第72話「雨上がりの傘」
雨が降っていた。
昼過ぎから降り続いていた雨は、夕方になっても止む気配がない。
喫茶リセットのドアが開く。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、二十代後半ほどの男性だった。
髪も肩も濡れている。
「……すみません。タオル、ありますか?」
「もちろん」
マスターがタオルを渡す。
「ありがとうございます」
男性は頭を拭きながら、窓際の席に座った。
「コーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
注文を受けてから、マスターはカウンターの奥へ戻る。
男性は、窓の外を眺めていた。
その足元には、一本の黒い傘。
ただ、骨が一本曲がっている。
「壊れましたね」
マスターがコーヒーを運びながら言った。
「ああ……」
男性は傘を見る。
「途中で風が強くなって」
苦笑する。
「もう十年くらい使ってるんです」
「長いですね」
「父親にもらったんです」
男性の手が、傘の柄に触れた。
「大学に入ったときに」
「そうですか」
「『雨の日は、ちゃんと傘を持て』って」
少し笑う。
「子ども扱いされてるみたいで、
当時は嫌だったんですけど」
コーヒーを一口。
「結局、ずっと使ってました」
雨音が店内に響く。
「去年、父が亡くなって」
男性の声が少し小さくなる。
「それから、余計に捨てられなくなって」
「はい」
「骨が曲がっても、布が破れても」
傘を見る。
「直せばまだ使えるって思って」
マスターは静かに尋ねた。
「今日も、直しますか?」
男性は答えなかった。
窓の外を見る。
雨が少しずつ弱くなっていた。
「……どうしようかな」
しばらくして、男性は傘を手に取った。
曲がった骨を、そっと撫でる。
「これ、十分働いてくれましたよね」
「ええ」
「だったら」
男性は小さく笑った。
「もう、休ませてもいいかな」
「はい」
店内に、雨音だけが残る。
やがて雨が止んだ。
男性は窓の外を見る。
「雨、上がりましたね」
「ええ」
傘を閉じる。
そして、しばらく考えたあと、傘を店の壁に立てかけた。
「今日は、これを持って帰らないことにします」
「よろしいのですか?」
「はい」
男性は笑った。
「父からもらったものを捨てるんじゃなくて」
少しだけ言葉を探す。
「父からもらった時間を、
ちゃんと使い終える感じがします」
マスターは何も言わず、頷いた。
「次は、自分で傘を買います」
「どんな傘を?」
「……まだ決めてません」
男性は立ち上がった。
「でも、今度は自分で選びます」
ドアを開ける。
外には、雨上がりの道。
男性は傘を差さずに歩き出した。
数歩進んでから、一度だけ振り返る。
店の壁には、古い黒い傘が静かに立っている。
喫茶リセットでは、
大切なものを手放すことは、
忘れることではない。
長い間、自分を守ってくれたものに、
「もう大丈夫」と伝えることなのかもしれない。




