第70話「忘れ物のない帰り道」
夕方の喫茶リセット。
窓の外では、薄い雲の向こうに夕日が沈みかけていた。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、二十代後半ほどの女性だった。
「いらっしゃいませ」
「……紅茶をお願いします」
女性はカウンター席に座った。
そして、バッグを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
「忘れ物をした気がして」
ぽつりと言う。
「何をでしょう」
「分からないんです」
紅茶が運ばれる。
女性はカップを両手で包み込んだ。
「さっきまで友達と会っていたんです」
「はい」
「楽しかったんです。
ちゃんと笑ったし、たくさん話したし」
それなのに、と続ける。
「帰り道になったら、
何か忘れてきたような気がして」
「大切なものですか」
「たぶん……」
女性は考え込む。
「でも、財布もスマートフォンもあります」
「はい」
「鍵もあります」
バッグの中を確認する。
「全部あるのに、
何か足りない気がするんです」
マスターは静かに紅茶を見つめた。
「今日、言い忘れたことはありますか」
「……」
女性の指が止まった。
「ありがとう」
小さく呟く。
「友達に、ありがとうって言ってなかった」
今日の別れ際を思い出すように、目を伏せる。
「いつも一緒にいるから、
わざわざ言わなくても分かってると思って」
「そう思っていたのですね」
「はい」
紅茶を一口飲む。
「でも、帰り道で思ったんです」
少し笑う。
「分かってることと、
言うことって、違うんですね」
「ええ」
女性はスマートフォンを取り出した。
画面を開き、友人とのメッセージ画面を表示する。
しばらく文字を打っては消す。
「なんて送ればいいでしょう」
「思ったことを、そのまま」
女性は少し考え、短い文章を入力した。
――今日はありがとう。楽しかった。
送信。
「……送れました」
「はい」
数秒後。
スマートフォンが震えた。
女性が画面を見る。
そして、ふっと笑った。
「『こちらこそ。また行こうね』って」
「よかったですね」
「はい」
女性はスマートフォンをバッグにしまった。
「さっきまで何か忘れてた気がしたのに」
立ち上がる。
「今は、ちゃんと帰れそうです」
「それは何よりです」
会計を済ませ、ドアの前まで歩く。
女性は振り返った。
「私も、ありがとうございました」
「こちらこそ」
ドアが閉まる。
夕方の風が、静かに店の前を通り過ぎていった。
喫茶リセットでは、
忘れ物は物だけではない。
たった一言の「ありがとう」が、
心の中に残っていることもある。
そして、それは今からでも届けられる。




