第69話「空白の予定表」
土曜日の午後。
喫茶リセットには、いつもより少し明るい光が差し込んでいた。
ドアベルが鳴る。
入ってきたのは、四十代ほどの男性だった。
「いらっしゃいませ」
「……コーヒーをお願いします」
男性は窓際の席に座った。
席に着くと、鞄から一冊の手帳を取り出した。
表紙は少し古びている。
何年も使い続けているのだろう。
ところが、開かれたページには、ほとんど何も書かれていなかった。
「予定、ないんです」
男性が苦笑する。
「仕事を辞めてから」
「そうですか」
「毎日、何をしたらいいのか分からなくて」
コーヒーが運ばれる。
「会社にいる頃は、予定表が埋まっているのが普通でした」
ページをめくる。
月曜日。会議。
火曜日。取引先。
水曜日。出張。
以前のページには、細かな予定がびっしりと並んでいる。
「忙しかった頃は、
空白が欲しかったんです」
「はい」
「なのに、今は……」
白いページを見る。
「空白が怖い」
男性は、コーヒーを一口飲んだ。
「何も予定がないと、
自分まで何もない人間になった気がして」
マスターはしばらく黙っていた。
「空白は、
何もない場所でしょうか」
「……違うんですか?」
「書く前の場所でもあります」
男性は手帳を見る。
「書く前……」
「予定を決めることもできますし、
何もしないと決めることもできます」
「何もしない、を予定にする」
「ええ」
男性は、少し笑った。
「変な予定ですね」
「空白を埋めるためではなく、
空白を楽しむための予定です」
男性はしばらく考えていた。
そして、ペンを取り出した。
真っ白な明日のページ。
そこに、ゆっくり文字を書く。
――散歩。
その下に、もう一つ。
――喫茶リセット。
「……これだけでいいですかね」
「十分です」
「前の手帳なら、
予定が二つしかないなんて考えられなかった」
男性は、ページを眺める。
「でも、今は少し楽しみです」
コーヒーを飲み干す。
「空白って、
予定がないんじゃなくて」
少し考えてから、続けた。
「まだ決まっていないだけなんですね」
「はい」
男性は手帳を閉じた。
「じゃあ、明日は空白のまま、
少しだけ歩いてみます」
「お気をつけて」
男性は立ち上がり、店を出ていった。
ドアが閉まる。
窓の外では、休日を楽しむ人たちが歩いている。
喫茶リセットでは、
空白の時間も、
新しい一日になる前の大切な場所なのだ。




