第74話「小さな忘れ物」
夕方の喫茶リセット。
窓の外を、買い物帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、二十代くらいの女性だった。
「……あの」
「はい」
「ここに、忘れ物をしたかもしれなくて」
マスターは店内を見渡した。
「何をお忘れになりましたか?」
「分からないんです」
「……?」
女性は困ったように笑った。
「だから、探しに来たんです」
少し不思議な話だった。
女性は店内を見回し、空いている席を一つずつ確認する。
テーブルの下。
椅子の脇。
カウンターの端。
けれど、何も見つからない。
「おかしいな……」
「以前、こちらへ?」
「はい。一度だけ」
「いつ頃でしょう」
「たぶん、半年前くらいです」
女性は窓際の席に座った。
「その時、すごく落ち込んでいたんです」
「そうでしたか」
「仕事を辞めようか迷っていて」
マスターは何も言わず、メニューを差し出した。
「今日は何を?」
「……コーヒーをお願いします」
コーヒーを淹れる間、女性は店内を眺めていた。
「前に来た時、ここで話を聞いてもらったんです」
「何を話されたか、覚えていますか?」
「それが……」
女性は首を傾げる。
「ほとんど覚えてないんです」
コーヒーが置かれる。
「ただ、帰る時に」
カップから立つ湯気を見ながら続ける。
「少しだけ、頑張ってみようって思ったことは覚えています」
「そうですか」
「結局、仕事は辞めませんでした」
女性は笑った。
「辞める代わりに、部署を変えてもらったんです」
「それは、よかったですね」
「はい」
一口飲む。
「今は、前より楽しく働けています」
そこで、女性はまた店内を見回した。
「だから、何か忘れてきた気がして」
「何か、ですか」
「前にここへ来た時の……」
言葉を探す。
「勇気とか」
マスターは静かに微笑んだ。
「勇気は、置いていくものではありません」
「え?」
「使ったあとも、ご本人の中に残っています」
女性は目を瞬いた。
「……そうなのかな」
「今のあなたが、ここまで来たことも」
女性はしばらく黙っていた。
そして、自分の手を見つめる。
「じゃあ、忘れ物はなかったんですね」
「ええ」
「全部、持って帰ってた」
「はい」
女性は、ふっと笑った。
「なんだ」
肩の力が抜ける。
「私、ちゃんと自分で進んでたんだ」
コーヒーをもう一口。
今度は、ゆっくり味わうように飲んだ。
「じゃあ、今日は何も忘れずに帰ります」
「それがよろしいかと」
女性は会計を済ませ、ドアへ向かう。
そして、振り返った。
「あの時の私に、伝えてあげたいです」
「何と?」
「大丈夫だったよ、って」
マスターは静かに頷いた。
「きっと、届きます」
女性は笑って、店を出ていった。
ドアベルの音が、静かに響く。
喫茶リセットには、時々、忘れ物を探しに来る人がいる。
けれど本当は、
探していたものを、ずっと自分で持っていた。
そんなことに気づいて、帰っていく人もいる。




