの背中が壁に叩きつけられる。
「ユン!」
ニーナが叫ぶ。
ユンは咄嗟に影の腕をつかもうとした。
でも。
(力が、強い)
細い体のはずなのに押し返せない。
ユンの足がずるりと滑る。
「く……っ!」
影はそのままユンを突き飛ばし、扉へ走った。
──────────
「待って!」
アルスが追いかける。
ベッドの脇に置いてあった椅子に、
(……あ)
足を引っかけた。
ガランッ。
「うわっ!?」
派手に転ぶ。
ニーナが叫ぶ。
「アルス、なにやってるのよ!」
「ご、ごめん!」
その間に影は廊下に飛び出していた。
──────────
ニーナが先に走り出す。
「逃がさないわよ!」
杖を握ったまま、廊下へ。
ユンが壁に手をついて立ち上がる。
「……行こう」
息が乱れている。
肩を打ったらしい。
アルスは床から起き上がりながら、走り出した。
──────────
廊下の灯りはほとんど落ちている。
遠くで影の足音が聞こえる。
予想以上に速い。
「こっちよ!」
ニーナの声を頼りに、2人は走る。
階段。
踊り場。
また廊下。
走りながら、アルスは考えていた。
(外には出られない)
学園の仕組みは入った者を出さない。
それは生徒なら、誰よりも知っている。
(だから……)
逃げる目的はただひとつ。
“顔を見られない”こと。
フードの下を見られなければ、
明日もまた、
ただの生徒として、
学園の中に紛れていられる。
アルスは走りながら、唇を噛んだ。
それが分かるからこそ、
(絶対に追いつかなきゃ)
──────────
寮を抜け、中庭に出た。
夜の中庭は広く、暗い。
噴水の音だけがいつもと同じように響いている。
影はまっすぐ走っていた。
学園の正門ではなく、
裏手の方へ。
「あっち、回廊が入り組んでる!」
ニーナが息を切らしながら言う。
「巻く気よ!」
アルスも分かっていた。
裏手の通路は植え込みと回廊が複雑に絡み合っている。
灯りも少ない。
手の回廊に飛び込む。
影は何度も角を曲がった。
一度。
二度。
灯りの届かない通路では姿が一瞬で見えなくなる。
「見失いそう……!」
ニーナが叫ぶ。
ユンが息を切らせながら言う。
「右だ!」
三人は右へ走る。
回廊の柱と柱の間を影のように駆け抜ける。
その先でまた分かれ道。
アルスが立ち止まりかけた。
その時、左の角の奥で、
カツン。
小さな音がした。
「左!」
ニーナが先に走り出す。
角を曲がる。
その瞬間。
三人の足が揃って止まった。
回廊の真ん中に影が立ちすくんでいた。
走っていない。
逃げていない。
ただ、立っている。
肩はわずかに震えていた。
杖を持つ手が力なく下がっていく。
(……なんで、止まってる?)
アルスは息を呑んだ。
その視線が影の先へ流れる。
回廊の奥。
灯りの下。
そこにひとりの女性が立っていた。
背筋がまっすぐ伸びている。
無駄のない佇まい。
夜の回廊にいるのに、
まるで、
最初からそこに居たかのような、自然さ。
「……学園長」
ニーナが小さく呟いた。
エレオノール・ローゼンフェルト。
学園長は影に視線を据えたまま、ゆっくりと一歩、前に出た。
それだけのことだった。
ただ、それだけのことなのに、
影は一歩も動けない。
走り続けてきた、あの足が、
完全に、止まっていた。




