第76話「冷めたスープ」
「冷めちゃいましたね」
夕方の喫茶リセット。
窓際の席で、若い女性が目の前のコーヒーを見つめていた。
まだ半分以上残っている。
けれど、ほとんど手をつけていない。
「飲みませんか?」
マスターが尋ねる。
「飲みたいんですけど……」
女性は苦笑した。
「なんとなく、今じゃない気がして」
マスターはカップを下げようとはしなかった。
「冷めたら、温め直せますよ」
「……そうですね」
女性はカップに両手を添えた。
「私、ずっとそう思ってたんです」
「何を?」
「いつか、また温かくなるって」
女性は窓の外を見た。
「友達のことなんです」
大学時代から仲の良かった友人。
何でも話せる相手だった。
卒業してからも、時々会っていた。
けれど、ある日、小さなことで喧嘩をした。
どちらも謝らないまま時間が過ぎた。
「最初は、そのうち連絡が来ると思ってました」
一週間。
一か月。
半年。
気づけば、二年が過ぎていた。
「この前、偶然会ったんです」
駅のホームだった。
声をかけようと思った。
けれど、結局できなかった。
「今さら何を話せばいいのか分からなくて」
女性は少し笑った。
「だから、もう冷めちゃったのかなって」
マスターは、しばらく黙っていた。
そしてカップを手に取った。
「少し温めましょうか」
「お願いします」
マスターはコーヒーを温め直した。
湯気が、もう一度立ち始める。
女性はその様子を見ながら言った。
「……人の気持ちも、温め直せるんでしょうか」
「分かりません」
マスターは正直に答えた。
「相手の気持ちは、こちらでは温められませんから」
女性は頷いた。
「ですよね」
「でも」
マスターはカップを彼女の前に戻した。
「自分の気持ちなら、確かめることはできます」
女性はカップを両手で包んだ。
「私、まだ怒ってるのかな」
「どうでしょう」
「寂しいのかな」
「それも、分かりません」
「会いたいのかな」
マスターは微笑んだ。
「それは、ご自分にしか分かりません」
女性は目を閉じた。
しばらくして、静かに息を吐いた。
「……会いたいです」
それは、とても小さな声だった。
けれど、自分自身には十分聞こえた。
「仲直りできるかは分からないけど」
女性はスマートフォンを取り出した。
「一度だけ、連絡してみます」
画面を開く。
名前を探す指が、少し震えている。
そして、短い文章を打った。
送信ボタンを押す前に、女性はマスターを見た。
「もし返事が来なかったら?」
「そのときは、そのときです」
「冷めたままかもしれませんね」
「そうかもしれません」
マスターは穏やかに答えた。
「でも、冷めたものを一度温めてみることはできます」
女性は少し笑った。
そして、送信した。
「……送っちゃいました」
「はい」
「怖いです」
「そうでしょうね」
「でも、少しだけすっきりしました」
女性はコーヒーを飲んだ。
今度は、ちゃんと温かかった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
スマートフォンには、まだ返事がない。
それでも女性は、何度も画面を確認することなく歩き始めた。
返事が来るかどうかは、自分では決められない。
けれど、
言えなかったことを言うかどうかは、
自分で決められる。
喫茶リセットの店内では、マスターが空になったカップを片付けていた。
冷めたコーヒーを温め直すことはできる。
けれど、同じ温度に戻るとは限らない。
それでも。
一度冷めたからといって、
もう温まらないとは限らない。
そんなことを、
夜の静かな店内で、
湯気だけが知っているようだった。




