第77話「片方だけの手袋」
「これ、どうしたらいいと思います?」
女性がテーブルの上に置いたのは、片方だけの手袋だった。
冬の終わり。
まだ朝晩は冷えるものの、昼間には少し春の気配が感じられる頃だった。
「片方だけですか」
マスターが尋ねる。
「はい」
女性は笑った。
「もう片方、なくしちゃって」
手袋は、淡い色の毛糸で編まれていた。
少し毛羽立っている。
「捨てればいいんですけどね」
そう言いながら、女性は手袋を撫でた。
「捨てられなくて」
マスターは何も言わず、コーヒーを淹れた。
「これ、友達にもらったんです」
高校時代からの友人だった。
卒業してからも連絡を取り合い、何度か一緒に旅行にも行った。
けれど、二人とも忙しくなり、少しずつ会わなくなった。
「去年の冬、久しぶりに会ったんです」
そのとき、友人がくれたのが、この手袋だった。
「『寒いから使って』って」
女性は笑った。
「たいしたものじゃないよって言ってましたけど、私は嬉しくて」
それから毎日のように使った。
そして先日。
電車を降りたとき、片方だけがなくなっていることに気づいた。
駅に問い合わせても見つからなかった。
「それからずっと、この片方だけ持ってるんです」
女性は少し困った顔をした。
「なんか……友達との時間まで、片方なくなったみたいな気がして」
マスターは、テーブルの手袋を見た。
「もう一度、同じものを買うことはできますか?」
「たぶん無理です。何年も前のものなので」
「では、似たものを探すのは?」
「それなら、できると思います」
女性は少し考えた。
「でも、同じじゃないですよね」
「ええ」
「だったら意味がない気がして」
マスターはコーヒーを置いた。
「同じである必要がありますか?」
女性は答えなかった。
しばらくして、
「……分かりません」
と呟いた。
マスターは窓の外を見た。
「片方だけ残ったからといって、もう片方が存在しなかったことにはなりません」
女性が顔を上げる。
「友達と過ごした時間も、同じです」
「……」
「今は会う回数が減っていても、なくなったわけではありません」
女性は手袋を見つめた。
「そうですね」
少し笑う。
「私、なくした片方を探すことばかり考えてました」
「見つかるといいですね」
「はい」
そして、少し間を置いて言った。
「でも、見つからなくてもいいのかもしれません」
「ほう」
「だって、こっち側はちゃんと残ってるから」
女性は手袋を手に取った。
「それに……」
スマートフォンを取り出す。
「久しぶりに、連絡してみようかな」
友人の名前を開く。
メッセージを打つ。
――この前もらった手袋、まだ使ってるよ。
そこまで書いて、女性は笑った。
「これだけでいいかな」
「十分ではないでしょうか」
送信。
画面に小さく表示された。
送信済み。
女性はスマートフォンをしまった。
「なんだか、手袋より先に友達を見つけたような気分です」
マスターは静かに笑った。
「それはよかったですね」
女性が店を出たあと。
テーブルの上には、小さな毛糸の糸くずがひとつ残っていた。
マスターはそれを拾い、窓辺の小さなごみ箱へ入れた。
片方だけの手袋は、両手を温めることはできない。
けれど。
片方だけになったからこそ、
大切だったもう片方を思い出すこともある。
失くしたものは、戻らないかもしれない。
それでも、
残っているものまで、
一緒に失くす必要はない。
冬の終わりの風が、
静かに店の前を通り過ぎていった。




