第73話「空席の予約」
昼下がりの喫茶リセット。
窓から差し込む光が、テーブルの上に四角い模様を作っていた。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、五十代ほどの男性だった。
「いらっしゃいませ」
「……予約していたんですが」
マスターは店内を見渡す。
「ご予約のお名前は?」
男性は少しだけ黙った。
「……一人です」
「かしこまりました」
男性は窓際の二人席に座った。
「コーヒーを二つ」
「……二つ、ですね」
「はい」
マスターは何も聞かず、二杯のコーヒーを淹れた。
一つを男性の前へ。
もう一つを、向かいの空席へ。
男性は、そのカップをじっと見つめた。
「ここ、昔よく来ていたんです」
「そうですか」
「妻と」
それだけ言って、黙った。
コーヒーの湯気が二つ、静かに立ち上る。
「妻が亡くなって、三年になります」
男性はカップに手を伸ばさない。
「最初の一年は、忙しくしていました」
「はい」
「二年目は、少し落ち着いて」
そして三年目。
「今日、初めてここへ来ました」
「……」
「本当は、もっと早く来たかった」
向かいの席を見る。
「でも、一人で座るのが怖くて」
男性は苦笑した。
「ここに来たら、いないことが分かってしまう気がして」
マスターは静かに答える。
「今日は、二つあります」
「はい」
「一人で来たことには、変わりません」
男性は頷いた。
「でも」
マスターは続ける。
「思い出と一緒に座ることは、できます」
男性は、向かいのカップを見た。
少しだけ湯気が薄くなっている。
「……あの人、いつも砂糖を二つ入れてたんです」
「そうですか」
「甘すぎるって言うと、
『疲れてるからいいの』って」
男性が笑った。
ほんの一瞬だけ。
「今日は、二つ入れてみようかな」
「どうぞ」
男性は砂糖を二つ取り、向かいのカップに入れた。
そして、自分のカップにも一つ。
「……久しぶりだな」
ゆっくり飲む。
「甘い」
目元を指で拭う。
「でも、悪くない」
しばらく二人席には、静かな時間が流れた。
やがて男性は、向かいのカップを見つめる。
「今日は、予約を一人分に変えます」
「はい」
「次からは、ちゃんと一人で来ます」
「お待ちしています」
男性は、二杯目のコーヒーを少しだけ飲んだ。
そして席を立つ。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
男性が店を出る。
向かいの席には、空になったカップだけが残っていた。
喫茶リセットでは、
空席は、必ずしも「いない」という意味ではない。
そこには時々、
大切な誰かとの時間が、
静かに座っている。




