第71話「空っぽの弁当箱」
昼を少し過ぎた頃。
喫茶リセットのドアベルが、静かに鳴った。
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
「いらっしゃいませ」
「……何か、軽いものはありますか?」
「サンドイッチでしたら」
「じゃあ、それとコーヒーを」
女性は窓際の席に座った。
バッグを椅子の隣に置くと、しばらくぼんやり窓の外を眺めていた。
やがて、小さく息を吐く。
「空っぽなんです」
「お腹が、ですか?」
「……はい。でも、それだけじゃなくて」
マスターは何も言わず、サンドイッチを皿に盛った。
しばらくして、コーヒーと一緒にテーブルへ運ぶ。
女性はサンドイッチを一つ手に取った。
「最近、お弁当を作らなくなったんです」
「そうですか」
「子どもが家を出て」
その言葉に、少しだけ笑う。
「毎朝、二つ作っていたんです。自分のと、あの子の」
「はい」
「卵焼きが好きだったので、必ず入れて」
女性はコーヒーを一口飲んだ。
「卒業して、一人暮らしを始めて」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
けれど、その声には少し寂しさが混じっていた。
「それから、朝起きても作るものがないんです」
女性は、サンドイッチを見つめた。
「お弁当箱を洗うこともなくなって」
「……」
「最初は楽だと思ったんですよ」
少し笑う。
「でも、台所が静かになって」
沈黙。
「私、あの子のために何かすることで、毎日を作っていたんだなって」
マスターは静かに聞いていた。
「役目がなくなったみたいで」
女性の声が少し震える。
「空っぽのお弁当箱を見ると、
自分まで空っぽになった気がして」
マスターは、カウンターから小さな紙袋を一つ持ってきた。
「こちらを」
「?」
中には、小さな焼き菓子が入っていた。
「お持ち帰りください」
「どうして?」
「明日の朝、何か一つ詰めてみてはいかがですか」
「お弁当箱に?」
「ご自分のために」
女性は目を丸くした。
「自分のために……」
「はい」
しばらく考えてから、笑った。
「自分のお弁当なんて、考えたことありませんでした」
「今度は、ご自身が食べたいものを」
女性は少しだけ目を潤ませた。
「卵焼き、入れてもいいですかね」
「もちろん」
「好きなんです。私も」
今度は、ちゃんと笑った。
サンドイッチをもう一つ手に取る。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
食べ終えると、女性はバッグからスマートフォンを取り出した。
「今度、娘に聞いてみます」
「何をでしょう」
「一人暮らし、ちゃんと食べてるか」
少し間を置いて、
「でも、心配だからじゃなくて」
笑顔で続ける。
「今度は、お互いに何を食べたいか聞いてみます」
「それがいいですね」
女性は立ち上がった。
「空っぽだったのは、
お弁当箱じゃなかったのかもしれません」
「……」
「中身を入れ替える時期だったのかも」
そう言って、紙袋を大切そうにバッグへしまう。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
女性が店を出る。
しばらくして、店内に静けさが戻った。
喫茶リセットでは、
空っぽになったものを、
無理に元へ戻すことはしない。
空いた場所には、
新しい何かを詰めればいい。
今度は、自分のために。




