第75話「消しゴムの角」
「これ、まだ使えると思いますか?」
カウンターの前に座った青年が、小さな消しゴムを差し出した。
かなり使い込まれている。
四角かったはずの角は丸くなり、表面には鉛筆の跡がいくつも残っていた。
マスターはそれを手に取った。
「まだ使えますね」
「ですよね」
青年は少し安心したように笑った。
「でも、もう捨てようかと思っていて」
「どうしてです?」
「新しいの、買ったんです」
青年は鞄から新品の消しゴムを取り出した。
白くて、角がきれいに立っている。
「こっちのほうが消しやすいし」
「では、古いほうは必要ありませんね」
「……そうなんですけど」
青年は古い消しゴムを見つめた。
「捨てられなくて」
マスターは何も言わなかった。
青年はコーヒーを一口飲んだ。
「これ、高校のときから使ってるんです」
「長いですね」
「受験のときも使いました」
大学に合格した。
そのときも、この消しゴムがあった。
大学を卒業して、就職した。
仕事で資格試験を受けたときにも使った。
「なんか……こいつと一緒に頑張ってきた気がして」
そう言って、青年は照れくさそうに笑った。
「でも最近、仕事がうまくいかなくて」
そこで、笑顔が消えた。
「ミスばっかりで。先輩にも注意されて」
新しい資格を取ろうと思って勉強を始めた。
けれど、何度やっても間違える。
問題集には消し跡ばかりが増えていった。
「だから、新しい消しゴムに替えたんです」
青年は新品の消しゴムを見る。
「今度こそ、最初からやり直そうと思って」
マスターは古い消しゴムをテーブルに置いた。
「最初から?」
「はい」
「では、この消しゴムも捨てますか」
青年は黙った。
しばらくして、小さく首を横に振った。
「……捨てたくないです」
「なら、捨てなくてもいいでしょう」
「でも、もう古いですよ」
「古いことと、役に立たないことは同じではありません」
青年は消しゴムを見た。
丸くなった角。
何度も使った跡。
何度も間違いを消してきた跡。
「これって……」
青年が呟いた。
「失敗した証拠でもあるけど」
「ええ」
「失敗しても、また書き直してきた証拠でもあるんですね」
マスターは微笑んだ。
「そういう見方もできますね」
青年はしばらく黙っていた。
そして、新品の消しゴムを鞄にしまった。
古い消しゴムは、ポケットに入れた。
「新しいのも使います」
「それがいいでしょう」
「でも、古いのも捨てません」
青年は立ち上がった。
「なんだか、こいつを捨てたら、今まで頑張ってきた自分まで捨てるような気がして」
マスターは頷いた。
「それなら、持っていてください」
青年は店を出た。
ドアベルが鳴る。
夕方の街へ向かって歩きながら、青年はポケットの中の消しゴムに触れた。
角は、もうほとんどない。
それでも。
何度でも書き直すためには、十分だった。
喫茶リセットの窓辺では、午後の光がゆっくり傾いている。
マスターはカウンターを拭きながら、ふと呟いた。
「消すためだけに、使われてきたわけではないんですよね」
消しゴムには、消した跡しか残らない。
けれど、その跡の向こうには、
何度も書き直した時間がある。
そして人もまた。
間違いを消しながら、
少しずつ、自分の続きを書いていく。




